ハナの逆襲――記憶にございません
フラフラとまるで幽鬼のように宮殿内を彷徨う皇帝の顔色は、いつにも増して青い。それが、赤い髪と相まって目に厳しい。
――式まであと、十日……そろそろハナに報告せねば……はぁ
濃い隈をくっきりと浮かび上がらせた皇帝は、ハナと侯爵の逢引場所へやってきていた。
侯爵はまだおらず、ハナがミノタウロスの赤ちゃんとお昼寝をしていた。
ハナの穏やかな寝顔に目が釘付けになったまま、ストンと横に座り、そっとハナの頬に手を伸ばす。
暖かな日差し、穏やかな時間に皇帝の心も癒されていった。
「ハナ……余は、そなたに傍にいて欲しい。だから……余は決めたのだ、ア……」
「陛下? こんなところで何してるんですか?」
「ハ、ハナ! 起きておったか」
むっくり起き上がったハナは驚いた顔で皇帝を見つめいてる。
「あ、あのだな……余はそなたと――」
「陛下、あたしは侯爵様のところに行って、ミノちゃんたちと過ごすことに決めました」
ミノちゃんを間に手を繋いだ侯爵とハナが微笑んでいる。まるで、一組の幸せな家族のようだ。
「待ってくれハナ!」
――なにぃ!? これも夢か!? いつぞやと同じパターンではないか! いや、現実なのか!?
そんな皇帝の気持ちなど知らず、三人は遠ざかっていく。
――行くな、ハナ! ハ、ナ……うぐぅっ! 胸が、痛い! 苦し、息ができな……!
あまりの苦しさに胸を抑え膝を着く皇帝。
――余は死んでしまうのか……? ハナ、ハナ……ハナーー!
皇帝は耐え切れずに涙をポロポロと零し始めた。
「ハ、ナ……」
「モ!」
「こら、ミノちゃん、何をしている! いくら陛下でも窒息してしまう」
「モーモ? モ!」
交互に聞こえる子牛の鳴き声と、低く通る声に皇帝の意識が浮上してきた。
「モ!」
「……「モ!」?」
「陛下。申し訳ございません」
「む?」
目を開くと、叩頭する男が目に飛び込んできた。そして自分の胸に何かが乗り、鼻が塞がれていることにやっと気付いた。
皇帝がハナの横でウトウトし始める頃に目覚めたミノちゃんは、見知らぬ男に気付いた。その男に興味が惹かれて、その胸によじ登るが起きない。胸の上で飛んだり跳ねたりして、ついでに鼻の穴に指を突っ込んで楽しく遊んでいた。
苦しくて涙も溢れてくるわけだ。
「申し訳ございません、陛下。お尻ペンペンだ、ミノちゃん」
鋭い目付きで赤ちゃんを一睨みすると、赤ちゃんは皇帝の顔にへばりついた。
「モ、モー……モ」
「うむ、良い。頭を上げよ侯爵……言葉の分からぬ幼子をそこまで叱ることはない」
ミノちゃんに懐かれて悪い気はしない。先ほどの夢のように、今度は皇帝がハナと二人でミノちゃんを間に挟んで散歩をすることができる。
――うむ、なかなか良いではないか!
と、妄想を繰り広げていると、ハナが起き上がったので早速実行に移そうと声を掛けた。
「おお、ハナ。目が覚めたか……余とミノちゃんと少し散歩を――」
「あら、陛下」
そして、アレスの声に遮られた。
*
「ほほほほ」
「ははは……は」
「おお、アレス様もペットが好きと……ふむ」
ハナ、皇帝、アレス、侯爵、ミノちゃんとドラコ、という奇妙な組み合わせでその場は微妙な雰囲気を放っていた。
「ええ、ミノちゃん。可愛らしいですわ」
そして、やはりハナは面白くない気持ちを味わいつつ、アレスの動向を最近見張っていないことを思い出した。職務怠慢な自分自身に溜息が出てくる。
だが、こうして見ているとアレスが何かを企んでいるようには見えない。
「そうだ、ハナ」
そんなハナに侯爵が話しを振った。
「ミノちゃんのモノマネは陛下に披露したのか? ぜひ見せて差し上げると良い」
侯爵の提案にハナは顔を引きつらせ、皇帝も面白くない気持ちになった。
まるで、すでにハナが侯爵の物になったかのような言い方。
――ハナはまだ、余の……いや、まだ決めたと聞いてないから余は認めん!
皇帝が瞳孔を開いて何かを滾らせていると、アレスが突然立ち上がった。
「モノマネでしたら、私、得意ですの!」
――アレス何を言っておる? 確かにゴリラの顔真似は出来は良いが……
「「これはカツラじゃなくて植毛だー。はい、佐藤、次の問題解けー」」
アレスの意味不明のモノマネに皇帝と侯爵は首を傾げた。
だが――
「アハハハッ! ソックリー! 現国の太田先生だー!」
ハナが大爆笑し始めたのだ。
「ねぇ、ハナ。じゃあ、これは? 「ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた、1837年~」」
「あっ! その、やたら発音の良い「ヴィクトリア」は世界史の美代先生!」
ゲラゲラ笑うハナに乗せられて、アレスは皇帝と侯爵の理解できないモノマネを連発し始めた。
**
「アレス、最高……!」
「じゃあ、最後ね!」
ハナの苦しそうだが楽しそうな笑い声に釣られて、彼らの周りには人だかりができていた。
調子に乗ったアレスを止める者はおらず、誰もが微笑みながらその様子を見守っていた。
アレスは下を向くと、ゴソゴソと何かをやり始め、ハナは期待に輝かせた目でそれを見つめた。
「お父さんの真似!」
顔を上げたアレスは鼻の穴両方に人差し指を突っ込んでいた。
「「ハナー、両方の鼻の穴一度にほじると効率的だぞー……あ、鼻くそが奥に!」」
バカ丸出しのアレスにその場は水を打ったかのように静まり返った。
否、ただ一人笑い転げている者がいる。
「ぶっ! あ、あ、あたしの、お父、さん、ソックリー! ギャハハははっハハッ! ひっ……!」
いくらハナでも、それだけは絶対にしなかった。人目がなくとも絶対にやらなかった――超えてはいけないラインだ。
だが、そのラインをアレスはいとも簡単に大勢の前で飛び越えてしまったのだ。しかも、大笑いしながら。ハナはそんなアレスを尊敬して、疑ったことに申し訳ない思いで、だが大爆笑している。
「ア、アレス……アレスのお父さん、あたしの、お父さんみたい……ぷふっ!」
呆気に取られた顔でアレスを見ていた皇帝の顔が厳しくなった。
――おかしい……なぜだ? アレスの記憶ではないのか?
そして、ハナと一緒に笑い転げていたアレスは突然、愕然とした表情で周りを見回した。鼻に指を突っ込んだまま。
「わ、私……何を……」
そして笑い転げるハナを恐ろしい形相で睨み付け、詰め寄った。
「ハナ! あなた、一体私に何をしたの!?」
「ふぇええ? ちょ……鼻ほじった指で触んないで! えーんがちょ」
どこまでもふざけたハナの態度にアレスは顔を真っ赤にして、怒りでワナワナと震え出した。
「とぼけないでよ!?」
「何が?」
キョトンととぼけた顔のハナにアレスの怒りがとうとう爆発した。
「あなた、私に、変な記憶移したでしょう!?」
「ふぇ……? 全く、記憶にありませんが?」
本当に分からないハナは、アレスがワザと怒った振りをしていると思いニコニコしている。
「それにしても、アレスのお父さんって面白いんだね!」
「ば、馬鹿にしないで頂戴! 私の父はガザルバニアの国王よ!」
「ふぅん……国王様もダブル鼻ほじするんだねぇ」
「そんな訳ないわよ! それに、これ! どうしてくれるの!?」
癇癪を起こしたアレスは自分の頭に手をやると髪を引っ張った。ハナだけでなく誰もが目を見開いて見つめる中、アレスの髪の毛がズルリと落ちた。
「え……? アレス……いくらなんでも、はっちゃけ過ぎじゃない……?」
誰もが唖然とした。
皇帝陛下も、さすがのハナも唖然とするアレスの丸坊主スタイル……。
***
「もう少し手触りが良くなるかしら?」
「ええ、どのような手触りでもご希望のままに。サラサラ、艶々、トロトロ。個性的なツブツブやプチプチなどもございますよ」
「そうね、ツルツルでお願いするわ。それと短めにして貰えるかしら」
「承りました」
皆さんはもうお分かりだろうが、まだお分かりでない爬虫類系美形の王族御用達美容師は腕を振るった。
「もう少し短くして」
「賜りました」
「もう少し短く」
「賜りました」
「もう少し」
「賜りました」
*
*
*
*
「本当に、宜しいのでしょうか……?」
「ええ! すごいツルツルになったわ! 素晴らしい手触りね!」
「喜んでいただけて、何よりでございます」
本来の腕を発揮できなかった美容師は、アレスの頭を直視できずに目を泳がせた。本人が良いと言うのだから言いのだろうが、本当に良いのだろうか。
彼は念のため、アレスの髪を培養してすぐにカツラを用意した。
そして、必要のないヘアケアセットも用意した。
「では、こちらに置いておきますので……私はこれにて、失礼いたします」
「ええ、またお願いね」
鼻歌を歌いながら鏡を見ていたアレスの顔が突然強ばった。目を見開き、口を開けた表情のまま。
その直後、皇帝陛下の居室から悲鳴が上がった。
***
「あなたのせいよ! ハナ!」
「なんで? でも、それすごく似合ってる……やっぱり美少女は違うなぁ……」
「許さない……」
詰め寄られながらもハナが感心していると、アレスはブツブツと口の中で何かを言い始めた。
それと同時にアレスの魔力が凝縮していき、広げたアレスの手に燃え盛る炎が現れた。
「全てを燃やし尽くす炎よ――」
「きゃあああっ!」
「ハナ!」
皇帝の動きは早かった。
すぐにハナを抱きかかえ、後退するとハナの立っていた場所が炎に包まれている。
集まっていた見物人たちも身構えて、アレスの動きに注視している。
「アレス……そなた、何のつもりだ?」
「ほ、ほほほほ! 死ねば良いのよ、そんな異界のゴミ屑なん――ぐぅっ!」
炎を纏い、憎々しげにハナと皇帝を睨んでいたアレスが苦しげに呻きながら膝を着いた。
アレスの首に黒い模様が浮かび上がり、全身に広がっていく。
「その紋様は……」
「あああああああっ!」
衆人環視の中、黒い禍々しい模様に覆われたアレスは倒れ臥した。