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『あははは!』
少女たちの楽しそうな笑い声が聞こえる。彼女たちは笑いながら通りを歩き、同じ服装で同じ年頃の少年少女がたくさんいる建物へと入っていく。
アレスはそれをチラリと横目で見ながら通り過ぎた。
『やだ、お父さん!』
紺色のブレザーを着た少女がパンを食べながら、年配の男に嫌な顔を向けたがすぐに笑い出した。母親は窘めながら、やはり笑っている。
やはりアレスはチラリと見ただけで通り過ぎた。
『手触りの良さを所望する』
五分刈りの少女が鏡を見て唖然としている。
ここまでの平和な景色にアレスの苛々が募ってきた。
――……どれもこれも、下らない記憶ばかり
アレスには必要のない記憶ばかりだが、ここのどこかに世界を支配する鍵がある。
魔力開放の儀式。
それは、ディリアの神々の記憶と知識の扉を開き、秘技を体得することにある。
そこには神々の成り立ち――即ち、神々を支配する鍵も秘められている。
一刻も早く鍵を探し出して、ガザルバニアに持ち帰らなければならない。
いつまでも、遊んでいる暇はアレスにはない。
こうしている間も、神の言葉はアレスの魂も体も蝕んでいる。
人に神の言葉が理解できるであろうか。
否、神の言葉は人の魂を焼き尽くし跡形もなく滅ぼす。
アレスは、禁忌を犯した。
その資格を持たないのに、ハナが得たものを掠め取ることによって、神の知識と記憶の扉の三つの鍵を身のうち抱えることになった。
死の鍵。
生の鍵。
光の鍵。
もうひとつの鍵を見つける前に、ハナは消え去った。
最後の一つだ。
それが見つかれば、アレスは神の領域へ至る扉を開くことができる。
三つの鍵を手に入れた代償は高くついた。魂が滅ぼされる前に最後の一つを見つけなければならない。
アレスの間違いは、儀式を通過したハナと同調したことから始まる。同じ年齢、同じ背格好、同じ黒髪。
何が共通したのかは分からないが、アレスはハナと意識が同調し始めたことをすぐに理解した。
高貴な血筋――ガザルバニア王の血を引くアレスは、異界の馬の骨に劣るなど思いもしなかった。だから、同調してハナの意識が流れてくると、自分が儀式に失敗したことが間違いであると確信した。
傲慢にも神の知識を物にできると自惚れた。
そして、魔力の高いアレスに使い途があることを理解していた。だが、自分の血を引くことは知らない。
「勇者など後々邪魔になるだけだ。魔王討伐後、上手く処理せよ」
「御意……陛下にご報告がございます」
王は、アレスの報告にガザルバニアの王は神を支配する力を手に入れられると狂喜した。
――早く見つけないと……
ハナの意識の中を歩いていくと次第に景色が色褪せてきた。そして遂に世界はモノクロになり、突然視界が二分割される。朝焼けや夕焼けのように赤い空と、暗い大地が地平線で区切られている。
大地には一切光は射さず闇色とセピアのような空に遠近感が狂ってくる。それでもアレスは歩かなければならない。
――ああ……苦しい……痛い
行かなければ、早く最後の鍵を見つけなければ破滅が待っている。
――ああ、分からない……分からない……鍵はどこなのよ!?
痛みで歩みを止めると、大地と空が割れた。
足元に奈落が広がり、赤く染まる天上には楽園が広がる。
地鳴りが響き、澄んだ鐘の音と獣の咆哮で包まれる静寂。
ここは生きた人間の存在が許されない場所。
アレスの体は四つに割かれた。
――痛い! やめて、私の体を元に戻して……ああ……!
割かれた体は、それぞれ四人の神の使者――天使、死者、葦、獣が持ち去っていく。
――ああ、ああ! ……お前が、最後の一つ……
****
「アレス……アレス、大丈夫か?」
「はっ……!」
悪夢に魘されつつ二度寝した皇帝は、アレスの唸り声で目が覚めた。
「アレス……だいぶ魘されておったぞ?」
「起こしてしまいましたか? 申し訳ありません、陛下……」
皇帝は、ああ、うん、と返事をしつつ大きな溜息を吐いた。
アレスはそんな皇帝の顔をじっと見つめている。
そんな皇帝の胸に体を寄せるアレス。どうしたのだろう、と思いつつ少しドギマギしながら背中に手を回すと、アレスがそっと顔を上げた。
潤んだ瞳、赤みのさした頬、何かを強請るような唇。
――む……この雰囲気、もしかしなくとも……
鈍いくせにやたら経験の豊富な彼は察した。だが、とてもじゃないがそんな気分になれない。じくじくとした胸の痛みはまだ引かず、気を緩めると泣いてしまいそうだ。
――ハナは、アレスと結婚すれば喜ぶのか……む、待つのだ、余。アレスと結婚するから、ずっと余の傍にいてくれ、とお願いしたらどうだろう?
混乱の極みに達している人間は録なことを考えないが、どうやら魔王もその傾向にあるようだ。
そしてアレスを見つめる。
いつもに増して積極的でその気満々なアレスをどうしようか。
――この状態で断れば、乙女に恥をかかせることに……怒らせて結婚できなくなるのは困る……
気が利くのか何なのかよく分からない皇帝は必死で考えたあげく、良いことを思い付いた。
「あのな、アレス……余はそなたと結婚したい」
「は、はい……私も」
ムードもへったくれもない物凄くあっさりなプロポーズは、やはりあっさり受け入れられた。
「それでだな、余は、結婚相手とは、式を挙げて初夜にそういうことをしたいのだ……余の子供の頃からの夢なのだ!」
「陛下……分かりました」
果たして、魔王に子供の頃があったかどうかは誰も知る由もない。
そして上手く誤魔化した皇帝は、早くアレスと結婚してハナを喜ばせたい一心で話しを進める。
「半年後を目処に式を挙げようと思うのだが……」
「嬉しいです……でも」
「なんだ?」
「私、早く陛下のお嫁さんになりたいです」
「そ、そうか? でだが、ドレスやらウェディングエステやら、色々準備が必要であろう?」
首を傾げる皇帝にアレスは頬を染めて俯いた。
「私、そんな高価なドレスは要らないです。陛下と、その……早く、結ばれたいだけです」
一見、健気な態度に普通の人なら心が打たれたかもしれないが、相手は皇帝だ。
――そうか。早くハナを喜ばせられるな……
「分かった、では来月辺りどうだろう? 何日が良い?」
「はい、来月の二十五日が良いです」
話しがまとまるのは早かった。
***
「アレスと結婚する、来月」
徐に告げた皇帝の顔色はとても悪かった。セルゲンは突然の言葉に驚いたが、顔色に反して迷いのない皇帝の言葉に黙って頭を下げた。
「心よりお祝い申し上げます。早速、帝国全土へ報せる手配を――」
「待て! 待つのだセルゲン! 誰にも言ってはならぬ!」
皇帝は咄嗟にセルゲンに口止めをした。
なぜかは彼自身分からなかったが、誰にも知られたくない、と強く思った。
「なぜですか?」
「う、うむ、その……臣民を驚かせようと思ってだな……そんな感じだ」
「御意。では、内密に準備を進めましょう」
「ああ。式は内々でひっそりあげて、それからお披露目パーティーを大広間で……ぐっ! ガハッ!」
「へ、陛下!」
式の予定を立てながら、血を吐く皇帝を誰か止めるべきだろう。
「血を吐くほど待ちきれないのですね。微力ながらお手伝い致します」
「た、助かるぞ、セル……ぐはっ!」
今度は血色の瞳から血を噴き出した。
こうして断末魔のごとき叫びと血塗れで着々と進められる式の準備。
一方アレスはいつになく晴れやかな顔で、美容師を呼んだりエステに勤しんでいる。真っ白なウェディングドレスは皇帝と相談しながら、瞬殺だった。
そして最後の鍵を見つけたアレスは、皇帝をディリアへ連れ帰る準備も進めていた。
結婚式など挙げる気はない。
初恋の乙女との結婚に浮かれて油断しているところを襲撃するつもりだ。
だが、今の魔力では心許ない。ハナから奪った力は強大だが、やはり他人の物は馴染まない。どこまでも能天気なあの男が、どれだけ油断しても十分ということはない。
そして、やはり邪魔なのがハナだ。気が付くとコソコソと後を付け回してアレスを見張っているのだ。
――もう、あの猿に用はないわね……
ハナを殺すことに躊躇はない。
自分の命と比べればゴミ屑みたいなものだ。
「ハナのところへ行ってくる」
「……行ってらっしゃいませ、陛下」
ゴミは片付けなければならない。