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さて、ハナと侯爵の逢引の噂は当然ながら皇帝陛下の耳にも届いていた。それを聞きとがめた皇帝は、現場を確認しようとハナを探してうろうろ彷徨っていた。
――だが、確認してどうしようと言うのだ、余は……
表向きは未だハナは皇帝のペットだが、もし、ハナが侯爵とともに生きることを望んだら快く送り出してやらねばなるまい。
『早くアレスと結婚できると良いですね!』
満面の微笑みでエールを贈ってくれたハナのように。
――余は、余は……
「おお、ハナ……と侯爵」
ほどなくして、二人を発見した皇帝陛下は柱の影からそっと盗み見を開始した。
「こんにちは、侯爵さま!」
ニコニコしながら歩いてくるハナにクアウトリー侯爵は頷いた。
ミノちゃんは相変わらず昼寝をしている。いっぱい寝て早く大きくなると良いね、と優しい気持ちで見守るハナは知らない。ミノタウロスは大人になると三メートル超の、巨体になることを。
「あ、侯爵さま、ちょっと見てください!」
ミノちゃんが起きるまで、先日、イオとセテに大好評だったミノちゃんのモノマネをやることをなぜか思い付いたのだ。
「モ、モー……モーモ?」
ミノちゃんを観察する時間が増えてやたら完成度の高い芸に、無骨で生真面目で無類のペット好きの男の感性は大いに刺激された。
いつぞやの様に抱きしめてグリグリする侯爵。
「……ハナ……俺の物にならないか?」
そして、それを見て愕然とする皇帝。
もはや愛の告白にしか聞こえない侯爵の言葉は皇帝の地獄耳に確り届いた。
*
――早くアレスと結婚できると良いですね!
「ち、ちがう! 余は!」
嬉しそうに、エールを送ってくれるハナが、侯爵と手を繋いで遠ざかっていく。
伸ばしても手は届かず、気付くと隣にヴェールを被った白いドレスの人間が立っていた。魔力ですぐにアレスだと気付いたが、花嫁衣装を身に着けいていることに首を傾げた。
「ア、アレス? なぜそのような格好を?」
「陛下と私の結婚式ですもの」
――はて、いつの間に? だが、アレスと余が結婚をすればハナは喜ぶのであろうか?
「では、誓のキスを」
セルゲンの声が響き、皇帝はヴェールをそっと上げた。乙女との結婚式なのに、なぜか気が進まない。だが、ハナを喜ばせようと気持ちを奮い立たせてヴェールを上げる。
「んなっ……!」
そこにいたのは、アレス顔のゴリラ。いや、ゴリラ顔のアレス。どちらか分からないが、結局ゴリラだ。
神父の装いのセルゲンを見遣るも、彼は至極真面目な顔でキスを急かす。
「「キッス! キッス! キッス! キッス!」」
そして周りから上がるキスコール。
まるで悪ノリした酔っ払い集団だ。
――違う! そうじゃない……余は、余は! ハナと……
「陛下?」
不思議そうな顔で唇をキスの形に尖らせたゴリラの顔が近づいてくる。
――余の唇が!
その時皇帝は何かを悟った。
「ち……違う! 余は、ハナとキスを……!」
大きな声に目が覚めると、自分のベッドで寝ていた。目を擦りながら荒い呼吸を繰り返し、夢だと再確認するが胸にぽっかり穴が空いたような喪失感が拭えない。
「それにしても、嫌な夢をみた……」
百歩譲ってゴリラと結婚式は良い。ハナが喜ぶなら良いのだ。
だが、ハナが自分の許を去り別の男の許へ行くのは、耐えられない。クアウトリー侯爵と手を取り去って行くハナの姿は、夢だったのに鮮明に思い出せる。
「だ、ダメだ……胸が痛い……なんなのだ、これは……痛くて死にそうだ」
その痛みに耐えられないことに気付いてしまった。
だから、隣で寝ているはずのアレスがいないことに気が付かなかった。
***
「連絡が遅くなって申し訳ありません、陛下」
『何をグズグズしておった』
「申し訳ございません、一人になれる機会が取れずに……」
『ふん。して、首尾はどうだ?』
「はい、もう少しです」
『以前もそのように申しておったなではないか』
「……申し訳ございません、ハナの記憶がごちゃごちゃで、肝心のことが……」
『言い訳は聞きたくない! 次は良い報せを持ってくるのだぞ』
「御意……」
尊大な男は返事を待たずに通信を切った。
薄暗い人気のない廊下で、通信をしていた人影――アレスは舌打ちをした。
皇帝の塔の警備は意外と甘い。塔内は各階に十名の警備が配置されているだけで、残りはシステム管理がされているだけだ。杜撰だが、それだけ帝国内が平和で皇帝の統治が優れているとも言える。
宮殿内を歩き回り、人気のないところを探すのに辟易していたアレスがそのことに気付いたのは昨日、散歩から帰ってきてからだ。
「苛々する……」
皇帝を始め、ここの奴らの能天気ぶりに。
だが、能天気な分隙だらけで誰もアレスを疑うことをしない。皇帝が初恋の乙女と言ってチヤホヤするものだから、周りもそれに倣う。あんな馬鹿な男に我が国がザルバニアが手こずっていたなど信じられない。
最大の難関だと思っていたハナの記憶も予定よりとあっさり奪えた。
後は皇帝――魔王をディリアに連れ帰るだけだ。
「う……」
アレスの顔が痛みに歪んだ。寝巻きの袖を捲ると、黒い模様が二の腕を覆うように浮かび上がっている。模様は生き物のようにアレスの腕に絡みつく。
「……っつ」
もう、時間がない。茶番劇を終わらせ、速やかに魔王を連れ帰らなければ。
痛みだけではなく、憎悪に顔を歪めていたアレスの顔が突然虚ろになり、腕の模様が消えた。
「は……ここは」
ハッとして周囲を見回すアレスの表情はいつもの穏やかな物に戻っていた。