3
「あー……くそっ……あー、コノやろ!」
庭園の隅で罵りながら玉砂利を蹴っているのは、五分刈りのジャージを着た少年――ではなく、ハナ。
ハナの立場は以前より微妙なものになっていた。皇帝陛下がハナをどのように扱っていいのか分からず、当たらず触らぬの扱いをしているせいで周りもそれに倣う形になっているせいだ。
無碍に扱われているわけでもなく、だからと言って何かをさせてくれるわけでもない。ただ日々を無為に過ごしていた。
まさしく飼い殺しの状態に、フラストレーションは貯まる一方だ。
――……ほほほ
やさぐれながら石を蹴っていると、遠くから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。無意識のうちにハナの足はそちらへ向かっていた。
いくらも歩かないうちに会話を楽しむ美しい人たち――人間ではないが――が目に入ってきた。優雅な一団はおそらく後宮の女性や男性なのだろう。
そうして、彼らを見つめていたハナの顔が歪んだ。彼らの輪の中で楽しそうにしているアレスに気付いたからだ。
――笑い声に釣られて、来るんじゃなかった
唇を噛み締め手を握り締めるハナは、ふと思いついた。皇帝陛下がハナとアレスを合わせないようにしているためか、あれっきり二人で話しをすることがなかった。
――アレスともう一度話し合うチャンスじゃない?
とにかく、なんの力も持たない今のハナには話し合う以外手はない。アレスが折れるまで食らいつかなければ。
茂みに隠れて、お茶会が終わるのを辛抱強く待つ。魔力は残っていないが、鍛えられた忍耐力は健在だ。
****
どれくらい待っただろう、ハナはお茶会が終わり一人で歩くアレスの後を急いで追い始めた。誰かに見咎められる前にアレスを捕まえなければならないのに、ハナはただ後を付けていた。
――なんで、そっちに行くんだろう?
アレスが皇帝の塔へ向かう途中で、突然進路を変えたのだ。気晴らしに散歩でもしながら歩いているのだろうか、と思ったがどことなく周囲を警戒しているように見えた。
案の定アレスは人気のない薔薇園へ入り、一瞬周囲へ目を向けたと思うと、薔薇の垣根の影にス、と入っていった。
ハナは直感で音を立てずに素早く近づき、耳を澄ませた。アレスの声と、何かくぐもった声が聞こえてくる。
「――。大丈夫です」
『そう――。ま――だ?』
「全て――進んでおります。術が――で、気付かれ――」
『――王の――は』
ところどころしか聞き取れないが、怪しいことこの上ない。
アレスは一体誰となんの話しをしているのだろう。
「あと、少し――魔王を――」
――魔王……って陛下? 陛下が何!?
もう少し、と身を寄せた時にバランスを崩し、生垣に体が当たり葉擦れの音を立ててしまった。
しまった、と思ったときにはアレスが生垣の影からひょっこり現れた。
「あら、ハナ。そんなところでどうしたの?」
「……アレス」
いつものように微笑みを浮かべるアレスにおかしなところは見当たらない。そんなアレスは、尻餅を付いているハナに近寄ると腕を掴んで立たせた。
「一緒に部屋に帰りましょう、ハナ」
「アレス、今、誰となんの話しをしていたの?」
「なにを言っているの? 私はお茶会が終わってからはずっと一人よ?」
不思議そうな顔で首を傾げてハナを見つめるアレスに苛々が募っていく。
「嘘言わないで、今だれかと喋ってたでしょ? 魔王がどうとかって……」
だが、アレスは哀れみと罪悪感の篭った瞳で詰め寄るハナを見つめた。
「何のこ――っごめんなさい、ハナ」
ハナの眼差しに射抜かれたアレスは目を逸らして謝罪の言葉を発した。
「アレス、やっぱり何か隠して――」
「私のせいでそんなになってしまって……」
「はあぁ?」
本当は、「ああ”、んだとゴルァ」と凄みたいところを寸でのところで堪えた。
「幻聴まで聞こえるようになってきたのね? ねぇ、ハナ?」
ハナから逸した目に涙を浮かべながら訴えるアレスにハナがとうとうブチギレた。
「あたしはおかしくないの! おかしいのはアレスじゃないの!? 人の記憶も魔力も横取りしたあげく、こそこそして!」
「ごめんなさい……ごめんなさい、ハナ。私のせいだわ……」
「謝って欲しいんじゃないの。どうしてあたしの記憶とか魔力を取ったの? 何が目的なの?」
「私も分からないわ」
アレスの言葉にハナは、え、と目を見開いた。
横取りしたことを認めたのだろうか。
「なぜ、ハナがそこまで私に同調してしまったのか」
もう、お話にならない。
アレスは白をきり、このままでは水掛け論にしかならない。しばらく俯いていたハナだが、何かを思いついたように顔を上げた。
「……分かった、じゃあ、皇帝に頼んでどっちの記憶が本当か見極めてもらおう」
これだけ魔術も技術も発達している世界なら、他人の嘘など簡単に見破れるだろう。
それに、この提案を拒否すればアレスは嘘を吐いていることになる。
「ねぇ、アレス?」
アレスはハナに挑戦的な瞳を向けられて視線を彷徨わせた。
「私は……反対だわ」
「どうして? 何か都合が悪いことでもあるの」
目を光らせるハナに彷徨わせていた視線を定めると、アレスは頷いた。
「ええ、それでハナが納得するなら。そうしましょう」
***
「真偽を見極める、と?」
その日、皇帝が戻ってくるとアレスは早速皇帝に頼みに行った。ハナが頼んでも皇帝はやってくれないだろうが、アレスの頼みであれば引き受けるだろう。
「できるが、なぜだ?」
「ハナを納得させないと可哀想です……私の記憶を引き摺ったまま、先に進めない」
「それは、そうだが……」
皇帝はあまりいい顔をしない。
嘘を見極めるというよりは、記憶を再現することになるため、当然嫌なことも体験したときと寸分違わず再現される。
あの、ハナの心を壊したという非道な儀式も、だ。
記憶再現は解決に困難を極める事件のときに利用されるシステムだが、精神に負担がかかる。特に、人間の血が濃いほどその傾向がある。純粋な人間のハナ、それと異界人とは言え人間と同じアレスにも負担が大きすぎる。
「いくらそなたの頼みでも、ならん」
いくら儀式を通過したアレスでも二度は持たないかもしれない。それに、ハナがこれ以上壊れてしまう危険は冒したくない。
「でも、陛下。ハナは幻聴まで聞こえるようになっているのです……これ以上おかしくなる前に……」
「ダメだ。そなたたちがこれ以上、嫌な想いをする必要はない」
「陛下……」
何かを訴えるように皇帝をじっと見つめるアレス。
「ダメだ」
「では、ハナはずっとこのままなのですか?」
刺すようなアレスの眼差しを受け止めながら皇帝は、最近考えていたことを溜息混じりに漏らした。
「ハナの、記憶をそなたに全て返そうかと、考えていた……」
そうすればハナは元のハナに戻るだろうし、アレスもこのことでこれ以上心を傷めなくて済む。何より、記憶をほじく返すより危険はない。元に戻すだけだから。
そう告げると、アレスは硬い表情で考えた後に頷いた。
「分かりました……」
「早めが良いな……では、明日の夕方に行おう」
「お願いします」
「ハナには後ほど、余から説明しよう」
「どのように説明するのですか?」
「そのままだ。ハナが同調してしまって得た、そなたの記憶を全て返すと――」
「陛下、それではいけません」
「なぜだ?」
「ハナは自分の記憶だと思い込んでいるのです、絶対に納得しません」
「アレス、そなたの世界では分からぬが、ここではそう言ったことは本人の同意を得てからやるのだ」
「それは……そうですね。では、私から説明してきます」
そう言うとアレスは皇帝が口を挟む間もなく、ハナの元へ向かった。
*
アレスが眠りに就くと皇帝はなんとなくその寝顔を見つめながら溜息を吐いた。
記憶の移し替えについて、ハナは渋ったようだがアレスの説得で納得したようだ。と、アレスは柔かな表情で伝えた。
――おかしい……
警鐘が頭の中に鳴り響いている。
明日には、ハナの記憶はアレスに返り元に戻る。アレスの心配事もなくなり、晴れて皇帝とバラ色の人生を過ごせるはず。良いことばかり。
なのに、胸に広がるこの蟠りは一体なんなのだろう。
――余にはさっぱり分からん……
小さな溜息をまた一つ吐くと、ベッドから抜け出して部屋を後にした。
夜の空気が皇帝の頭を覚ます。
彼は意識するともなく塔の天辺に立っていた。ポチと二人で眺めた景色は二つの衛生が地上を照らしてまた別の美しさを醸し出している。
不思議とこの景色をアレスに見せようと思ったことはなかった。
「そうか……アレスにも、見せてやらねばな……」
――明日の夜
ハナからアレスの記憶を戻して、そして元に戻ったら。
――だが、ハナに全てを返してやれるわけではない。元の時代には返してやれぬし……
ハナの望むようにしてやるのが、最良だろう。いくらでも援助しよう。
――もし……ハナが、ここを出ていきたいと行ったら?
そう考えて身震いした。恐れるものなどない彼が初めて恐れを感じた。