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アレスはサンルームのカウチに体を預けて目を閉じていた。その眉間には皺が寄り、ときどき唸るような声を立てている。
『アレス……?』
やつれ果てた女の顔に美しかった頃の面影は残っていない。年を取り、くたびれ、娘であるアレスに縋るような眼差しを向けている。
『慣れ慣れしく名前を呼ばないで』
女に名前を呼ばれたことがアレスの神経を逆なでする。それでも女はアレスに何かを訴えるような眼差しを向けることをやめない。
――……昔からこの人はそうだった
愚鈍で媚を売るしか能のない、卑しい女を唇を噛み締めながら一瞥する。今はもう、男に媚を売れるような年でも容貌でもない。だからアレスのところへ来たのだ。
『……これで足りるでしょう』
頭にすっかり血が上ったアレスは、付けていた高価なネックレスを外すと女に投げ付けた。女は俯きながらそれを拾うと無言で出て行った。その、浅ましい姿を見ていられず目を逸らすと体中に痛みが走った。
外側だけでなく内蔵も、頭も、心も細かく磨り潰されるような痛み。そして、バラバラのそれを粘土のように捏ね回し形にする。痛いのに気を失うこともできずに、痛みを受け入れるしかない。
痛みが引いて生きていることを確認すると、手にぬるりとした感触がする。手を見ると、血に塗れた手。目の前には魔物たちの死体が山のように積まれている。
――ああああああっ!
声にならない悲鳴が上がる、逃げようと振り返ればじっと立ち尽くしている少女が目に入った。
彼女は感情のない瞳でアレスと死体の山を見ていた。ただアレスたちの後ろから付いてくるだけの異界の少女、ハナ。
勇者として召喚されたようだが、彼女は全く役に立っていない。
アレス自身はそれで構わないと思いながら、旅をしていたがミレイユとファラはそんなハナが気に入らなかったようだ。
アレスはそんなハナが可哀想だと思った。
突然見知らぬ世界に連れてこられて、こんな過酷な旅へ出されて。だから、彼女が一刻も早く故郷へ帰れるように、と願った。
『くっ! ファラ! 魔王の動きを封じて!』
アレスは魔道師ファラへ指示を出した。
『アレス! 何をするつもりだ!?』
『転移魔法で魔王を別世界へ転送させるの!』
――これでハナを返してあげられる。私たちもこの戦いから解放される……全ての元凶、魔王さえいなくなれば!
『初恋の乙女……アレス』
穏やかな声に顔を上げれば赤い髪の男、魔王――皇帝が少し困った顔で立っていた。恐ろしげな色合いの男だが、整った顔立ちをしている。そして、穏やかな声の通り穏やかな性質の男だ。
――この男が魔王だったなんて……
ここで男を見ていれば、自分の間違いに嫌でも気付かされた。
もう、ここにはいられない。
『ポチを捜しているのだが……』
ハナは故郷へ戻ってきた。時間に食い違いがあるようだが、それはこの男がどうにかするだろう。
むしろ、帰れずに幸せかもしれない。
魔力開放の儀式が失敗して、死にはしなかったものの少しおかしくなってしまったハナ。
ここで皇帝陛下に大事にされて過ごすのが最良だろう。
――では、私は……
これ以上ここに留まっていてはいけない。彼の眷属を数多殺し、彼も殺そうとした。のうのうとここで暮らせる訳がない。
全て陛下に話して、出ていこう。
『出て行かないでくれ』
――私、ここにいて良いの?
*
目を開くと眩しい光が差し込んでくる。
こんなに穏やかな気持ちは初めてかもしれない。そして目に映る赤。
「目が覚めたかアレス」
「は、はい」
寝起きの頭と目に少々痛い色合いの男が、悲しそうな表情でアレスを見つめている。
「……悲しそうな顔」
「む、そうか? そんなことはないと思うが……」
「陛下」
「なんだ?」
「私、ここにいても良いのですか?」
「もちろんだ、もちろんだ!」
皇帝の返事にアレスは微笑みで返した。それから少し表情を曇らせた。大事な、とても大事なことだ。
「陛下」
「なんだ? なんでも申してみよ!」
「ハナのことです」
アレスがその名前を出すと、皇帝は得意げな顔をした。膝の件ならば話は付いている。もうアレスを悩ますことはない。
「うむ、叱っておいたぞ」
「いえ、そうではなくて、とても大事なお話です。できればセルゲンさんとエレウさんにも聞いていただきたいのですが」
神妙な声のアレスに皇帝は黙って二人を呼んだ。
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三人は静かにアレスの話しに耳を傾けていた。
ハナが地球からディリアに呼び出されたこと、儀式でおかしくなってしまったこと。そして、この時代の人間ではないことを。
話し終えると、皇帝は気まずそうな表情で視線を泳がせた。
「もしや……先ほどそのことを話そうとしていたのか」
なのに怒鳴ってしまった。
「だがなぜ、すぐに言わなかったのだ?」
「それは……」
セルゲイも気まずそうな顔をしている。時間移動を使った者は例外なく極刑である、とハナに以前告げていたからだ。
「だが、これは……特例であろう……」
「……では、ハナさんを元の時間にお返し致しますか?」
「それは、できぬ……セルゲイも分かっておろう?」
セルゲイは確かに、と頷いた。
今、ここにハナがいるということは、過去にハナが存在していない、ということになる。そして、未来――すなわち、現在はハナの存在が過去にいないことによって出来上がっている。
少しのズレでまっすぐ引いたつもりの線の終点が、長くなれば長くなるほど離れていく。ハナはそのズレに当たる。
「返してあげることはできないのですか?」
アレスの悲しみを帯びた声に、皇帝は頷いた。
「私、ハナに話してきます……」
「いや、余が話そう」
嫌なことをアレスに押し付ける訳にはいかない、と陛下が立ち上がろうとするのをアレスは制した。
「いいえ、これは私がしなければならないことです」
今なら分かる、悪いのは魔王ではない。欲を出して、魔王の領地に手を出そうとした国王、そして勇者と祭り上げられてその気になっていたアレスたちが悪いのだ。
彼らの私欲でハナの人生を狂わせてしまった、ハナ自身を狂わせてしまった。
「私が、話してきます」
ハナとちゃんと話をしなければならない。