6
皇帝陛下は苦悩していた。
昨夜からソファに座ったまま全く動かず一睡もしていない。偶に呻き声を上げるだけで瞬きすらしていない。
苦悩する表情は世界征服を企む――既に銀河を征服しているが――ような形相だが、セルゲンには皇帝が何か悩んでいることは分かった。一晩様子を見ていたが、あまりにも痛々しくセルゲンは甚だ不敬ではあるが兄になったつもりで優しく声を掛けた。
「陛下。何を悩んでらっしゃるのです」
「セルゲン……」
「さぁ、陛下の忠実なる僕に何でもおっしゃって下さい」
はぁ、と深い溜息を吐いて皇帝は口を開いた。
「昨夜、そなたらに尋ねただろう? 愛する女を抱きたいと思うか、と」
セルゲンの想像通り、彼の苦手な分野で悩んでいるようだがセルゲンはおくびにも出さず頷いた。
「はい」
「昨夜、余はアレスの寝顔を見ていて抱いてみたいな、と思ったのだ」
「愛しているのなら当然です」
「だがな、イオやセテを見ていてもそう思うのだ……」
「……陛下は魔王ですから……」
魔王だからなんだと言うのか。
「そうか? 余は不実な男ではないか?」
セルゲンには不実な男の定義は分からないが、慎重に言葉を選んだ。
「もし、陛下がアレス様だけを愛したいのならそうなさるべきです」
「そうか……良いことを言うな。セルゲン」
間違ってなかった、とホッとしたセルゲンだが、次の皇帝の言葉には答えが見つからなかった。皇帝の本当の悩みどころはここにある
「……あのな、余は以前ポチに対して欲情してしまったのだ」
――あ、そう言えば、脳内のハナさんが積極的とかなんとか?
そう言えばそんなことがあったな、と思い出すセルゲン。
「そのとき余は、ポチを抱いていみたいとは全く思わなかった。いや、そう思わないのに脳内のポチが迫ってきてだな、やむを得ず楽しい一時を……いや、ポチが迫ってくるからであって!」
手を出したらいけない、と皇帝は咄嗟に思ったのだ。あれがアレスだったら迷わず手を出していただろう。そもそもハナを側室とは違う扱いをしている時点で気付くべきなのだが、生憎……。セルゲンが見ても、他と違う扱いをして大事にしていることは分かったが、それが何故なのかまでは分からない。
皇帝はイオとセテに関しては全く疑問を持たず抱いてしまえるし、アレスに対してもだ。アレスはイオやセテと同列なのだが、初恋の乙女という言葉にすっかり惑わされている。
――ポチは何なのだろう。手を出したいわけではないのに、なぜ欲情してしまったのだろう
堂々巡りする思考に苦悩する皇帝。
そして役に立てず膝を着くセルゲン。
「陛下。イオ様にお尋ねしたらいかがでしょうか」
答えを持ち合わせていないセルゲンは答えを持っていそうな者の名前を挙げた。
***
イオの部屋に泊まったハナは久しぶりにスッキリした気分で目が覚めた。
「おはようございます! イオさん、ニネベさん!」
「おはようございます、ハナさん」
「おはよう、ハナさん。今日はお天気が良いからお庭で朝食いただきましょう」
「はい!」
ニネベが他の侍女に指示を出して朝食の準備を始めると、ハナもうきうきしながら手伝った。
侍女たちも加わった楽しい朝食を終え、お茶を飲んでいるとセテがふらりと現れてその場に混ざる。
「それにしても、ハナさんのその首輪? 随分、手の込んだものだねぇ」
セテは目を細めながらハナの赤い首輪に目を凝らした。ハナときどき邪魔そうに首輪や首を引っ掻いているので気になったようだ。一見、何の変哲もない首輪だが見る物が見れば霊獣の皮を鞣した逸品だと分かる。
「ウェ、ウェネリース公爵様にいただいたんです。しかも魔石? が裏に付けられてるって」
「まぁ、兄が? そんな無粋な物を……良く見せてくれる? もしかして取れるかもしれないわ」
はい、と言いながらハナが近寄るとイオはハナを膝に載せて首輪を観察した。継ぎ目も何もなくピッタリフィットしている首輪には皇帝の封印が施されて、他の者では取れないようになっている。ハナの首には所々引っ掻いた痕が付いて赤くなっている。
「駄目だわ……陛下に取っていただかないと。引っ掻いてはダメよ、ハナさん」
「はぁい。あ、ウェネリース公爵さまってイオさんのお兄さんなんですね!」
「ええ、兄が公爵家の現当主をしているのよ」
イオの両親は死んでしまったのだろうか、とハナはそこもあまり突っ込まなかった。
「わたくしの両親はもう引退して、パイモン卿の惑星を買い取って枝豆栽培をしているのよ」
だが、イオは微笑みながらハナを膝に載せたまま頭を撫でて安心させるように言った。イオの両親が健在と聞いてハナはホッとして、目を輝かせてイオを見つめた。
「良いな! 枝豆栽培、楽しそう!」
「では、そのうち行きましょう。いつが良いかしら?」
「私も一緒に行っていいかな?」
三人で旅行の話をして笑っていると、ニネベの強張った声が聞こえた。
「イオさま、陛下がいらっしゃいました」
お茶の時間を楽しんでいると先触れもなく皇帝がやってきた。皇帝はイオの膝の上でポヤポヤと楽しそうにしているハナを見付けて目を見開いた。
――この前まで余の膝の上で楽しそうにしていたのに……!
「お珍しいですわね、陛下」
最近来ない皇帝に若干の嫌味を込めてイオが言うと、皇帝は我に返ってイオとセテを見据えた。だが、目の端ではハナをしっかりと捉えている。
「あ、ああ……そなたらに言わねばならぬことがあってな」
「何でしょうか?」
イオは無意識ハナにクッキーを食べさせながら首を傾げて尋ねた。美味しそうにイオの手からクッキーを食べるハナに皇帝はすっかり頭に血が上ってしまった。
「イオ、セテ。余は初恋の乙女であるアレスを愛している!」
皇帝は仲睦まじいイオとハナの様子に、何をしに来たのかすっかり忘れてしまった。
そして、イオとセテはアレスって誰という疑問、そのアレスへの愛を宣言することの意味を考えて皇帝の次の言葉を待った。恐らく、暇を出されるのだろう。そのときは、長年仕えた褒美としてハナを貰って帰ろう、とイオは少しウキウキしながら考えた。セテも似たようなことを考えている。
「陛下にそのような御方が現れて嬉しゅうございます」
「心よりお喜び申し上げます」
「うむ。それでだな、イオ、セテ」
二人が頭を下げたまま待っていると、皇帝は突拍子もないことを告げた。
「余は、イオとセテ。そなたらも愛しておるのだ!」
これには流石のイオも、は? という顔をした。もちろんセテもだ。ハナだけはどうでも良さそうにイオの膝の上でお茶を飲んでお菓子を食べている。
「あ、ありがたき幸せにございます。陛下に愛の言葉を頂ける日が来ようとは……」
「臣にはもったいないお言葉……ありがたく受け取ります」
内心どうしよう、と言うか皇帝が何をしたいのかさっぱり分からなくなってしまった二人は、困ったように顔を見合わせた。
「だから、ポチ!」
「ほぇ? ……ゲフンッ!」
突然大声で名前を呼ばれたハナは驚いて咽てしまった。
「余のイオの膝から降りるのだ!」
分かり易い皇帝の言葉はあまりにも突飛で、そこにいる誰もが分からなかった。だからハナはいつも微笑んでいるイオの間抜けな顔を見ることができなかった。
「さっさと降りるのだ! イオにもセテにも今後一切近付いてはならん!」
ゲホゲホと咽るハナの手を掴んで引き摺り下ろす皇帝を止められる者は――
「陛下、乱暴になさらないでください! ハナさんはか弱い人間ですのよ!」
イオがきつく言ったが間に合わずハナは膝から転げ落ちて、皇帝をキッと睨んだ。その強い瞳に皇帝は怯んで手を離すと、掴んでいたところが真っ赤になっている。
ハナは何も言わずに立ち上がると、走り去って行った。
「追ってはならん!」
「ぎょ、御意……」
咄嗟に立ち上がりハナを追いかけようとしたイオへ魔力を放つと、イオは膝を着いた。魔力の弱い者であったなら倒れていただろう。
「何だと言うのだ、ポチは。あのような反抗的な目付きをしおって」
イオとセテにしたら、お前が何だ、と言いたいところだ。突然やってきてアレスとやらへの愛を宣言した挙句、二人へも愛を告げたと思ったらハナに対して怒りをぶつける。
――……泣いていたな、ハナさん
――ハナさん……
イオとセテは跪きながらハナを追いたい衝動を必死で抑えた。