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ハナは至って普通の少女であり、殺戮や虐殺は悍ましく忌むべきものであり、決して口に出すべきことではない。ハナの苦しみ、罪はハナが背負うべきものであり誰かと分かち合うものではない、と彼女は心の底で理解している。
恐らくあの人の良い皇帝はそれらをハナの口から聞いていれば、自分の存在のせいでハナを苦しめたと思い苦しむのだろう。ハナが殺そうとしていた魔王が楽しそうにしていれば罪が帳消しにされるような気もした。
その傍ら、話してしまいたいという矛盾した想いも抱えていた。そして魔王であった皇帝なら話さなくても分かってくれるのではないのだろうか、気付いて欲しい、身勝手に期待して失望した。
ハナにとって夢でなければならない世界は現実。
イオは漠然とだがそれらを感じ取って、何も話さないことを真摯に受け止めた。
「お口に合うかしら?」
「とっても美味しいです!」
小さなフルーツや色とりどりの花で飾られた一口サイズのケーキを頬張るハナの顔は綻び、先ほどの悲壮感は鳴りを潜めている。決してなくなった訳ではないがイオはそこを突くような野暮天ではない。それに美味しそうに食べるハナの気分を害する理由は全くない。
「そうだわ、ニネベ。兄から贈られたお菓子を出してちょうだい」
お茶を淹れる侍女に思い付いたように命令を出す声は生まれついての支配者の物だ。侍女は数分掛からずに象牙色の箱を持ってくるとテーブルの上で包装を開いた。中には宝石のようなキラキラと光るお菓子が詰め込まれている。
「あなたも座って、頂きなさい」
「ありがとうございます、姫様」
ニネベと呼ばれた侍女は礼をして座るとハナは不思議そうな顔でイオとニネベを見比べた。
「どうかして? ハナさん」
「イオさんて……お姫様なんですか!?」
何を失礼な、とニネベが言おうとしたところでハナのキラキラとした表情が目に入って口許を緩ませた。ニネベ自慢の姫様イオ・ウェネリース=ケルビナム公女は、そうよ、と優しく微笑んでいる。
「あたし、お姫様ってもっと、こう……!」
意地悪な人、と言うのがハナの印象だ。もっともディリアで出会った人はお姫様に限らず全員が嫌な人だったが。ミレイユは唯一の例外だ。
「性格が悪い?」
「えっと……うんと……」
ハナの表情には正直に全てが現れている。気まずそうにモジモジしながら、それでも相変わらずキラキラした視線をイオに送っている。姿勢が良くいつでも微笑んで穏やかでありながら支配者のオーラを放っているイオ。こういう人をお姫様って言うんだなぁ、と感動を味わっているのだ。
「ハナさんのイメージのお姫様とはどのような方なのですか?」
ニネベが悪戯っぽく笑いながら尋ねるとハナはそれは良い笑顔で即答した。
「あたしと喋らない人!」
「そうしたら、わたくしもニネベもお姫様ではないわね」
「姫様」
楽しそうに笑うイオを窘めるニネベも楽しそうに笑った。一緒に笑うハナの時間もようやく動き始めた。そして笑顔の下で人知れず自分の心を守るために閉ざして行った。
***
「陛下、イオ様から伝言です」
「ん、ああ。なんだ?」
寝室で穏やかに眠るアレスの顔をぼんやりと見つめていた皇帝はハッとして顔を上げた。
「本日ハナさんはイオ様の館に泊まるそうです」
「……そうか。分かったと伝えておけ」
「御意」
セルゲンが退室すると皇帝は再びアレスの寝顔を見つめた。
「初恋の乙女か……」
泣きながら目覚めたアレスは守ってやらねば、と思うし初恋の乙女に彼の心臓が高鳴る。だが、それは初恋の乙女という言葉に浮き足立って、アレス自身にではなく言葉に高鳴っているのではないのだろうか、と疑問を抱いた。
初恋の乙女と言われると何故かアレスではなく、ハナの顔が思い浮かび混乱してきた。思わず眠るアレスに手を伸ばして引込めると寝室から慌てて飛び出した。
「どうなさいました、陛下?」
血相を変えて出てきた皇帝に何事かとエレウは慌てて立ち上がった。丁度セルゲンも戻ってきて二人で皇帝を落ち着かせて座らせる。
「そなたらに尋ねたいことがある……」
絞り出すような震える声に二人は身構えた。怒っているわけではなく、苦悩するような声にセルゲンは従者以上の気持ちで接する。
「なんなりと、お尋ねください。私ごときで宜しければ」
「では、正直に嘘偽りなく答えよ」
「御意」
「そなたら……愛する女性を、抱きたいと思うか? 抱き締めるではないぞ、ハダカになってだな、その……」
身構えていた二人は予想外の質問に噴き出す訳にも行かずお互い目くばせをした。ハナに影響されて変な冗談でも行ってるのかと思ったが目が真剣に光っている。本当に光っているのだ。
――おい、エレウ。お前から答えろ!
――いえ、ここはお付き合いの長いセルゲン様から模範回答を!
「……陛下、僭越ながら私セルゲンは、女性を愛したことはございません。もちろん男性もですが……ですが、愛する女性が無防備に寝ていたら、魔族らしく遠慮なくいただきます!」
模範にならない回答をきっぱりと告げるセルゲン。アレスの寝顔を見て皇帝陛下が欲情してしまったのだろう、と当たりを付けての回答だ。そこら辺の機微(?)は長い付き合いで分かる。そして目でエレウに、お前の番だ、と告げる。
「私は、その肉欲の薄い種族でして……ですが、愛する女性がいれば……ええ、ええもちろん、付くべきものは付いておりますので、ここぞとばかりにフル活用したい所存であります!」
喋っている途中でセルゲンに足を踏まれたエレウは意味不明の意志表明をした。そして二人の言葉に恋愛初心者の男は愕然とする。否定してくれるかと淡い期待を持っていたのだが。
皇帝はセルゲンが察した通り、アレスに欲情してしまった。ハナに対しては全くそんな気は起こらなかったのに。
「やはり、そうなのか……」
「へ、陛下?」
そして良い年しして恋愛に免疫のない皇帝は勘違いをしてしまった。だが、本当に初めての恋愛だから仕方ないのかもしれない。そもそも銀河一偉い彼に恋愛指南をする者など今までいなかったし、そんな事態に陥るとは誰にも、それこそ宇宙ですら分からなかったのだから。
「余は……気が多い男だったのか……」
セルゲン伯、皇帝に仕えて数千年。初めて主の期待に副えず。
愛しているから抱きたい、ではなく抱きたい者、これ全て愛している。
言い換えれば、欲情しないハナには愛情を持っていない。ならこの気持ちは何なのだ、とますます混乱に陥り愕然としている。
二人の言葉のどこをどう解釈すればそうなるのか全く分からないが、宇宙にはまだ解明されていないことが星の数ほどあり、その一つなのだろう。
本日の皇帝陛下株、制限値幅下限まで下落。
※パンデモニウムは塔が集まっている建物ですが、館と呼ぶ時もあります。