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流血シーンがあります。ご注意ください
ハナは今日も清掃員に混ざり掃除をしていた。いつもより無口で俯き加減の顔は髪が短いために陰を帯びていることがすっかり分かる。
その陰は他者の心配を拒否する物で、誰もがハナに声を掛けられずにいた。
黙々と清掃機を操り掃除をするハナ。彼女は丸い柵の付いた板――通称フリスビーに乗り、高いところの壁の拭き掃除をしている。自動清掃機などはあるが雇用対策の一環としてパンデモニウム内の維持管理は人の手により行われている。
そしてそんなハナに声を掛ける者が一人現れた。
「何をしておるのだ、ポチ?」
「掃除です」
「楽しそう……には見えないな」
「だって、楽しそうにしたら陛下やりたがるじゃないですか。皇帝陛下に掃除なんてさせられません」
ハナの棘のある言葉に皇帝はたじろいでしまった。だが、確かにハナの言う通り、楽しそうにしていたら一緒になって清掃機を操り壁も天井も掃除して、清掃員を恐縮させてしまうだろう。そんなことしなくても皇帝とハナのやり取りでその場にいた清掃員は恐縮して硬直しているが。
「ハナ、降りてらっしゃいな。一緒に昼食にしましょう」
そしてそんな緊張が高まる場を和らげるに相応しい、柔らかな澄んだ声でハナを窘めるアレス。だがハナは壁を清掃用の特殊繊維モップでゴシゴシ擦りながら素っ気なく返した。
「まだ終わってないからヤダ」
「我儘言ったらダメよ。清掃員の皆さんにご迷惑が掛かるでしょう?」
「……お前らが来なきゃ誰にも迷惑掛かんないの。皇帝陛下の区画で大人しくしてれば良いのに……」
小声でブツブツ言いながらもう一人の清掃員、同じ年のヴァーナを見ると、跪いて今にも倒れそうなほど震えてガクガクと揺れている。ハナはフリスビーを巧みに操作すると慌ててヴァーナの許へ飛んで行った。
「ヴァーナ、ごめん……また後でね」
「う、ううん、良いの……また、後でね、ハナ、さま」
ハナは最後に付けられた敬称に愕然とした。こうなるとアレスが言った通り迷惑以外の何でもない。
「……ごめん」
項垂れながらフリスビーから降りるハナの様子が痛々しく、思わず皇帝は手を伸ばしたがその手はアレスに遮られた。
「陛下、行きましょう。わたしとても楽しみです」
楽しそうな声に皇帝の気分も浮上してきた。
「そ、そうだな」
楽しそうに歩く二人の後ろで俯いてトボトボ歩くハナには皇帝が気にするようにチラチラと振り返っていることは気付くことができなかった。
*
第4食堂に入るとアレスは下働きと同じように並んで愛想良く食事を受け取り美味しそうに食べ始めた。皇帝陛下もきちんと自分で並んで生姜焼き定食を受け取りアレスの向かいで同じように食べ始めた。幸せそうに食べるアレスの顔に皇帝の顔も自然と綻ぶ。
皇帝とアレスの様子を見れば、二人がどのような関係か誰が言わずとも分かる。寵姫さまの噂はその日の内にパンデモニウム中に広まった。
「ハナちゃん最近見ないねぇ」
「寵姫さまに叱られたみたい。ウロウロして邪魔するなって」
「そうかしら? 邪魔じゃないんだけどねぇ」
「でも、ハナみたいな立場の人にウロウロされたら確かに迷惑だよねぇ。何かあって怒られるのあたしたちだしね」
「でも、いないと寂しいよね?」
「うん……寂しい。でも、寵姫さまってすごく可愛くて優しいよね!」
ハナの存在は下働き区画では賛否両論だったが、気取らない優しげな寵姫にハナの存在は自然に忘れ去られていった。
***
突然目の前に出てきたのは黒い中型犬ほどの大きさの猫に似た動物。その動物は毛を逆立てて威嚇してきた。こちらが手を出さなければいつでも逃げる距離を保っている。
「あれが魔物だ。早く息の根を止めるんだ!」
後ろから聞こえるその声が終わるか終らないかのうちに、生き物の死に際の声が聞こえた。
――ワタシガ、何ヲ……!?
手に残る生き物を殺した感触、顔に滴る生温かい液体。そして死ぬ間際の黒い生き物の眼。
「小さな魔物でも油断はできない、見つけたらすぐに殺すんだ」
――良いか、小娘。道中魔物がいればそれも屠るのだ。ヤツら、我ら人間の領域に害悪を及ぼす邪悪な生物なのだからな
眼を見開いて横たわる黒い生物は大きなただの猫にしか見えない。
それから遭遇する度に獣のような魔物を殺して、次に出てきたのは人間の女性の上半身を持ち下半身が蛇の魔物だった。
「あれはオーリンという魔物で魔力が高い」
こちらを見るオーリンの恐ろしげな顔には恐怖がはっきりと浮かんでいた。彼女が逃げようと後ろを振り向いた途端、魔道師のファラが彼女の動きを止めた。
気が付くと俯せに倒れたオーリンの前に返り血を浴びて立っていた。
とうとう耐えられなくなって――
「うあああああぁぁぁぁぁ……!」
自分の叫び声で目が覚めたハナは泣きじゃくっていた。
「大丈夫か? だいぶ魘されておったようだが……」
「へ、陛下……わたし、わたし……殺したくないのに、殺したくないのに……!」
「落ち着くのだ」
穏やかな皇帝の声に窘められて水を渡されてアレスは漸く落ち着いてきた。それでも肉を切り裂き、そこから飛び散る温かい返り血の感触は拭えない。
「大丈夫だ、夢だ……全て夢だ」
まだ震えるアレスの震える手を握り皇帝はそれ以上何も言わない。何か心に闇を抱えているようだが、アレスが話すまで決してそれには触れまいと。
柔らかな日差しが注ぐサンルームの中、ただ皇帝はアレスを抱き締めた。
「ハナさん?」
「うああぁあっ……!?」
夢から覚めても、悪夢は鮮明に脳に焼き付いていて物凄く恐ろしくて苦しい。ハナはぼろぼろと涙を零しながら周囲を見渡した。何か、恐ろしい物がそこに横たわっているようで怖くて、でも心が引き裂かれるように痛い。
「どうしたのです、ハナさん!? 大丈夫ですよ?」
「うわぁーっ!」
混乱するハナにそっと伸ばされた手は叩き落された。だが、叩かれた手の主は怒ることなく根気強くハナが落ち着くまで待っていた。
ようやく落ち着くとハナは噴水のある庭園の石造りのベンチの上で寝ていることに気が付いた。そして隣には嫋やかな美しき姫が微笑みながらハナを見守っていた。
「叩いて、ごめんなさい、イオさん……」
「何か怖い夢を見たのね」
白い繊細なレースの手袋を外してハナの頭を優しく撫でるイオからは裏も何も感じられない。
「あ、あたし、怖い夢を見て……夢、夢……」
「そう」
だがハナは知っている。夢ではなく本当にあったこと、自分がやったこと――殺戮のすべてを。
「……イオさん……」
「なぁに?」
「あたし、前にサイクロプス殺した話、した……本当に、本当に……」
何かを言いたそうにするが上手く言葉を紡げないでいるハナを、やはりイオは黙って待つ。
「夢、だと、思った……夢じゃなくて。あたしは、ここにいて……ほんとうに、ほんとうに、こ、こ、こ、殺したの……」
夢だと思い続けていたかった。
そうすれば罪から逃れられる――家に帰りたい、というエゴだけで言われるがまま生き物を殺し続けたた罪から。ハナのせいじゃないと言っても、殺したことは一生消えない事実。
そこから逃れるために家に帰れば覚める悪夢だ、と言い聞かせてきた。
だからヘラヘラしていられた。五分刈りにされても、サル呼ばわりされても平気だった。
アレスの存在はあのときの罪を裏付けるもの以外の何物でもなく、嫌でも殺戮の記憶を呼び起こす。
皇帝の姿はハナがここにいる証拠であり、夢ではないことを自覚させる。
殺戮を強制されたハナの心は傷付いて、ずたずたになっていた。
「ハナさん? わたくしのお部屋へ行って一緒にお菓子を食べましょう」
優しい口調だが拒否させず、見た目によらない力でハナを抱き上げるとイオはその場から消えた。
本日の皇帝陛下株、下落。