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二人の食事が終わる頃に皇帝がそっと静かに寝室へ入ってきた。モジモジというか恥ずかしそうにしながらアレスに熱い視線を注いでいるのが誰でも分かる。
「あ、へーか」
「ポ、ポチ。その、よ、よ……ゴホン。余の乙女は元気か?」
物凄くモジモジしている割にはきっちり自分の乙女と主張する、図々しいんだか何だがよく分からない皇帝にハナは生温かい視線を注いだ。
「はい、今一緒にご飯食べました」
「そ、そうか……あのな、それでだな……」
人差し指をクルクルする仕草が全く似合っていないのになぜか似合っている。あまりのモジモジっぷりに後ろに控えるセルゲンとエレウは皇帝を見ていられなくなり、ハナは気を利かせた。
「アレス、へーかだよ」
「魔王、陛下ですか?」
「覚えていてくれたのか、乙女!」
忘れるも何もアレスにとっても魔王との決戦はつい最近の出来事だし、忘れようにも忘れられない容貌をしている。この件に関して忘れているのはどちらかと言えば魔王だろう。
「はい、その節は大変失礼いたしました」
アレスはとりあえず殺そうとしたことを誤ったのだが皇帝はよく分かっていないようだ。
「いや、良い。そなたの愛はしっかりと伝わった」
「……う、嬉しゅうございます、陛下」
「へーか、彼女の名前はアレスです」
「うむ、アレス……良い名だな。名前で呼んでも良いか?」
「は、はい。もちろんです」
「……アレス。余のことはレイと呼んで欲しい」
そんなことを鮮血のような髪をうねらせてモジモジしながら言われても大概の人は困るだろう。案の定アレスは困ったような顔で皇帝を見つめた。
初々しいそんな二人のやり取りをえも言えぬ面持ちで見つめていたハナは、セルゲンに促されて部屋を後にした。
*
アレスを名前で呼ぶ皇帝と、名前で呼ばれるアレスにハナは初めての感情を覚えて戸惑ったが頭を横に振るといつものヘラっとした感じに戻った。
――これで心置きなく帰れる
何を根拠にそう思うのかは、ハナが意識していない心の奥に巣食っている。
「良かったですね、セルゲンさん。へーかの初恋の人が見つかって」
「ええ、まぁ……」
セルゲンとしてはハナに問い質したいことがあるが、まだ陛下のお気に入りかもしれないので慎重になっている。アレスに完全に目移りしたならば何の憂慮もなく問い質すつもりだ。
「ところでセルゲンさん?」
「なんですか?」
「時間移動の魔術使えますか? セルゲンさんじゃなくても、誰か使える人いますか?」
脈絡のない質問にセルゲンは腕を組んで首を傾げながらも答えた。
「ええ。私も使えますが、陛下とリュシファウス族のバエルの血筋の者は大概使えるはずです」
その答えにハナは目を輝かせて満面の笑みを浮かべた。
――やった……! 帰れ――
「ですが、時間法により使用は制限されています」
「……ふぇ?」
「転送装置に使われる場合以外は全て使用禁止です」
「ほぇ?」
言ってる意味が分かりません、と如実に物語るハナの表情を見ながら手で額を押さえて溜息を吐くセルゲン。時間魔術が組み込まれているのは十光年以上の距離を移動するシステムのみ。ハナの表情から何かを読み取ったセルゲンははっきりと告げた。
「ええと、過去や未来への移動は法で禁止されています。一切の例外はなく使用した場合は漏れなく極刑です」
ハナは何か聞き違ったかと思いヘラっとした笑いを張り付けたまま首を傾げた。
「例え誰であろうと、時間移動魔術を使うことは許されておりません」
ハナの希望と、あったはずの未来はあっさりプチッと潰された。
「な、な、な、なん、なんじゃとー! ふぎゃああああああぁぁぁぁぁぁ……!」
「なっ!? ハナさん!? お待ちください!」
そして暫く呆けた顔をしていたハナは女子らしからぬ雄たけびを上げながらどこかへ去って行った。皇帝の侍従であるセルゲンは勝手に追うことができずに手を伸ばして呼び止めることしかできなかった。
***
自分で抑えが利かない感情に翻弄されながらハナは走っていた。奇声を発しなければやっていられないほどの感情が何であるかはまだ気付いていないのだが、もし気付いたら――
「いてっ! ……うう……グスッ……」
真正面から地面に激突して痛みやその他溢れる感情で涙が込み上げてくる。
――あたしは、帰らなきゃなんないのに……! 帰らなきゃ……
庭園を奇声を上げながら走っていたかと思うと石に躓いて転んだハナに近付くセテ。彼は皇帝お気に入りで自分も何気に気に入ったハナが元気に楽しそうに駆け回っている(ように見えた)姿を微笑ましく眺めていた。
「大丈夫ですか、ハナさん?」
――余計にペッタンコになってしまいますよ。
ベシャ、という音が聞こえそうな豪快な転びっぷりに見惚れていたが、これ以上ペッタンコになったら大変だと思いながら急いで起こすのを手伝った。
「大丈夫……で、すか?」
起き上がったハナは鼻を擦り剥いて鼻血を出して、ハーフパンツを履いていたため膝も擦り剥いて血が滲んできていた。セテはせっかく起こしたハナを押し倒すと何とも言い難い表情でハナに圧し掛かって顔を近づけてきた。
「ひぃっ!」
それは鈍チンのハナでも分かるほどの色気のある表情で、思わず色気も何もない引き攣った声を上げるハナ。
「ハナさん」
「な、な、なんですか!?」
「すごく、良い匂いがしますね」
「あ、ありがとうございます?」
引き攣った顔と声で礼を言いつつそのまま後ずさろうとするが、セテがしっかり抑え込んで動きが取れない。彼の眼は血走って、というか血眼、というか本来白目の部分がすっかり血色になって舌なめずりをしている。
「そそる匂いです……味見させて下さい」
セテ・バエル=リュシファウス。血生臭い彼の祖先は豊穣と引き換えに生贄を要求する神として祀られていた。血の綺麗な生贄、純潔の娘を好む贅沢な神だ。
「ひいいいぃぃぃっ!」
「あぁ……絶望に染まる叫び声のなんと心地良い……全てを我に捧げるが良い、娘よ」
そして生贄の断末魔までもが供物に捧げられていた、らしい。
ハナの擦り剥いたところから出た血や鼻血の臭いに酔って目がすっかりイってる。貞操以上の何かの危機を感じているハナだが魔王よりヤバい――恐ろしいや怖いではない――雰囲気に、下手に抵抗して刺激することは止めた。
にたぁ、と嗤いながら口を大きく開けた……ところでセルゲンが後ろからセテの頭を押さえて鼻に詰め物をした。
「お止め下さい、セテ様! 陛下に叱られます!」
「はっ! 私としたことが、つい理性が崩壊して……申し訳ありませんハナさん」
セテが我に返り恥ずかしそうな顔と少し鼻づまりな声でハナを解放した。鼻の詰め物以外はいつもの清廉なセテに戻っている。
「い、いいいい、いえ……」
それから今度はセルゲンに腕を引っ張られて立ち上がろうとしたが、膝が笑って上手く立てない。
「ハナさん、「生まれたての小鹿の物まね」は良いですから、戻りますよ」
「驚かせて申し訳ありませんでした。またお茶会にお呼びしますのでいらしてくださいね、ハナさん」
「……あ、はい」
セルゲンに引っ張られながらなんとか歩くハナは色々なことをやって見せていたようだ。
とにかく、一連の出来事で心の底に燻っている感情が消え去った。だが、それは一時的なことでハナの心にしっかりと根付いている。