陛下とポチ?
皇帝が外出中にハナは一人でサンルームでゴロゴロしていた。
ここ半月ほど――一月は二十九日――皇帝陛下は毎日四、五時間を外で過ごしている。ハナが一人で外に出ることは許可されていないが、四六時中皇帝が傍にいないので気持ちにだいぶ余裕が出てきた。
「……家に帰りたいなぁ」
慣れない環境に慣れてきて気持ちに余裕が出てくると、家族や友人などを思い出して途端に居た堪れない気持ちになってくる。それが呟きとなってなんとなく口からポロリと出たのだが、泣くほど深刻にはなっていない。実は考えに考えて、帰れる方法を思い付いたのだ。
――まおーに頼んで帰してもらお
自分の魔力ではどうしようもないのなら、銀河一の魔力を誇る皇帝に頼もう、という安易で短絡的――丸投げとも言う――だが確率の高い方法だ。
外出した皇帝は、いつも良い香りを漂わせてご機嫌で帰ってくる。恐らく恋人とか愛人に会いに行ってるのだろう。そしてそのご機嫌のときこそ、お願いをするチャンスだ。
「でも、わざわざ行かなくても恋人呼べば良いのに。ああ、きっといっぱいいるんだろうなぁ……酒池肉林? ってヤツ? うわぁぁぁぁ……」
自分で言って想像してあの魔王にピッタリ過ぎる光景に引いてしまった。
皇帝の居室にいたセルゲンとエレウに、サンルームにいるハナの小さな呟きが聞こえてきた。セルゲンは眉間に皺を寄せて、エレウは困ったように首を傾げた。
「あれだけ陛下に目を掛けられ、大事にされて何が不満なのだ?」
「ホームシックというものではないでしょうか?」
「何だそれは?」
「家に帰りたくなる、病、のようなものでしょうか?」
気持ちに余裕が出てくると家や家族が恋しくなるみたいですよ、とエレウが説明するとセルゲンは鼻で哂った。
銀河帝国の皇帝に大事にされるより家が良いなど、さっぱり分からない。人間ではない彼らには分からない気持ちだ。二人はそんなハナの里心より別に心配なことがある。
「陛下に聞こえていなければ良いのだが」
「……そうです――」
「ポチはどこだ!?」
「へ、陛下!」
目を瞑っても銀河を見通せる皇帝はもちろん聴覚もかなり良い。
*
「「ビバビバ」とはどいう意味だ?」
皇帝が最近出入りしているのは、パンデモニウムの研究塔の地球言語学研究所。真面目な顔で言語学者に尋ねると、研究主任の女性は急いで端末で調べた。
「え、えと。「ビバ」は「万歳」という意味のようですが、「ビバビバ」になると入浴時に使われていた言葉のようです」
彼女は緊張しながらも擦れた声で懸命に説明をする。
まさか皇帝陛下に直接言葉を掛けられる日が来ようなどとは夢にも思わず、パンデモニウムの片隅で堅実に地道に仕事を熟していただけの毎日だった。
だが皇帝が毎日来るからと言って勘違いするような女性ではない。もしそうであれば、最初から通達が来るはずだ。皇帝の側室になれ、と。何より、天上の御方である皇帝陛下を異性として意識できるほど肝は座っていない。
そんな臣民の緊張などやはり分からない皇帝は、自分がいないときのハナの呟きを聞いて楽しむという盗聴紛いのことをして、分からない言葉をここで教えて貰っていた。
「なるほど。では……「家に帰りたいなぁ」?」
そしてハナの小さな小さな呟きは、四十キロ先にいた恐るべき聴力を誇る皇帝の耳にもしっかりと届いた。
「え? 「家に帰りたいなぁ?」ですか?」
何かの隠語なのだろうか、と皇帝の言葉に戸惑う主任。もう一度尋ねようとした瞬間、皇帝の凄まじい魔力に圧倒されて意識を失ってしまった。
*
「ポチ!」
「うへぇっ!」
サンルームでゴロゴロしながら鼻歌を歌っていたハナは、凄まじい魔力と大きな声と悪鬼の様な形相の魔王にしか見えない皇帝の姿に驚きながら上半身を起こした。
皇帝はそんなハナに構わず腕をギュッと掴み詰め寄る。
「……帰るつもりなのか」
あまりの怖い顔にハナが視線を泳がせながら逸らすと、皇帝は絞り出すような地を這うような血を吐くような苦しそうな声を出した。
――むちゃくちゃ機嫌、悪そう……
「いや、その、帰りたいなぁって少しだけ思ったような思わないよ――」
「ならん!」
ハナが言い切る前に皇帝が遮った。
「お前はずっとここで暮らすのだ!」
「えっ!?」
心底驚いた声を出すハナに皇帝は更に凄む。
「帰れると思ったのか?」
冷静であれば話し合う余地もあったのだが、自分がいないところで呟かれた言葉は真実なのだろう。本心では帰りたがっているのか、そう思うといても立ってもいられなくなってしまった。
ポチのいない生活を想像しただけで心臓が引き裂かれ、体中の血が噴き出しそうになってくる。
不用意に呟いてしまったがために実家が遠のいてしまったハナ。
もし正直に話して、皇帝ときっちり話を付けていたら帰れたかもしれない……かどうかは怪しい。