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恋愛小説のはずでした

「一人で帰れ」と婚約破棄されたので、騎士様に「一緒に帰りたい」と言いました

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/09/25

「クララ。君との婚約は破棄する。帰りは一人で帰れ」


 夜会へ来るときは、同じ馬車だった。

 帰りも送るからと、ヴィクトル様が私の父に請け合ったのは、つい二時間ほど前のことだ。その人が今は別の令嬢の隣に立ち、私に向かって出口を指している。


「いつまでも婚約者の顔で居座られては迷惑だ。イレーネ嬢にも失礼だろう」


 隣の令嬢が、え、と小さく声を上げた。

 私も何か言わなければと思ったのに、喉がうまく動かなかった。広間の端にいた人たちが話をやめて、こちらを見ている。扇子の飾り房を握った指が痛い。


 二年前、親同士が決めた婚約だった。

 それでも仲良くなりたかったから、好きだという本を読んだ。お茶会では、話しすぎるなと言われて聞き役になった。笑い声が子供っぽいと叱られてからは、笑うときに扇子で口を隠した。

 そうやって少しずつ直せば、いつかは大切にしてもらえるのだと思っていた。


「……私、何かしてしまいましたか」

「そういう顔だよ。いつも辛気臭い。隣にいて楽しくないんだ」


 泣きそうになった。

 楽しそうに笑うなと言ったのは、あなたではなかったのか。

 その一言が、ようやく胸の中で怒りになった。黙って飲み込めばいいのだと、また自分に言い聞かせるのは、もう嫌だった。


「わかりました。婚約の解消に、私も同意します。父には帰宅してから伝えます」

「そうか。君もようやく話がわかるようになったな」


 ヴィクトル様は満足そうに頷き、イレーネ様へ顔を向けた。けれど彼女は笑わず、彼の袖からそっと手を離した。


「お待ちください。私には先月、もう婚約は解消したと……」

「ああ、そのつもりだったんだ。こちらの事情を理解するのに時間がかかる女性でね」


 そんな話は、一度も聞いていない。

 私が口を開こうとすると、彼は先にこちらを振り返った。


「まだいたのか。馬車なら使わせないぞ。これからイレーネ嬢をお送りするんだからな」


 家へ使いを出してもらえば、迎えは来る。主催の伯爵夫人に事情を話して、控えの間で待たせていただこう。

 そう考えたとき、人垣の向こうに紺の礼服が見えた。

 ロルフ様が、私を見ていた。


 ヴァルト伯爵家の次男で、騎士をなさっている方だ。去年から救護院の慰問でよくお会いしている。さっき広間に入ったときも挨拶を交わしたのに、ヴィクトル様に腕を引かれて、ろくにお話しできなかった。

 ロルフ様の前では、笑うのを我慢したことがない。私が調子に乗って面白い話を始めると、いつも誰より先に、続きを聞こうと身を乗り出してくださる人だった。


 目が合うと、彼はすぐこちらへ歩いてきた。


「クララ嬢。お困りなら、私にできることはありませんか」


 低い声が、近くで聞こえた。

 大丈夫ですと答える癖が、喉まで出かかった。人前で揉めている私に関われば、この方まで嫌な思いをするかもしれない。

 けれど、帰りの暗い馬車で一人になることを考えたら、急に怖くなった。


 扇子を畳み、手提げへしまう。

 人を頼るだけなのに、指先が震えた。


「ロルフ様。私……あなたと、一緒に帰りたいです」


 彼は足を止めた。

 何も言わない一瞬が長く感じられて、やっぱり迷惑だったのだと顔を伏せかける。すると彼は、ほとんど慌てたように手を差し出した。


「はい。もちろんです。私も、あなたと帰りたい」


 最後の言葉だけ、ひどく柔らかかった。

 そっと手を重ねると、大きな手が包んでくれる。その温かさに、張りつめていた肩から力が抜けた。


「フェルゼン子爵邸まで、お送りいただけますか」

「ええ。……そうですね。まずは、そちらへ」


 彼が妙なところで言い直した。

 見上げると、ロルフ様は耳まで赤くなっていた。


「今、別のことまで考えました。あなたと同じ家へ帰れるようになれたら、と。申し訳ありません。こんなときに」


 胸の奥が、どきんと鳴った。

 手を離したいとは思わなかった。むしろ、さっきよりしっかりと、彼の指を握ってしまった。


「……今夜の帰り道で、そのお話も聞きたいです」


 ロルフ様の口元が緩んだ。

 一度は引き締めようとしたのに、うまくいかないらしい。とうとう、困ったような、嬉しくてたまらないような顔で笑った。


「はい。いくらでも、お話しします」


「おい、クララ!」


 ヴィクトル様の声に、二人で振り返った。

 彼は私たちの繋いだ手を見ていた。追い払いたかったはずなのに、どうしてか機嫌が悪い。


「送ってくれるなら、誰でもいいのか。随分と節操がないな」


 ほんの少し前までなら、きっと手を離していた。

 疑われたくなくて、嫌われたくなくて、ロルフ様に謝って、またこの人の機嫌が直るのを待ったと思う。


 でも今、私が離したくないのは、この手だった。


「誰でもいいなら、家の馬車を呼びます。私は、ロルフ様と帰りたいんです」


 握っている手に、少しだけ力が返ってきた。

 ヴィクトル様は顔をしかめた。


「私がいる前で、よくもそんなことが言えるな」

「婚約を破棄なさったでしょう。あなたに選んでいただく必要は、もうありません」


 自分の声が思ったよりはっきり出たことに驚いた。

 彼も驚いたらしく、しばらく私を見つめていた。それから、どうにか言い聞かせるような声を作った。


「大げさに取るな。頭を冷やせと言っただけだ。どうしても帰れないと言うなら、乗せてやらないこともない」

「一人では帰れないと、申し上げてはいません」


 ヴィクトル様は私の返事を聞くと、苛立ったように繋いだ手を指した。


「なら、その手を離せ。送ると言っているだろう」


 彼の手が、こちらへ伸びてきた。

 私は半歩退いた。ロルフ様は隣に立ったまま、彼と私の間へ空いている手を差し入れてくださった。


「彼女は、私に同行を頼んでくださいました。あなたにではありません」


 怒鳴り声ではなかった。

 だからこそ、ヴィクトル様の荒い息遣いがよく聞こえた。


「勘違いするな。これは私とクララの話だ」

「ええ。では私から申し上げます」


 私は彼の顔を見た。

 二年間、こうすれば喜んでいただけるだろうかと、答えを探し続けた顔だった。最後まで一度も、この人は私に、どうすれば嬉しいかと尋ねてはくださらなかった。


「帰りも送ると父に約束して、私を連れていらしたのはあなたです。その約束を人前で捨てて、私が困れば言うことを聞くと思っていらしたのでしょう」


 彼の口が開いて、閉じた。


「馬車が必要なのと、あなたが必要なのは、別のことです。私はもう、あなたの婚約者には戻りません」


 言ってしまうと、胸が痛んだ。

 大切にしてほしかった。好きになってほしかった。ずっと欲しかったものを、この人からはもう受け取れないのだと認める痛みだった。

 それでも、撤回したいとは思わなかった。


「……でしたら、私もお送りいただく必要はありません」


 イレーネ様が静かに言った。

 いつの間にか、その隣には彼女の父君が立っていた。娘のところで声が荒くなったのを聞きつけたのだろう。


「お父様。私が伺っていたお話と違います。クララ様との婚約は既に解消して、お互いに納得されていると聞いていたのに」

「イレーネ嬢、誤解です。今、解消したところで……」


 ヴィクトル様が彼女へ近寄ろうとすると、イレーネ様は父君のそばへ寄った。


「先月の話をしているのよ」


 彼女の声が硬くなった。

 ヴィクトル様は父君へ向き直ったが、侯爵は挨拶を返さなかった。


「他家の娘を預かった約束を、気分一つで反故にするのかね。君にうちの娘を預ける話も、なかったことにしてもらおう」


 ヴィクトル様が、初めて周囲を見回した。

 味方になってくれそうな顔を探しているのがわかった。けれど、さっきまで笑みを交わしていた人たちも、彼へ歩み寄ろうとはしなかった。


 主催の伯爵夫人が、私のそばへ来てくださった。


「クララさん。うちの馬車も出せるわ。よかったら、お送りしましょう」

「ありがとうございます。でも、ロルフ様にお願いしたいです」


 困っているから誰かの馬車に乗るだけなのだと、思われたくなかった。

 隣を見上げると、ロルフ様はもう一度、嬉しそうに頷いた。


「責任をもって、子爵夫人のおられるところまでお送りします」


 伯爵夫人は私たちの手を見て、微笑んだ。

 帰るための挨拶をしても、ヴィクトル様に呼び止められることはなかった。彼はまだ、侯爵へ言い訳を続けていた。


 *


 玄関へ出る前に、預けていた外套を受け取った。

 ロルフ様はいったん手を離して、それを私の肩に掛けてくださる。係の人へ馬車を頼む間も、少し離れたところから何度もこちらを見ていた。


「逃げませんよ、私」


 つい口にすると、彼が照れたように笑った。


「わかっています。ただ……本当に一緒に帰れるのだなと、何度も確かめたくなって」


 その答えが嬉しくて、彼の顔を見ていたら、視界が滲んだ。


 ロルフ様が驚いて、すぐに戻ってくる。

 私は手提げからハンカチを出そうとした。紐が指に絡んでうまくいかず、彼が手提げを支えてくれたおかげで、ようやく取り出せた。


「すみません。今になって……」

「謝らないでください。寒くありませんか。中へ戻りましょうか」


 私は首を横に振った。

 広間へ戻ったら、せっかく言えたことまで消えてしまいそうだった。


「置いていかれるのが、嫌だったんです」


 一度言うと、もう止まらなかった。


「送ってもらうだけの話なのに、私には、それくらいの約束も守っていただけないんだと思って。あのまま一人で待っていたら、きっと、私が悪かったところばかり考えました」


 ハンカチを目元に押し当てた。

 ロルフ様は、すぐに何かを言おうとはしなかった。私が息を継ぐまで待って、それから、外套の襟が裏返っているところをそっと直してくれた。


「私を選んでくださって、ありがとうございます。今夜は、一人で考えなくていいです」


 その声を聞いていたら、馬車が来た。

 御者に子爵邸へと行き先を告げ、彼が先に私を乗せてくださる。追って乗り込んだロルフ様は、向かい側の座席を見てから、私に尋ねた。


「隣に座っても、よろしいですか」


 私は頷いて、少しだけ横へ寄った。

 彼が座り、御者が扉を閉めた。車輪が動き出すまで、二人で黙っていた。

 肩が触れるほど近くにいる。それなのに、追い立てられている感じがしない。涙が落ち着くまで何も話さなくていいのだと、言われなくてもわかった。


「……私、辛気臭いでしょうか」


 思わず尋ねてから、恥ずかしくなった。

 ヴィクトル様に言い返せても、傷つかなかったことにはできない。


「今、泣いているからですか」

「いつも、隣にいて楽しくないと」


 さっき聞いた言葉を繰り返すのは、それだけで辛かった。ロルフ様は私の顔を見て、少し考え込んだ。


「それは困りました。私など、あなたがいない慰問の日は、子供たちから露骨にがっかりされるのですが」


 あまりに真剣な言い方だったので、顔を上げた。

 ロルフ様は眉を下げて、私を見ていた。


「この前も、兜を持ってこなかったのかと訊かれました。もう私より、あの鳥のほうが人気です」


 思い出して、少し笑ってしまった。

 去年の冬、救護院へ初めて慰問に来たロルフ様は、子供たちに戦いの話をせがまれた。ところが、怪我の話を正直にしすぎて、小さな子を泣かせてしまったのだ。


 困り果てた彼が兜を膝に抱えているのを見て、私は言った。

 その兜、留守の間に小鳥がおうちにしてしまいそうですね、と。

 すると子供たちが、騎士様は鳥さんに兜を譲るのかと騒ぎ出した。真面目なロルフ様は、雛が巣立つまでは別の兜を借りますと答えて、とうとう泣いていた子まで笑わせた。


「嘘の話なのに、ロルフ様が本当に困った顔をなさるから」

「追い出してはいけないと言われましたからね。あなたまで一緒になって」


 彼が笑ったので、私も笑えた。

 頬はまだ濡れていたけれど、隠そうとは思わなかった。


「次の月に、木彫りの小鳥を持っていらしたでしょう。ご自分で作ったって」

「少し、嘴を長くしすぎました」


 私は、子供たちが色を塗ったあの鳥を思い浮かべた。緑色の長い嘴に赤い翼で、鳥より小さな飛竜に見えるのだと伝えると、彼も頷いた。


 今度は二人で声を上げた。

 あの鳥は今も救護院の棚にある。子供たちは毎回、兜へ入れるために持ってくる。


「あなたが助けてくださったからです。もう一度来ても、あの子たちを怖がらせずに済むかもしれないと思えた。次は私も、楽しいものを持っていきたくなりました」


 ロルフ様は言葉を切り、座席に置いていた手を握った。


「私には、あなたと話して退屈だったことなど、一度もありません」


 窓の外を街灯が過ぎていった。

 明るくなって、また薄暗くなる。その間も、彼は私だけを見ていた。


「物語の続きを思いついたとき、先に目が笑うんです。口にする前から。私はそれを見るのが好きで、あなたがこちらを向くのを待っていました」


 そんなところまで見られていたのかと思うと、胸がいっぱいになった。

 ヴィクトル様のそばでは、何を間違えないようにするかばかり考えていた。ロルフ様を見つけた日は、今日は何を話そうかと考えていた。

 違いには、もっと前から気づいていたのかもしれない。


「私も、あなたとお話しするのが好きでした。お強いのに、子供が泣くと本気で困ってしまうところも。次にはちゃんと、鳥を作ってくるところも」


 途中で俯きたくなったけれど、彼が聞いている。

 私の次の言葉を、急かさずに待ってくれている。


「今夜だけ、優しくしていただいて終わるのは嫌です。これからも隣にいたいと思ったから、お誘いしました」


 ロルフ様は長く息を吐いた。

 そして私から目を逸らし、天井を見上げた。

 怖くなって袖へ触れると、彼はすぐ首を振った。


「違います。嬉しくて、どうしたらいいのか……あなたに婚約者がいる間は、考えてはいけないことでしたから」


 彼の手が差し出された。

 私はハンカチを畳んで手提げへ戻し、その手を取った。


「慰問へ伺う日、あなたがいらっしゃると嬉しかった。帰る時間になると、まだ何か話せないかと考えていた。言えなくても、そう思うのまでやめられませんでした」


 広間で手を重ねたときより、ずっと近かった。

 彼の親指が、手袋の上から私の指に触れる。大切なものを確かめるような触れ方に、また泣きそうになった。


「クララ嬢。私はあなたが好きです。今夜、気の毒に思ったからではありません。あなたが笑うと、その隣で私も笑っていたい。ずっと、そう思っていました」


「私も、あなたが好きです」


 今度は、言えた。

 同情を求める言葉でも、誰かに聞かせるための言葉でもなかった。

 私が欲しいものを、この人に知ってほしかった。


 ロルフ様が笑った。

 あんなに立派な騎士様なのに、慰問で子供たちに褒められたときより、ずっと嬉しそうだった。


「今の言葉を頼りに、あなたのお父上へお話ししに伺ってもいいですか。もちろん、前の婚約のお手続きが済んでから」

「はい。母にも、お話ししてください。きっと今夜、驚かせてしまいますから」


 ロルフ様は、窓の外へ目をやった。子爵邸のある通りは、もうすぐだった。


「そうですね。まずは、きちんとお送りしたご挨拶を」


 彼が真面目に頷いたので、私は重ねた手を少し揺らした。


「帰り道でお話しする約束も、忘れていませんよ。同じ家へ帰りたいというお話」

「……覚えていらっしゃいましたか」


 驚いた顔でこちらを見るので、私は少しだけ意地悪なことを言いたくなった。


「忘れたほうがいいですか」


 彼は今度こそ、はっきり首を横に振った。


「覚えていてください。次は、ご両親の前でも申し上げます」


 *


 母は玄関まで出てきて、私の目が赤いのを見るなり抱き締めてくれた。

 事情を話すと、ヴィクトル様への怒りで顔を紅潮させたが、ロルフ様には何度もお礼を言った。私はその袖を引き、送っていただくだけでなく、また来ていただきたいのだと伝えた。

 母は私を見て、それから彼を見た。さっきとは違う意味で、しばらく言葉を失っていた。


 翌朝、父はレーデル伯爵へ会いに行った。

 夜会でのことは既に伝わっていたらしい。伯爵は謝罪し、解消の手続きに応じてくれた。ヴィクトル様からは「言いすぎた」と伝言が届いたが、私が返したのは、婚約を解消する意思は変わらないという返事だけだった。

 侯爵家との縁談もなくなったそうだと父は言った。それ以上を尋ねたいとは思わなかった。


 ロルフ様が正式に訪ねてくださったのは、書類が整った、その次の日だった。

 両親の前で、私との結婚を考えているとはっきり仰った。父に、娘のどこが好きなのかと尋ねられると、話が始まる前に目が笑うところですと答えたので、私はお茶を飲めなくなった。


 父は困ったように笑い、母は私の背中を撫でた。

 私は逃げずに、ロルフ様の顔を見て頷いた。


 それからひと月。

 新しい婚約の報告を済ませ、二人で救護院へ行った帰り道、ロルフ様が馬車の扉を開けてくれた。今日も子供たちは、あの木彫りの鳥を彼の兜に乗せて、大いに笑っていた。


「今日は、どちらへお帰りですか」


 彼が少し悪戯っぽく尋ねる。

 私は差し出された手に、自分の手を重ねた。


「まだ、父と母の家です。でも、春になったら」

「ええ。春になったら、私たちの家へ」


 結婚式の日取りを決めたばかりだった。

 馬車へ乗ると、もう尋ねなくてもロルフ様が隣へ座る。それが当たり前になったことが、何度だって嬉しい。


 窓から入る夕方の風に、私は少しだけ身を寄せた。

 大きな手が、すぐに私の手を探してくれる。


「帰りましょうか、クララ」

「はい。一緒に帰りましょう」


 扇子は手提げの中にしまったまま、私は思いきり笑った。

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