「一人で帰れ」と婚約破棄されたので、騎士様に「一緒に帰りたい」と言いました
「クララ。君との婚約は破棄する。帰りは一人で帰れ」
夜会へ来るときは、同じ馬車だった。
帰りも送るからと、ヴィクトル様が私の父に請け合ったのは、つい二時間ほど前のことだ。その人が今は別の令嬢の隣に立ち、私に向かって出口を指している。
「いつまでも婚約者の顔で居座られては迷惑だ。イレーネ嬢にも失礼だろう」
隣の令嬢が、え、と小さく声を上げた。
私も何か言わなければと思ったのに、喉がうまく動かなかった。広間の端にいた人たちが話をやめて、こちらを見ている。扇子の飾り房を握った指が痛い。
二年前、親同士が決めた婚約だった。
それでも仲良くなりたかったから、好きだという本を読んだ。お茶会では、話しすぎるなと言われて聞き役になった。笑い声が子供っぽいと叱られてからは、笑うときに扇子で口を隠した。
そうやって少しずつ直せば、いつかは大切にしてもらえるのだと思っていた。
「……私、何かしてしまいましたか」
「そういう顔だよ。いつも辛気臭い。隣にいて楽しくないんだ」
泣きそうになった。
楽しそうに笑うなと言ったのは、あなたではなかったのか。
その一言が、ようやく胸の中で怒りになった。黙って飲み込めばいいのだと、また自分に言い聞かせるのは、もう嫌だった。
「わかりました。婚約の解消に、私も同意します。父には帰宅してから伝えます」
「そうか。君もようやく話がわかるようになったな」
ヴィクトル様は満足そうに頷き、イレーネ様へ顔を向けた。けれど彼女は笑わず、彼の袖からそっと手を離した。
「お待ちください。私には先月、もう婚約は解消したと……」
「ああ、そのつもりだったんだ。こちらの事情を理解するのに時間がかかる女性でね」
そんな話は、一度も聞いていない。
私が口を開こうとすると、彼は先にこちらを振り返った。
「まだいたのか。馬車なら使わせないぞ。これからイレーネ嬢をお送りするんだからな」
家へ使いを出してもらえば、迎えは来る。主催の伯爵夫人に事情を話して、控えの間で待たせていただこう。
そう考えたとき、人垣の向こうに紺の礼服が見えた。
ロルフ様が、私を見ていた。
ヴァルト伯爵家の次男で、騎士をなさっている方だ。去年から救護院の慰問でよくお会いしている。さっき広間に入ったときも挨拶を交わしたのに、ヴィクトル様に腕を引かれて、ろくにお話しできなかった。
ロルフ様の前では、笑うのを我慢したことがない。私が調子に乗って面白い話を始めると、いつも誰より先に、続きを聞こうと身を乗り出してくださる人だった。
目が合うと、彼はすぐこちらへ歩いてきた。
「クララ嬢。お困りなら、私にできることはありませんか」
低い声が、近くで聞こえた。
大丈夫ですと答える癖が、喉まで出かかった。人前で揉めている私に関われば、この方まで嫌な思いをするかもしれない。
けれど、帰りの暗い馬車で一人になることを考えたら、急に怖くなった。
扇子を畳み、手提げへしまう。
人を頼るだけなのに、指先が震えた。
「ロルフ様。私……あなたと、一緒に帰りたいです」
彼は足を止めた。
何も言わない一瞬が長く感じられて、やっぱり迷惑だったのだと顔を伏せかける。すると彼は、ほとんど慌てたように手を差し出した。
「はい。もちろんです。私も、あなたと帰りたい」
最後の言葉だけ、ひどく柔らかかった。
そっと手を重ねると、大きな手が包んでくれる。その温かさに、張りつめていた肩から力が抜けた。
「フェルゼン子爵邸まで、お送りいただけますか」
「ええ。……そうですね。まずは、そちらへ」
彼が妙なところで言い直した。
見上げると、ロルフ様は耳まで赤くなっていた。
「今、別のことまで考えました。あなたと同じ家へ帰れるようになれたら、と。申し訳ありません。こんなときに」
胸の奥が、どきんと鳴った。
手を離したいとは思わなかった。むしろ、さっきよりしっかりと、彼の指を握ってしまった。
「……今夜の帰り道で、そのお話も聞きたいです」
ロルフ様の口元が緩んだ。
一度は引き締めようとしたのに、うまくいかないらしい。とうとう、困ったような、嬉しくてたまらないような顔で笑った。
「はい。いくらでも、お話しします」
「おい、クララ!」
ヴィクトル様の声に、二人で振り返った。
彼は私たちの繋いだ手を見ていた。追い払いたかったはずなのに、どうしてか機嫌が悪い。
「送ってくれるなら、誰でもいいのか。随分と節操がないな」
ほんの少し前までなら、きっと手を離していた。
疑われたくなくて、嫌われたくなくて、ロルフ様に謝って、またこの人の機嫌が直るのを待ったと思う。
でも今、私が離したくないのは、この手だった。
「誰でもいいなら、家の馬車を呼びます。私は、ロルフ様と帰りたいんです」
握っている手に、少しだけ力が返ってきた。
ヴィクトル様は顔をしかめた。
「私がいる前で、よくもそんなことが言えるな」
「婚約を破棄なさったでしょう。あなたに選んでいただく必要は、もうありません」
自分の声が思ったよりはっきり出たことに驚いた。
彼も驚いたらしく、しばらく私を見つめていた。それから、どうにか言い聞かせるような声を作った。
「大げさに取るな。頭を冷やせと言っただけだ。どうしても帰れないと言うなら、乗せてやらないこともない」
「一人では帰れないと、申し上げてはいません」
ヴィクトル様は私の返事を聞くと、苛立ったように繋いだ手を指した。
「なら、その手を離せ。送ると言っているだろう」
彼の手が、こちらへ伸びてきた。
私は半歩退いた。ロルフ様は隣に立ったまま、彼と私の間へ空いている手を差し入れてくださった。
「彼女は、私に同行を頼んでくださいました。あなたにではありません」
怒鳴り声ではなかった。
だからこそ、ヴィクトル様の荒い息遣いがよく聞こえた。
「勘違いするな。これは私とクララの話だ」
「ええ。では私から申し上げます」
私は彼の顔を見た。
二年間、こうすれば喜んでいただけるだろうかと、答えを探し続けた顔だった。最後まで一度も、この人は私に、どうすれば嬉しいかと尋ねてはくださらなかった。
「帰りも送ると父に約束して、私を連れていらしたのはあなたです。その約束を人前で捨てて、私が困れば言うことを聞くと思っていらしたのでしょう」
彼の口が開いて、閉じた。
「馬車が必要なのと、あなたが必要なのは、別のことです。私はもう、あなたの婚約者には戻りません」
言ってしまうと、胸が痛んだ。
大切にしてほしかった。好きになってほしかった。ずっと欲しかったものを、この人からはもう受け取れないのだと認める痛みだった。
それでも、撤回したいとは思わなかった。
「……でしたら、私もお送りいただく必要はありません」
イレーネ様が静かに言った。
いつの間にか、その隣には彼女の父君が立っていた。娘のところで声が荒くなったのを聞きつけたのだろう。
「お父様。私が伺っていたお話と違います。クララ様との婚約は既に解消して、お互いに納得されていると聞いていたのに」
「イレーネ嬢、誤解です。今、解消したところで……」
ヴィクトル様が彼女へ近寄ろうとすると、イレーネ様は父君のそばへ寄った。
「先月の話をしているのよ」
彼女の声が硬くなった。
ヴィクトル様は父君へ向き直ったが、侯爵は挨拶を返さなかった。
「他家の娘を預かった約束を、気分一つで反故にするのかね。君にうちの娘を預ける話も、なかったことにしてもらおう」
ヴィクトル様が、初めて周囲を見回した。
味方になってくれそうな顔を探しているのがわかった。けれど、さっきまで笑みを交わしていた人たちも、彼へ歩み寄ろうとはしなかった。
主催の伯爵夫人が、私のそばへ来てくださった。
「クララさん。うちの馬車も出せるわ。よかったら、お送りしましょう」
「ありがとうございます。でも、ロルフ様にお願いしたいです」
困っているから誰かの馬車に乗るだけなのだと、思われたくなかった。
隣を見上げると、ロルフ様はもう一度、嬉しそうに頷いた。
「責任をもって、子爵夫人のおられるところまでお送りします」
伯爵夫人は私たちの手を見て、微笑んだ。
帰るための挨拶をしても、ヴィクトル様に呼び止められることはなかった。彼はまだ、侯爵へ言い訳を続けていた。
*
玄関へ出る前に、預けていた外套を受け取った。
ロルフ様はいったん手を離して、それを私の肩に掛けてくださる。係の人へ馬車を頼む間も、少し離れたところから何度もこちらを見ていた。
「逃げませんよ、私」
つい口にすると、彼が照れたように笑った。
「わかっています。ただ……本当に一緒に帰れるのだなと、何度も確かめたくなって」
その答えが嬉しくて、彼の顔を見ていたら、視界が滲んだ。
ロルフ様が驚いて、すぐに戻ってくる。
私は手提げからハンカチを出そうとした。紐が指に絡んでうまくいかず、彼が手提げを支えてくれたおかげで、ようやく取り出せた。
「すみません。今になって……」
「謝らないでください。寒くありませんか。中へ戻りましょうか」
私は首を横に振った。
広間へ戻ったら、せっかく言えたことまで消えてしまいそうだった。
「置いていかれるのが、嫌だったんです」
一度言うと、もう止まらなかった。
「送ってもらうだけの話なのに、私には、それくらいの約束も守っていただけないんだと思って。あのまま一人で待っていたら、きっと、私が悪かったところばかり考えました」
ハンカチを目元に押し当てた。
ロルフ様は、すぐに何かを言おうとはしなかった。私が息を継ぐまで待って、それから、外套の襟が裏返っているところをそっと直してくれた。
「私を選んでくださって、ありがとうございます。今夜は、一人で考えなくていいです」
その声を聞いていたら、馬車が来た。
御者に子爵邸へと行き先を告げ、彼が先に私を乗せてくださる。追って乗り込んだロルフ様は、向かい側の座席を見てから、私に尋ねた。
「隣に座っても、よろしいですか」
私は頷いて、少しだけ横へ寄った。
彼が座り、御者が扉を閉めた。車輪が動き出すまで、二人で黙っていた。
肩が触れるほど近くにいる。それなのに、追い立てられている感じがしない。涙が落ち着くまで何も話さなくていいのだと、言われなくてもわかった。
「……私、辛気臭いでしょうか」
思わず尋ねてから、恥ずかしくなった。
ヴィクトル様に言い返せても、傷つかなかったことにはできない。
「今、泣いているからですか」
「いつも、隣にいて楽しくないと」
さっき聞いた言葉を繰り返すのは、それだけで辛かった。ロルフ様は私の顔を見て、少し考え込んだ。
「それは困りました。私など、あなたがいない慰問の日は、子供たちから露骨にがっかりされるのですが」
あまりに真剣な言い方だったので、顔を上げた。
ロルフ様は眉を下げて、私を見ていた。
「この前も、兜を持ってこなかったのかと訊かれました。もう私より、あの鳥のほうが人気です」
思い出して、少し笑ってしまった。
去年の冬、救護院へ初めて慰問に来たロルフ様は、子供たちに戦いの話をせがまれた。ところが、怪我の話を正直にしすぎて、小さな子を泣かせてしまったのだ。
困り果てた彼が兜を膝に抱えているのを見て、私は言った。
その兜、留守の間に小鳥がおうちにしてしまいそうですね、と。
すると子供たちが、騎士様は鳥さんに兜を譲るのかと騒ぎ出した。真面目なロルフ様は、雛が巣立つまでは別の兜を借りますと答えて、とうとう泣いていた子まで笑わせた。
「嘘の話なのに、ロルフ様が本当に困った顔をなさるから」
「追い出してはいけないと言われましたからね。あなたまで一緒になって」
彼が笑ったので、私も笑えた。
頬はまだ濡れていたけれど、隠そうとは思わなかった。
「次の月に、木彫りの小鳥を持っていらしたでしょう。ご自分で作ったって」
「少し、嘴を長くしすぎました」
私は、子供たちが色を塗ったあの鳥を思い浮かべた。緑色の長い嘴に赤い翼で、鳥より小さな飛竜に見えるのだと伝えると、彼も頷いた。
今度は二人で声を上げた。
あの鳥は今も救護院の棚にある。子供たちは毎回、兜へ入れるために持ってくる。
「あなたが助けてくださったからです。もう一度来ても、あの子たちを怖がらせずに済むかもしれないと思えた。次は私も、楽しいものを持っていきたくなりました」
ロルフ様は言葉を切り、座席に置いていた手を握った。
「私には、あなたと話して退屈だったことなど、一度もありません」
窓の外を街灯が過ぎていった。
明るくなって、また薄暗くなる。その間も、彼は私だけを見ていた。
「物語の続きを思いついたとき、先に目が笑うんです。口にする前から。私はそれを見るのが好きで、あなたがこちらを向くのを待っていました」
そんなところまで見られていたのかと思うと、胸がいっぱいになった。
ヴィクトル様のそばでは、何を間違えないようにするかばかり考えていた。ロルフ様を見つけた日は、今日は何を話そうかと考えていた。
違いには、もっと前から気づいていたのかもしれない。
「私も、あなたとお話しするのが好きでした。お強いのに、子供が泣くと本気で困ってしまうところも。次にはちゃんと、鳥を作ってくるところも」
途中で俯きたくなったけれど、彼が聞いている。
私の次の言葉を、急かさずに待ってくれている。
「今夜だけ、優しくしていただいて終わるのは嫌です。これからも隣にいたいと思ったから、お誘いしました」
ロルフ様は長く息を吐いた。
そして私から目を逸らし、天井を見上げた。
怖くなって袖へ触れると、彼はすぐ首を振った。
「違います。嬉しくて、どうしたらいいのか……あなたに婚約者がいる間は、考えてはいけないことでしたから」
彼の手が差し出された。
私はハンカチを畳んで手提げへ戻し、その手を取った。
「慰問へ伺う日、あなたがいらっしゃると嬉しかった。帰る時間になると、まだ何か話せないかと考えていた。言えなくても、そう思うのまでやめられませんでした」
広間で手を重ねたときより、ずっと近かった。
彼の親指が、手袋の上から私の指に触れる。大切なものを確かめるような触れ方に、また泣きそうになった。
「クララ嬢。私はあなたが好きです。今夜、気の毒に思ったからではありません。あなたが笑うと、その隣で私も笑っていたい。ずっと、そう思っていました」
「私も、あなたが好きです」
今度は、言えた。
同情を求める言葉でも、誰かに聞かせるための言葉でもなかった。
私が欲しいものを、この人に知ってほしかった。
ロルフ様が笑った。
あんなに立派な騎士様なのに、慰問で子供たちに褒められたときより、ずっと嬉しそうだった。
「今の言葉を頼りに、あなたのお父上へお話ししに伺ってもいいですか。もちろん、前の婚約のお手続きが済んでから」
「はい。母にも、お話ししてください。きっと今夜、驚かせてしまいますから」
ロルフ様は、窓の外へ目をやった。子爵邸のある通りは、もうすぐだった。
「そうですね。まずは、きちんとお送りしたご挨拶を」
彼が真面目に頷いたので、私は重ねた手を少し揺らした。
「帰り道でお話しする約束も、忘れていませんよ。同じ家へ帰りたいというお話」
「……覚えていらっしゃいましたか」
驚いた顔でこちらを見るので、私は少しだけ意地悪なことを言いたくなった。
「忘れたほうがいいですか」
彼は今度こそ、はっきり首を横に振った。
「覚えていてください。次は、ご両親の前でも申し上げます」
*
母は玄関まで出てきて、私の目が赤いのを見るなり抱き締めてくれた。
事情を話すと、ヴィクトル様への怒りで顔を紅潮させたが、ロルフ様には何度もお礼を言った。私はその袖を引き、送っていただくだけでなく、また来ていただきたいのだと伝えた。
母は私を見て、それから彼を見た。さっきとは違う意味で、しばらく言葉を失っていた。
翌朝、父はレーデル伯爵へ会いに行った。
夜会でのことは既に伝わっていたらしい。伯爵は謝罪し、解消の手続きに応じてくれた。ヴィクトル様からは「言いすぎた」と伝言が届いたが、私が返したのは、婚約を解消する意思は変わらないという返事だけだった。
侯爵家との縁談もなくなったそうだと父は言った。それ以上を尋ねたいとは思わなかった。
ロルフ様が正式に訪ねてくださったのは、書類が整った、その次の日だった。
両親の前で、私との結婚を考えているとはっきり仰った。父に、娘のどこが好きなのかと尋ねられると、話が始まる前に目が笑うところですと答えたので、私はお茶を飲めなくなった。
父は困ったように笑い、母は私の背中を撫でた。
私は逃げずに、ロルフ様の顔を見て頷いた。
それからひと月。
新しい婚約の報告を済ませ、二人で救護院へ行った帰り道、ロルフ様が馬車の扉を開けてくれた。今日も子供たちは、あの木彫りの鳥を彼の兜に乗せて、大いに笑っていた。
「今日は、どちらへお帰りですか」
彼が少し悪戯っぽく尋ねる。
私は差し出された手に、自分の手を重ねた。
「まだ、父と母の家です。でも、春になったら」
「ええ。春になったら、私たちの家へ」
結婚式の日取りを決めたばかりだった。
馬車へ乗ると、もう尋ねなくてもロルフ様が隣へ座る。それが当たり前になったことが、何度だって嬉しい。
窓から入る夕方の風に、私は少しだけ身を寄せた。
大きな手が、すぐに私の手を探してくれる。
「帰りましょうか、クララ」
「はい。一緒に帰りましょう」
扇子は手提げの中にしまったまま、私は思いきり笑った。
面白かったら、評価・ブックマーク頂けるとうれしいです。




