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時空消失のりこさん 4

掲載日:2026/06/24

【第1章:雨の日のリビングと怪しいテレビ】


外は朝から容赦のない雨が降っていた。


分厚い乱層雲が空を覆い尽くし、午後二時だというのに、リビングルームは夕暮れ時のように薄暗い。

ガラス窓を激しく叩く雨粒の音が、部屋の中に重苦しい低音を響かせていた。


そんな憂鬱な天気をものともせず、のりこさんとヒロシさんは、ソファに並んで腰掛けながら、部屋の主役として鎮座する新しいテレビに視線を注いでいた。


「ねえ、ヒロシさん」


のりこさんが、膝の上に置いたクッションを軽く叩きながら、隣の夫に顔を向けた。


「この買い換えたテレビ、確かに画面が大きくて映像もキレイでいいわね。音響も臨場感があって素晴らしいわ」


「だろ? 俺の目に狂いはなかったってことさ」


「……でも、なんて言うのかしら。画面のフレームの隅っこに、うっすらと擦り傷があるというか。全体的に少し『中古感』があるのよね。あなた、まさかまたあの怪しいフリーマーケットで買ったんじゃないでしょうね?」


図星を突かれたヒロシさんは、一瞬だけ視線を泳がせ、それから観念したように頭を掻いた。


「あはは……ばれたか。いや、のりこさん、聞いてくれよ。怪しいって言うけどさ、あそこの店主、時々掘り出し物を信じられない価格で出すんだよ」


「やっぱり……」


「このテレビだって、ほぼ新古品で格安だったんだから。今の俺たちの経済状況を考えたら、絶対に『買い』の逸品だったんだって。映りだって、ほら、文句なしだろう?」


のりこさんは、呆れたように深いため息をついた。


「もう、あなたって人は……。前回の『時空掃除機』の時だって、そのフリマのせいでとんでもない目に遭ったのを忘れたわけじゃないでしょうね?」


「あれはあれで、スリリングで楽しかったじゃないか」


「私は心臓が止まるかと思ったわよ。あの店で売られている電化製品には、何か常識を超えたギミックが仕込まれている気がしてならないの。今回だって、何も起きなければいいけれど……」


「大丈夫、大丈夫。ただの液晶テレビだって。それに、これを見てると癒やされるだろう?」


ヒロシがリモコンで少し音量を上げると、リビングには壮大なオーケストラのBGMと、どこまでも広がる青空と緑の草原の映像が広がった。


画面に映し出されていたのは、二人が最近熱心に追いかけている海外ドラマ、実写版『アルプスの少女の物語』だった。


舞台はスイスのアルプス。

大自然の美しさは圧倒的で、その中で、主人公の少女「エーデル」が、持ち前の知恵と勇気を振り絞り、次々と巻き起こる様々な問題を解決していく。


それがこの番組の見どころであり、のりこさんとヒロシさんのお気に入りの番組だった。


「確かに、この大画面で見ると、エーデルが本当にすぐそこにいるみたいね」


のりこさんも、画面の中で生き生きと動き回るエーデルの姿を見て、少しだけ表情を和らげた。


画面の中のエーデルは、麦わら帽子をかぶり、ヤギたちを追いかけながら、カメラに向かって満面の笑みを浮かべている。

その映像は、まるで現実の光景を窓から覗き込んでいるかのように生々しく、立体感に溢れていた。


その時、外の雨が一層激しさを増した。


バチバチと窓ガラスが悲鳴を上げるような音が響き、視界が急激に暗くなる。


「うわ、すごい雨になってきたな。まるでバケツをひっくり返したようだ」


ヒロシが窓の外を振り返った、その瞬間だった。


――ピカッ!!!


世界が真っ白に染まるほどの、強烈な閃光がリビングを貫いた。

コンマ数秒の遅れもなく、鼓膜を破らんばかりの轟音が炸裂する。


――ドゴーーーーン!!!


近所に大きな落雷があった。

その凄まじい衝撃波に、家全体がミシミシと激しく振動する。

同時に、リビングの照明が完全に消え、部屋は一瞬にして暗闇に包まれた。


「キャッ!?」


「うわっ、停電か!?」


しかし、奇妙なことが起きた。


部屋の電灯やエアコンの電源は完全に落ちているというのに、フリマで買ったあのテレビの画面だけは、消えるどころか、むしろ異常なほどの輝きを放ち始めたのだ。


「えっ……? テレビが……?」


のりこさんが目を見開く。


テレビ画面から放たれる光は、青白い電子的のものではなく、まるで本物の太陽光のような、温かみのある黄金色の輝きだった。

そして、画面の奥から、ゴーッという激しい「風の音」が聞こえてくる。


「おい、のりこさん! テレビの画面が……歪んでるぞ!?」


ヒロシのいう通り、液晶の表面がまるで水面のように波打ち、渦を巻き始めていた。

そして、強烈な吸引力が、二人の身体をテレビの方へと引っ張り始める。


「嫌だ、何これ!? 身体が動かない!」


「のりこ、手を掴め!」


ヒロシが手を伸ばし、のりこさんの手をしっかりと握りしめた。


しかし、時すでに遅し。

二人の身体はソファから浮き上がり、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、波打つテレビ画面の中へと引きずり込まれていった。


「うわあああああーーー!」


「いやああああーーー!」



視界が眩い光で埋め尽くされ、二人の意識はアクセスを拒否するように、急速に遠のいていった。


---


【第2章:光の少女、エーデル】


「……ん……」


耳元で、サワサワと草が擦れ合う心地よい音が聞こえる。


頬を撫でるのは、湿った雨の匂いではなく、乾いた、驚くほど澄んだ爽やかな風だった。


「ひ、ヒロシさん……? 生きてる?」


のりこさんは、ゆっくりと目を開けた。


視界に飛び込んできたのは、吸い込まれそうなほどに高い、真っ青な空だった。

雲一つない、完璧な青。

そして、自分の背中に感じられるのは、ふかふかとした緑の絨毯のような感触。


「うう……いたた。ここは……どこだ?」


隣でヒロシさんも身を起こし、頭を押さえながらあたりを見回している。


二人は、どこまでも続く広大な草原の真ん中に倒れていた。

遠くには、雪をいただいた雄大な山々がそびえ立っている。

つい数分前まで、雨の降る薄暗いリビングでテレビを見ていたとは到底信じられない光景だった。


「私たち、本当にテレビの中に吸い込まれちゃったの……?」


のりこさんが呆然と呟いた、その時だった。


「――ねえ、大丈夫?」


頭上から、鈴を転がすような、澄んだ可愛らしい声が降ってきた。


二人が驚いて声のする方を見上げると、そこには一人の少女が立っていた。

ちょうど彼女の背後から太陽の光が差し込んでおり、金色の髪がキラキラと輝いている。


明るい陽射しがまるで後光のように彼女を包み込んでおり、その姿はまるで、天から舞い降りた天使のようだった。

少女は心配そうに、大きな瞳で二人を覗き込んでいる。


「あ……! あなた、テレビの……!」


のりこさんは息を呑んだ。


間違いない。その素朴な麻のワンピース、愛らしい顔立ち、そして強い意志を秘めた瞳。

彼女こそが、先ほどまで画面の中で見ていた、あの『アルプスの少女の物語』の主人公、エーデルだった。


「良かった、気がついたのね。変な服を着て二人で倒れていたから、びっくりしちゃった。どこか痛いところはある?」


エーデルは優しく微笑みながら、のりこさんに手を差し伸べた。


「えっ……あ、ありがとう」


のりこさんはその手を借りて立ち上がった。

ヒロシさんも急いでズボンの泥を払いながら立ち上がる。


そこでヒロシはある違和感に気づき、のりこさんの耳元で囁いた。


「なあ、のりこさん……。今、この子、普通に俺たちの言葉を話さなかったか?」


「そういえば……」


のりこさんもハッとした。


ここはスイスのアルプス。本来なら現地の言葉のはずだ。

しかし、エーデルの口から出た言葉は、一点の曇りもない、完璧な日本語だった。

それも、どこか不自然なほどに明瞭で、聞き取りやすい。


「あの……エーデルちゃん、でいいのかしら? あなた、どうして私たちの言葉が分かるの?」


のりこさんが恐る恐る尋ねると、エーデルは不思議そうに小首を傾げた。


「どうしてって……私は普通に話しているだけだよ? あなたたちの言葉、私にはちゃんと自分の国の言葉として聞こえるし、私の言葉もあなたたちに通じているみたい。不思議だけど、お話ができるなら問題ないよね!」


その話し方は、まるで海外ドラマの「吹き替え版」をそのまま聞いているかのようだった。

声のトーンからイントネーションまで、テレビで聞いていたあの声そのものである。


「なるほど、これが『テレビの中の世界』のルールってわけか……」


ヒロシは納得したような、していないような複雑な表情で顎をさすった。


「それより、あなたたちはどこから来たの? こんな山奥に、二人きりで手ぶらでいるなんて。迷子になっちゃったの?」


エーデルが心配そうに尋ねる。


「ええ、まあ……大いなる迷子、というか、事故のようなものでね」


のりこさんは苦笑いしながら、あたりをもう一度見回した。

見渡す限りの大自然。人工物は何も見当たらない。


「ねえ、エーデルちゃん。急で申し訳ないんだけど、この近くに『電話』を借りられる場所はないかしら? 私たちはちょっと遠いところから来てしまって……その、大使館かどこかに連絡をして、助けを求めたいの」


「デンワ……? タイシカン……?」


エーデルは見たこともない単語を聞いたというように、眉をひそめた。


「うーん、よく分からないけれど、私の家ならすぐそこだよ。おじいさんの作った山小屋があるの。そこに何か、あなたたちの探しているものがあるかもしれない。とにかく、ここで立ち話をしていても始まらないし、お腹も空いているでしょう? 家に来て!」


「ありがとう、エーデルちゃん。助かるわ」


のりこさんとヒロシさんは、エーデルの案内に従い、緑の斜面を歩き始めた。


---


【第3章:カレンダーの衝撃と、素朴なスープ】


エーデルに連れられて歩くこと十数分、小高い丘の上に、丸太を組んで作られた素朴ながらも頑丈そうな山小屋が見えてきた。

周囲には、白いヤギたちがのんびりと草を食んでいる。


「ここが私の家だよ。さあ、入って」


エーデルが木製の重い扉を開け、二人を中に招き入れた。


室内は、ほのかに薪の焦げた匂いと、干し草、 オランダの高級チーズのような独特の甘い香りが漂っていた。

家具はすべて手作りと思われる木製のもので、暖炉には小さな火がパチパチと音を立てて爆ぜている。


ヒロシは室内を素早く見回したが、すぐに落胆の表情を浮かべた。


「……やっぱり、ないか」


壁のどこを見ても、黒い受話器も、ボタン式の電話機も、ましてや電線らしきものすら存在しなかった。

あるのは、素朴な棚と、真鍮製のランプだけだ。


「エーデルちゃん、ここにはおじいさんも一緒に住んでいるのよね? おじいさんは今、どちらに?」


のりこさんが尋ねると、エーデルは暖炉の上の大きな鍋を覗き込みながら答えた。


「おじいさんはね、今朝早くから、遠いふもとの町まで羊を売りに出かけているの。山をいくつか越えなきゃいけないから、2〜3日は帰ってこないわ。だから今は、私とお留守番の動物たちだけなの」


「そう、おじいさんは留守なのね……」


のりこさんは途方に暮れた。

大人の相談相手がいないとなると、事態はさらに深刻だ。


ヒロシは室内をさらに探索していたが、ふと、壁に掛けられた一枚の古い紙に目を留めた。

それは、手書きの数字が並んだ、極めてシンプルな作りのカレンダーだった。


「おい、のりこさん……ちょっとこれを見てくれ」


ヒロシの声が、微かに震えている。


「どうしたの、ヒロシさん?」


のりこさんが近寄り、ヒロシが指さす先を見た。

そこには、粗末な紙にインクで、現在の年が記されていた。


――1861年。


「……嘘でしょう?」


のりこさんは息を呑み、その場に固まった。


「1861年って……日本で言えば、幕末、江戸時代の終わり頃じゃない。電話なんて、この世界には影も形もないわけだわ……」


「ああ。大使館どころか、国際的なネットワークすらまともに整備されていない時代だ。俺たちは、ただの異世界ではなく、160年以上も前の過去のアルプスに飛ばされちまったんだよ」


二人は深い絶望感に襲われ、言葉を失った。

自分たちは、ただのテレビの中ではなく、「テレビが再現している、19世紀の現実」に迷い込んでしまったのだ。


そんな二人の深刻な様子に気づいているのかいないのか、エーデルは明るい声で二人を呼んだ。


「二人とも、お腹が空いているでしょう? おじいさんが作り置きしてくれたパンと、温かいスープがあるから、食べて!」


木製のテーブルの上には、少し硬そうな黒パンと、木のお椀に注がれた白いスープが並べられていた。


「あ、ありがとう、エーデルちゃん。いただきます……」


のりこさんとヒロシさんは、勧められるままに席についた。

スープをスプーンですくい、口に運ぶ。


「あ……美味しい」


それは、温めた牛乳に塩を少々加え、細かく刻んだハーブと、ちぎったパンを浸しただけの、極めて素朴なスープだった。


しかし、歩き疲れた身体に、その温かさと優しい乳の甘みがじんわりと染み渡っていく。

黒パンも、噛めば噛むほど素朴な麦の旨味が広がり、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。


「美味しいわ、エーデルちゃん。心がホッとする味ね」


のりこさんが微笑むと、エーデルは嬉しそうに目を細めた。


「良かった! おじいさんのスープは世界一なんだから。今日はもう遅いし、外は暗くなるから、ここに泊まっていって。2階の干し草のベッド、すごく気持ちいいんだよ!」


その夜、二人は小屋の2階にある、干し草が敷き詰められたロフトで休むことになった。


窓からは、満天の星空が見える。

現代の東京近郊では絶対に見ることのできない、降るような星の群れ。


「どうしよう、ヒロシさん……。私たち、本当に帰れるのかしら」


干し草に身を沈めながら、のりこさんが不安を吐露した。


「わからない……。今回は、前回の時空掃除機みたいな『こちらの意思で動かせる道具』がないんだ。原因があのテレビなのは間違いないが、そのテレビは現代の俺たちのリビングにある。こちらからアプローチする方法がないんだよ」


ヒロシも天井を見つめながら、深くため息をついた。

二人は互いの体温を感じながら、不安を抱えたまま、浅い眠りに落ちていった。


---


【第4章:チャンスとの出会い】


翌朝、小鳥のさえずりと、窓から差し込む強烈な朝陽で二人は目を覚ました。

昨日までの不安が嘘のように、外は素晴らしい快晴だった。


「のりこさん、ヒロシさん、おはよう! 朝ご飯を食べたら、私の自慢の牧場やお花畑を案内してあげる!」


エーデルは朝からエネルギーに満ちあふれていた。

美味しい山羊のミルクとチーズの朝食を済ませた二人は、エーデルに連れられて、小屋の裏手に広がる広大な敷地へと向かった。


「私たちは羊飼いだから、たくさんの羊と一緒に、この子たちが働いてくれているの」


エーデルが指さした先には、数匹の犬たちが元気に走り回っていた。

ふさふさとした美しい毛並み、賢そうな瞳、外見的な特徴。


「あ、シェットランドシープドッグね!」


のりこさんが声を上げた。


「そう、シェルティだ。こんな時代から、やっぱり優秀な牧羊犬として活躍していたんだな」


ヒロシも感心したように見つめる。

犬たちはエーデルの鋭い口笛に反応し、見事なチームワークで羊の群れをコントロールしていた。


「あっちにね、最近赤ちゃんを産んだお母さん犬がいるの。見に行こう!」


エーデルに付いて木陰の犬小屋へと向かうと、そこには一匹の母犬が横たわり、4匹の小さな子犬たちに乳を与えていた。

子犬たちはまだ小さく、もこもことした毛玉のようで、一生懸命にお母さんのお腹に吸い付いている。


「可愛いわねぇ……」


のりこさんはしゃがみ込み、目を細めてその光景を見つめた。


すると、その中の1匹――他の兄弟よりも少しだけ小さく、額に白い一文字の模様がある子犬が、お母さんの乳を離れ、よちよちとした足取りで歩き始めた。


子犬はまっすぐにのりこさんとヒロシさんの方へと向かってくる。


そして、のりこさんの靴の先にたどり着くと、「きゅ〜ん」と小さく鳴いて、のりこさんの足首に小さな頭を擦り付けた。


「あら、どうしたの? あなた」


のりこさんがそっと両手で抱き上げると、子犬は嬉しそうに尾をちぎれんばかりに振り、のりこさんの顎のあたりをペロペロと舐め回した。


「はは、すごい懐きようだな。のりこさん、その子、お前が気に入ったみたいだぞ」


ヒロシが笑いながら子犬の頭を撫でると、子犬はヒロシの手のひらにも、小さな前足を乗せて甘えてみせた。


「この子の名前はね、『チャンス』って言うの」


エーデルが隣で微笑みながら教えてくれた。


「チャンス……? 素敵な名前ね」


「おじいさんがね、この子が生まれた時、『どんな困難な状況でも、新しい好機チャンスを掴み取れる強い子になるように』って付けてくれたんだ。でも、この子がこんなに初対面の人に懐くなんて珍しいな。きっと、二人と強い絆があるんだね」


のりこさんは、チャンスを胸に抱きしめた。

温かい、小さな命の鼓動が、手のひらを通じて伝わってくる。


この不安だらけの世界で、チャンスの存在は、二人の心を大いに癒やしてくれた。


---


【第5章:嵐の予兆と、繋がる世界】


その日の夜。

二人は再び、2階の干し草のベッドにいた。


しかし、昨日と違うのは、二人の間に小さな『チャンス』が丸くなって眠っていることだった。

エーデルに「今夜は一緒に寝てもいい?」と聞くと、彼女は快く承諾してくれたのだ。


夜が更けるにつれ、外の様子が急変していった。

昼間の快晴が嘘のように、風が窓をガタガタと揺らし始め、遠くの方でゴロゴロと不穏な雷鳴が響き始めている。


「また、嵐が来るのかしら……」


のりこさんはチャンスをそっと抱きかかえながら、不安そうに呟いた。

チャンスはのりこさんの腕の中で、小さく「くぅ」と鳴いて、鼻先を押し付けてくる。


「のりこさん、少し元気を出しなよ。チャンスもこうして、俺たちを励ましてくれているんだから」


「ええ……そうね。この子の温かさを感じていると、不思議と勇気が湧いてくるわ。私たちがここへ来たことにも、きっと何か意味があるのよね」


「ああ、きっとそうだ。諦めずにいれば、必ず道は開けるさ」


二人が静かに語り合い、互いを励まし合っていた、その時。


世界の壁を越えたはるか彼方、現代の二人の我が家では、奇妙な現象が続いていた。


主を失ったリビングルーム。

電灯は消えているが、フリマで買ったあの大型テレビだけは、依然として「つきっぱなし」になっていた。


そして、その大画面に映し出されていたのは――

まさに今、1861年の山小屋の2階で、小さな子犬・チャンスを抱きしめながら語り合っているのりこさんとヒロシさんの姿そのものだった。


テレビは、時空を越えて二人を監視し、その姿を現代に投影する「窓」と化していたのだ。


そして、現代の我が家の周辺にも、また新たな気象の変化が訪れていた。

天気予報が告げていた「次の低気圧」が、猛烈な速度で発達しながら接近していたのだ。


現代の空にも、1861年のアルプスの空にも、全く同じ形状をした、巨大な、禍々しいほどの雷雲が発生していた。

二つの世界を隔てる時空の膜が、気圧の激変によって限界まで薄くなっていく。


現代のリビングのテレビ画面が、バチバチと激しい静電気の火花を散らし始めた。

同時に、1861年の山小屋の窓の外でも、激しい稲光が夜空を何度も引き裂く。


――ゴゴゴゴゴ……!


世界が、鳴動を始めた。


現代の世界。

リビングの窓の外で、紫色の巨大な雷光が爆発する。


――ドガアアアアーーーーン!!!


近所の落雷が、現代のテレビの回路に過大電流を叩き込む。


ほぼ同時に、1861年の世界。

山小屋のすぐ近くに立つ、樹齢数百年の大木へと、黄金色の雷光が容赦なく突き刺さった。


――バリバリバリ!!! ドゴーーーーン!!!


凄まじい衝撃波が山小屋を揺らす。


しかし、大木が身代わりとなって雷のエネルギーを吸収したことで、山小屋への直接の被害は免れた。

その代わり、溢れ出た莫大な電磁エネルギーが、新古品の怪しいテレビの残響と共鳴し、時空の歪みを完全に同期させた。


「きゃあああああ!」


「うわああああ!」


山小屋の2階が、眩い純白の光で満たされる。

のりこさんとヒロシさん、そしてチャンスの身体は、光の渦の中に巻き込まれ、重力を失って宙へと浮き上がった。


激しいフラッシュバック。

テレビの砂嵐のような音が耳元で鳴り響き、次の瞬間、二人の意識は再び深い闇へと突き落とされた。


---


【【第6章:新しい家族】】


「……ん……痛い……」


のりこさんは、背中に感じる硬い感触で目を覚ました。

干し草の柔らかさではない。これは……。


「のりこさん! のりこさん、大丈夫か!?」


すぐ横から聞こえたのは、聞き慣れた、しかしどこか安心しきったヒロシさんの声だった。


のりこさんはゆっくりと目を開け、あたりを見回した。

薄暗い部屋。

見覚えのあるソファ。

壁に掛けられたモダンな時計。

そして、目の前でパチパチと音を立てて完全に主電源の落ちた、フレームに少し傷のある大きな液晶テレビ。


「ここ……私たちの、リビング……?」


「ああ! 戻ってきたんだ、現代の我が家に!」


ヒロシが歓喜の声を上げ、のりこさんの手を握った。


窓の外を見ると、雨はすっかり小降りになり、雲の切れ間からわずかに街灯の光が差し込んでいる。

時計の針は、あの日から数分しか進んでいないようだった。


「良かった……本当に戻ってこれたのね……」


のりこさんは安堵の涙を流し、身体の力を抜いた。

その時、のりこさんの胸元で、何かが「もぞもぞ」と動いた。


「え……?」


のりこさんが自分の腕の中を見ると、そこには――

額に白い一文字の模様を持つ、ふさふさとした小さな茶色い毛玉が、眩しそうにパチパチと目を瞬かせていた。


「きゅ〜ん……」


子犬は小さく鳴くな、のりこさんの手をペロリと舐めた。


「チャンス……!」


のりこさんは目を見開いた。


「おいおい、本当に連れてきちゃったのか!?」


ヒロシも驚愕して声を上げる。


時空の壁を越える際、のりこさんが命がけでチャンスを抱きしめていたため、チャンスの存在も「テレビの向こう側の世界の生命体」として、こちらの現実世界へと固定されてしまったのだ。


チャンスは、不思議そうに現代のフローリングの床に降り立ち、短い尻尾を振りながら、リビングの匂いをクンクンと嗅ぎ回り始めた。

どうやら、この見知らぬ「未来の世界」を、怖がるどころか興味津々で受け入れているようだ。


「おじいさんが言っていた通りね」


のりこさんは、愛おしそうにチャンスを見つめながら微笑んだ。


「どんな困難な状況でも、新しい好機チャンスを掴み取れる強い子――。この子は、あの1861年の世界から、私たちと一緒に生きるチャンスを掴んで、ここへ来たのよ」


「そうだな。これも何かの縁、いや、あの怪しいテレビがもたらした、唯一の『最高の掘り出し物』かもしれないな。……あ、もちろん、あのテレビはもう二度と点けないし、明日フリマのオヤジに文句言って引き取らせるけどさ」


「当然よ」


のりこさんは笑った。


こうして、時空を越えた大冒険は幕を閉じた。

のりこさんとヒロシさんの腕の中には、新しく、数奇な運命を持つ可愛い家族が加わることになった。


「これからよろしくね、チャンス」


小さな子犬は、二人の言葉に答えるように、元気いっぱいに「ワン!」と吠えて、リビングを駆け回った。

窓の外では、嵐が完全に去り、静かな夜が訪れようとしていた。


(了)

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