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4 一度だけの夜


 ある晩。

 遠征先のホテルの部屋で、ノックの音がした。


 ソファに沈み込むように座っていたルカは、ゆっくりと身を起こし、前髪をかき上げると扉へ向かった。


 扉の向こうには、作業つなぎのままのリディア。かく言うルカも飛行服のまま。遠征に洒落た服を持ってくる者など、このチームにはいない。


 ルカは廊下へ一歩出て、扉にもたれるようにして立った。


「スカーレット・ウィングの新しいパーツについてなんだけど……」


 設計図を抱えたリディアが顔を上げる。

 遅れて、片眉が上がった。


「ルカ……部屋に入れてよ」


 スカーレット・ウィングは、男女の垣根が薄いチームだ。

 女技師が男の部屋を訪れても、誰も余計な意味を持たせない。これまでもルカは当たり前のように、彼女を部屋に迎え入れていた。

 だが今夜だけは――なぜか、入れたくなかった。


「いつも中で打ち合わせするでしょ?」


「……そうだな。入れ」


 二人は部屋へ入り、リディアは当然のようにソファへ腰掛けた。

 ルカも隣へ座り、横向きに足を組んで、肘を背もたれにつく。


 彼女は膝の上の設計図を指で押さえながら語り始めた。


「グレゴールさんのところの新しい部品、取り入れてみたいんだ。

 わずかだけど推進力が上がる。だけど――」


「だけど?」


「バランス取るのが難しい」


 ローテーブルにはオイルランプ。

 橙の灯りが、彼らの手元だけを柔らかく照らしていた。


 ルカは設計図の上に指を置く。


「ここ、ずらしてみたら?」

「それだけでいける?」


 金のポニーテールが揺れ、淡い香りが微かに漂う。


「はぁ……。調整が難しそう」

「君なら出来る」


 リディアが顔を上げ、口元だけで笑う。


「操縦も、すっごく難しくなるよ」

「俺なら出来る」


 今度はリディアが声を立てて笑った。


「あはは! 本当に自信家。

 ……でも、ルカならできちゃうんだろうね」


 その声が、少しだけ遠くに感じられる。


 リディアの青い瞳が、まっすぐにルカを捉えた。

 橙の灯りが、揺れる水面のように瞳の奥で震えている。


 ルカは目を逸らした。


 ――蒼の翼は堕ちない。

 ――不安など、見せてはいけない。


 彼は立ち上がる。


「ちょっといいウィスキーがあった。飲むか?」


 棚から琥珀色のボトルを取り出して見せる。


「もらおうかな」


 グラスの音。

 彼は再び隣へ座り、グラスを渡す。指先が、ほんの一瞬だけ触れ合った。


 青い瞳が、静かにルカを見つめる。


「ルカ、今日はいつもより静かじゃない?」

「そう?」

「そうだよ。普通なら私がこう言った時、“失敬だな。いつもうるさいってことか?”って返すでしょ」

「……そうだっけな」


 ルカは微かに笑い、グラスを一口だけ煽る。

 テーブルに置くと、氷が小さく鳴った。


「あはは。変なの」


 リディアは笑いながら、そっとルカの頬に触れようとした。


 ルカは反射的に、その手を掴む。


 彼女の瞳が、わずかに潤み、細められる。


 掴んだ手の指が、そっと絡んだ。


 ルカは彼女を見る。


 蒼の瞳。

 その奥に、迷いと痛みが一瞬だけ揺れ、消える。


 音のない部屋。

 氷が、ほんの少し軋んだ。


 ――吸い寄せられるように。

 唇が重なる。


 静かで、脆くて、危うい口づけ。


 ――その晩、彼は一度だけ、過ちを犯した。



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