3 わずかなズレ
ルカは、何事もなかったかのように復帰した。
エストリア共和国カペラ高地、スカーレット・ウィング整備拠点。
その名の通り、スカーレット・ウィングのためだけに設けられた場所だ。
格納庫と作業場の大窓は明け放たれ、風とともにエンジニアたちの声が流れ込んでくる。怒声ではない。指示は飛び交うが、必ず笑い声が混じっていた。
「ルカ。バカンスは楽しかったか?」
エンジニアの一人が声をかける。
ルカは白い歯を見せ、いつもの爽やかな笑みを浮かべた。ベージュの飛行服に、首から下げたゴーグルが光を弾く。
「そりゃあ、楽しかったさ。空がよく見えた。ただ――少し、薬臭かったのが難点かな」
肩をすくめると、場に笑いが広がった。
作業場はいつも通り整っている。
最新設備は揃っているが、どれも小型で可搬性を重視したものばかりだ。
ここが、常に移動を前提とした拠点であることを物語っている。
格納庫には、新型のスカーレット・ウィングと、エンジニア用の飛空艇が並んでいた。
ルカは、艶やかな赤い機体に指先を触れさせる。
魔鋼合金が、冷たく応えた。
「……より繊細になった。でも、その分、速い」
金のポニーテールを揺らしながら、リディアが近づいてくる。
作業つなぎ姿の彼女の表情は、わずかに硬い。
ルカは変わらず、軽く笑った。
「いい女になったってことか。口説き落とすのが大変そうだな。
ありがとう、リディア」
一瞬だけ、肩を抱き寄せるようにして叩く。
リディアは片眉を上げ、それから小さく笑った。
――蒼の翼は、堕ちない。
誰にでも距離が近い。
だが、誰にも踏み込ませない。
それをリディアは知っている。
だから責めないし、泣かない。
彼は今日も、“蒼の翼”。
天才パイロットのままだった。
---
その日、ルカはいつも通り、戦場の空を飛んでいた。
計器を指でなぞる。
「……少し、繊細すぎるんじゃないか?」
独り言のように呟き、微かに笑う。
「ま、俺なら乗りこなせるけど」
急旋回。
敵機の背後につく。
一発の砲撃。
敵戦闘機は呆気なく堕ちた。
操縦桿を強く引く。
雲へ潜り込む。
白い世界。
この張り詰めた感覚が、たまらなく好きだった。
雲を抜けた瞬間、急降下。
白い筋を描き、一機へ迫る。
――そのとき。
操縦桿を握る手が、ほんの一瞬、緩んだ。
慌ててマシンガンを放ち、敵機を撃墜する。
ルカは、眉を寄せた。
――一瞬だけ。
――ほんの一瞬、金の髪が脳裏をよぎった。
---
任務は問題なく終了した。
与えられたホテルの部屋。
壁の魔導ランプが、青白く室内を染めている。
ルカは飛行服のまま、ソファに落ちるように腰を下ろした。
手を見る。
わずかに、震えている。
――この俺が、“怖い”と?
「……馬鹿な」
呟いて、喉を鳴らす。
「俺は“空に選ばれた男”だ」
――そんなこと、許されるはずがない。
---
また別の日の任務。
スカーレット・ウィングは、この日も空を踊った。
急降下からの超低空飛行で前線を撹乱する。
砲撃。怒号。逃げ惑う兵士たち。
嘲るように高度を上げ、旋回する。
――誰も、気づかない。
ルカは小さく舌打ちした。
――いつもより、超低空の高度が、わずかに高い。
――下げきれなかった。
蒼い瞳が、空と戦場を映す。
彼は再び、操縦桿を強く引いた。
---
部屋に戻り、グラスにウィスキーを注ぐ。
テーブルに置いた瞬間、液体がわずかに跳ねて溢れた。
ソファに腰を下ろし、細く息を吐く。
――誰にも、気づかれていない。
だが、彼はもう、以前ほど自由には飛べなかった。
金褐色の髪を掻きむしり、グラスを煽る。
そのままソファに横たわって、両腕で顔を覆う。
「蒼の翼は、堕ちない……
堕ちないんだ……」
グラスの中で、氷が――カランと鳴った。




