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9話 『本に封印された者』

「結界の外に、奴らをまとめて締め出した」

 及己は、静かにそう言った。

「私たちが外に出るのを、あるいは敢えて中に招き入れる隙を虎視眈々と狙っている」

 その言葉は、杳の胸にひとつの疑問を落とした。土地の外との交易は細々ながら行われている。米や薬草を運び出す者に、わずかな物資を運び込む者――彼らは日常的に土地の境界を越えているはずだ。

 それなのになぜ大きな事件の話を聞かないのか。


「結界の外は危険だと言うけれど」

 翌朝。鬼鎮めの務めを終え、縁側で及己と並び湯気の立つ茶をすすりながら、杳は胸に引っ掛かっていた疑問を口にした。

「獣に襲われた、って話は聞く。でも、叔父さんみたいな例はほとんど記憶にない。

 ……もしかして、その『獣』っていうのが……?」

「どちらの可能性もあるね」

 及己は湯呑みから視線を外さぬまま答えた。金の瞳が湯気の向こうでわずかに揺れている。


「話の流れだ。一度見ておくといい」

 そう言って及己はすっと立ち上がり、杳に手を差し伸べた。

「『本から漏れ出たモノ』がどういうものか、見に行こう」

 その仕草には疑問への答え以上に、別の意図が含まれているように見えた。

「私の手を取れ」

 差し出された手を取った瞬間、視界が大きく揺らぐ。足元の感覚が消え、全身を風に攫われるような浮遊感に見舞われた。

 ――次の瞬間、二人は空中にいた。遥か眼下に見慣れたヒサギの地の森が広がっている。


「これが……結界の外……」

「そうだ。そして――」

 及己の視線の先。森の奥深く、古びた岩が幾重にも積み重なった洞の入口が見えた。

「あそこに協力者がいる」


 辿り着いた洞の中は岩の隙間から差し込む光に照らされ、意外なほど清浄な空気に包まれていた。その奥、苔むした岩を背にするようにして作られた小さな祠。その中にその者はいた。

 一見すれば杳よりも背の低い、深い苔色の髪をした幼い子供のようにも見える。だが、その気配は人間とは明らかに異なっていた。古びた石像のように永い時間をその身に宿している。

「久しぶり」

 及己が声をかけると、その者はゆっくりと顔を上げた。

「……おまえがいるということは」

 その声は、見た目の幼さとは不釣り合いなほど落ち着き払っている。

「隣のが十六代目か」

「……?」

 唐突な言葉に杳は眉をひそめた。

「なんだ。何も教えずに連れてきたのか」

 その者は呆れたように及己を見る。及己は何も答えず、隣の杳を見る。

「杳、彼をよく見てみろ」

 促され杳は改めて視線を向ける。やはり年の頃は十にも満たない子供にしか見えない。

「おれより年下の……」

「そうじゃない。タタリを見る要領で、だ」

 言われるまま意識を深く沈め、目の前の存在の「本質」へと精神を同調させていく。すると、少年の輪郭がゆっくりと滲み揺らぎ始めた。


 人の形を保っていたのはただの表層だった。その内側で無数の線が複雑な文様を描きながら激しく渦巻いている。

 ――文字だ。

 見たこともない、だが、明確な意味と力を宿した得体の知れない文字の集合体。

「……ラレース……家の、守……家屋を、崩壊……」

 読めないはずなのに、理解できる内容が脳裏に浮かんでくる。それをそのまま口にした瞬間、少年の身体が見えない鎖に縛られたかのようにびくりと硬直した。

 大きく見開かれた瞳に、驚愕と、それ以上のどうしようもない諦めの色が浮かぶ。


「杳、そこまでだ」

 及己の静かな制止の声で杳ははっと我に返った。少年はなお硬直したまま苦しそうに息を詰めている。

「な……なんだ、こいつは……」

「これが、『本から漏れ出たモノ』で『封印された者』だよ」

 及己は淡々と告げた。

「もっとも――彼は、冤罪だけどね」


 彼の名は、(レン)。槐がつけた仮の名だという。

 彼の本質は、かつて異国で家屋を守る神の眷属――ラレースと呼ばれていた存在だという。だが、仕えていた家の富を狙う別の存在によって家を崩壊させたという濡れ衣を着せられ、書に封じられた。

 槐と及己は、彼の魂に悪意がないことを見抜き、解放された後も再封印はしなかったらしい。そして、今は佐伯家の守護者のような存在として、この結界の外で土地を見守る役目を担っているという。

 槐は廉の性質を聞いて「座敷童のようだ」と言ったそうだ。そういったところから親近感を持ったのかもしれない。


「……それで、致命的な事件が起きなかったのか」

「己には境界を守る力がある。だから結界の外側を見張るよう槐殿に進言した」

 廉はまだ体の強張りを残したまま静かに答えた。

「ある程度の敵ならこっそり追い払いはするが、己はそれほど強くはない。防御特化だ。それに――」

 彼は、わずかに言葉を選ぶように間を置いた。

「『不殺の縛り』があるおかげで全力が出せない。それはあちらも同じだから、せいぜい様子見をしに来る程度だろう」

 その言葉に、杳は改めて彼の本質を視た。魂に刻まれた文字列。その中に、確かに「人間を殺すことを禁じる」という一文が、枷のように輝いている。


 封印された者には、その性質や能力を封じるための「封じ句」と、死をもたらさないための「不殺の禁じ句」が刻み込まれるらしい。この縛りがある限り、『封じられた者』はその力の全てを振るうことはできないのだという。

「だからたまに取りこぼしが出る。それが『獣に襲われた』という話になるわけだ」


 杳は言葉を失った。自分たちの知らぬ間に、こんな子供の姿をした存在が土地の外壁をたった一人で守り続けていたとは。

「……ごめん」

 杳は静かに頭を下げた。

「事情も知らずに、本質を覗き込んだ」

 その言葉に廉は少しだけ目を見張り、そしてふっと息を漏らした。

「それが己たちが『本』に縛られているという証拠だ。及己はそれを見せたくてここへ連れてきたんだろう?」

 及己は、ふっと視線を逸らした。

「それにしても、筋がいいな十六代目」

 不意に、廉が言う。

「槐殿でも己を読むにはもう少し時間がかかった。十六代目には本質を視る特別な才能があるらしい」

 及己も静かに頷いた。

「ああ。杳にはその才能がある」

 その言葉は素直な賞賛として杳の胸に染み込んだ。だが同時に、自分が無意識に行った行為が廉にどれほどの苦痛を与えたかを思い、胸が痛んだ。

 読み上げられた瞬間、彼を縛り付けたあの絶対的な拘束。

 あれが封印された者への「枷」か。それを振りかざされることは耐え難い屈辱と苦痛だろう。

「……ごめん」

 再び頭を下げると、廉はさらに驚いたように目を丸くしてから、思わずといったように苦笑した。

「気にするな。それが己たちの仕組みだ」

 

 そう言い、さて、と一息おいて廉は懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出す。

「欲しがりそうな情報があるぞ」

「こいつは、本気で『本』を憎んでいる。次に相対するとすればこいつだ」

 描かれていたのは禍々しい装飾が施された、一つの仮面。


 廉の言葉を背に、杳と及己は再び楸の地の空へと舞い上がった。

 眼下に広がる、昏く、静かな土地。その外側で声なき守人が、今も一人境界を守り続けている。自分はまだ、この世界のほんの僅かなことしか知らなかったのだと杳は痛感していた。

 そして――隣を飛ぶ友人のことも。


「及己」

「ん?」

「……ありがとう」

 何に対しての礼なのか。杳自身にもはっきりとはわからなかった。

 ただ、そう言わなければならない気がした。

 

 及己は、何も答えなかった。

 ただ、その口元が緩やかに弧を描いたのを杳は見逃さなかった。

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