4話 手向け
杳は言葉を失っていた。
これが及己の力。
本人は確かに『そこそこ強い』と言っていた。だが、存在そのものを押さえ込み、抗う余地すら与えないこの力を果たして『そこそこ』と呼ぶのだろうか。
及己はゆっくりと大鹿へ歩み寄りその巨体を見下ろした。金の瞳は感情を排した裁定を下す者の色を帯びている。
「親を殺されたまでなら、同情もしたんだ」
静かな声だった。
「でも、おまえはタタリを取り込んで人間を殺した」
黒いもやがびくりと揺れる。
「なら、私がその仕返しでおまえを殺しても文句は言えないだろう。――因果応報だ」
逃げ場のない死の宣告に大鹿の巨体が戦慄に震える。
先ほどまでの憎悪は霧散し、ただ生存本能をかき乱すような底知れぬ恐怖に支配されていく。その様子を一瞥すると、及己は振り返り杳を見る。
「このまま吹き飛ばして、消滅させることもできるけど?」
感情のない声で、選択肢だけを差し出す。
杳は改めて言葉を失った。
及己の底知れなさにただ呆然としていたが、はっと我に返ると声を絞り出した。
「――もういい、及己」
杳の硬い声が森に響く。及己は何も言わず静かに身を引いた。
任せる、ということなのだろう。
「おれが話す」
息を整えながら、黒いもやに包まれた大鹿へとゆっくり歩み寄る。
それは、命の終わりに立ち会う覚悟を込めた一歩だった。
それからのことは、まるで夢の中の出来事のようだった。
杳はただ、ひたすら聞き続けた。
母親を失った悲しみ、人間へと向けられた憎しみ、死に際にタタリを無意識に摑み取ったどうしようもない悲しみを。
そして杳は言葉を選びながら静かに語りかけた。猟師の行いは決して許されるものではないこと。けれど、それは生きるための選択だった、最初から悪意をもって向けられたものではなかったと。
命を奪うのであれば、そこに礼が伴うべきだったと。
そして、母親は子が憎しみに囚われたまま終わることを決して望んではいないと。
やがて、夜がゆっくりと白み始める頃、鹿の子の体を覆っていた黒いもやが朝霧がほどけるように音もなく静かに薄れていった。
絡みついていたタタリが、少しずつ解けていく。
巨大だったその体は次第に縮み、歪んでいた輪郭を取り戻していく。
そこに現れたのは、本来あるべき姿の、痩せ細った一頭の鹿の子だった。
黒い瞳が、まっすぐに杳を見つめる。その奥にはもはや憎しみの色はなく、ただ疲れ切った安堵のようなものだけが残っていた。
鹿の子は静かに息を吐く。そしてそのまま音も立てず、崩れるように地に伏せる。
朝の光に包まれながら、その命は穏やかに終わりを迎えていった。
先ほどまで肌を刺すように満ちていたタタリの気配は嘘のように消え失せていく。
鹿の子の体から最後の温もりが失われたのを確かめると、杳はその場に膝をつき静かに手を合わせた。
その所作に及己は何も言わず、口を挟むこともしなかった。
ただ、倒れ伏した鹿の亡骸からほんのわずかに視線を逸らす。
朝の光の中で溶けきれなかった黒いもやが名残惜しむように地へと潜っていく。
その様子を見つめる金の瞳が一瞬だけわずかに細められた。
ほんの一瞬だけ。まるで何かを飲み込むように及己の喉が小さく動く。
「……」
声は出なかった。
もしも、タタリを解く前に消し飛ばしていたなら――そんな「もしも」が思考の縁をかすめる。だが及己はそれを言葉にしない。
結果はこれだ。
受け入れ、そして死んだ。それ以上でもそれ以下でもない。
及己はゆっくりと視線を戻し、もう一度だけ鹿の子の亡骸を見た。
そこにあるのは敵でも裁かれるべき存在でもない。
ただの――間に合わなかった命のひとつ。
指先がわずかに強く握られ、そして静かにほどける。
「……まだ、することがあるんだろう?」
それだけを告げて、及己は先に踵を返した。背を向けたその肩はまっすぐで揺らいでいない。
杳は気づかなかったが、その歩幅はほんのわずかに来た時より狭くなっていた。
その後、西の沢の住人のもとへ向かい、一連の顛末をすべて話した。
猟師は自らの行いを深く悔い、杳とともに鹿の母子が命を落とした沢で供養の祈りを捧げることとなる。森で見つかった亡骸は丁重に葬られ、残された遺族は近隣の者たちが支え合いながら暮らしていくことになった。
そして発疹に苦しんでいた者たちの症状も杳が皮膚に絡みついたタタリを祓い、及己が炎症を癒やすことで跡形もなく消えていった。
川の水も、供養によっていずれタタリの影響は消えるだろう。すべてが終わり、自宅へと戻る昼下がりの畦道を並んで歩きながら、杳は隣の及己にぽつりと言った。
「……鹿の子に、おれが話せるヤツだって思わせるために、わざと怖がらせるような言い方しただろ」
及己は前を見たまま曖昧に答える。
「さあね。でも、あれも本心だよ」
杳はそれ以上何も言わなかった。
彼女の真意が読めないまま、杳はただ困惑を飲み込んだ。
しばらくして及己が足を止める。
先を歩く杳の背中を見つめながら呟くように言った。
「……いい子に育ったね」
虚を突かれたように杳は振り返り及己を見る。
その目には不思議な色が浮かんでいた。
その言葉になぜか胸の奥を締めつけられるような感覚を覚える。
再び家へ向かって歩き始めてすぐに、ふと杳が足を止めた。自身の失念に気づいたのか、その表情が苦々しい焦燥を含んだものへと引き締まっていく。
「……及己。悪いけど先に戻っててくれ」
「なぜ?」
及己が訝しげに眉をひそめる。
杳は自宅とは別の方向――佐伯家が土地神の代行者としてタタリを鎮める役を引き受け実行する場所――『臍』の祠がある方角を見やる。
「まだ今日の務めが終わってない」
「ロクに休んでない状態で『臍』に潜るのか」
「大丈夫だよ。……これまで一日もサボってないのに」
杳は臍へ向かって一歩踏み出した。
体に疲労はあるが、それでもその瞳に宿る意思は揺るがなかった。
「佐伯の当主は二五〇年、一日たりともこの務めを欠かしたことはない。……おれが止めちゃダメだ」
及己は、その背中をじっと見つめた。辛い役回りだと思えるほど真面目な言葉。けれど、それこそがこの土地に縛られた一族が守り続けてきた誇りなのだと察した。
「責任感が強すぎるのも困りものだね」
及己はそう言いながら、結局は放っておけないと言わんばかりの足取りで杳の隣に並ぶ。杳は少し照れくさそうに笑い、二人は朝露の乾いた道を祠へと歩いていった。
ここ「楸の地」に流れる空気は、いつもどこか重く、昏い。
だが、たった今二人の間を通り抜けていった風は、いつになく柔らかなもののように感じられた。
以上で導入話になります。ここまでお読みいただきありがとうございます。




