35話 名の再定義
次に彼女の意識が捉えた光景は、地獄と呼ぶ以外にないものだった。
炎が視界のすべてを赤黒く染め上げ、破壊され尽くした街の中心に彼女は独り立ち尽くしている。粉々になった瓦礫と、あらゆるものが焼け爛れた匂いが熱風に混じり、生き物の気配はどこにもない。
ただ、風に巻かれた炎が轟々と鳴る音だけが、世界の終焉を告げるかのように響いていた。
一体、何があったのか。
今は夜ではなかったか、視界の端に月を見たはずだ。
『その名と、『憎しみ』、三者の長の魔力をもって、その『精神』を封じる。憎しみだけを残した『人形』となれ』
不意に、その言葉が蘇る。
人形――人形にして、どうする。
自らの身体を見下ろせば、力の奔流が駆け巡った後の余韻が、まだ残っていた。
――まさか。
その可能性に辿り着いた瞬間、視界が暗転しかけ足元が揺らぐ。だめだ、と本能が叫ぶより早く、彼女は力のすべてを解き放ちその場から飛び出していた。
逃げろ。どこへ。
レクスが眠る森か――いや、だめだ。あの場所には森の者たちがいる。
誰もいない場所へ、生きるものの存在しない世界の果てへ、はやく、はやく。
高速で空を駆ける眼下には、崩壊した街や村、無残に折れた城の尖塔が次々と映り込む。それらすべてが、自らの罪を告発する無言の碑石のように見えた。
意識が再び遠のいていく。
人形になれ、と命じた声。身体に残る力の記憶。眼下に広がる破壊の痕跡。
薄れゆく意識の中、彼女はただ叫んでいた。
それは罪への恐怖だったのか、薄れゆく自我を繋ぎ止めるためだったのか、自分でも分からなかった。
やがて辿り着いたのは岩と砂だけが広がる不毛の大地だった。見つけた洞の奥でようやく一息ついた時、ここなら仮に暴走しても誰も傷つかないという、わずかな安堵が思考を落ち着かせた。
何があったのか。意識は家族の亡骸を前に憎しみに染まった瞬間から途切れている。ならば、と彼女は意識を身体の奥へ沈めた。意識が失われていても、この身が覚えているはずだと、力の流れの痕跡を探る。
身体は直接的な言葉を語らずとも、力を放ち、周囲をことごとく破壊したという事実を雄弁に伝えていた。
再び意識が暗転しかける。その瞬間、彼女は自らの腕を打ち砕いた。
痛みが意識を繋ぎ止め、体の記憶を呼び起こす。万が一意識が途切れても、傷ついた体では力を振るえないだろうと考えたからだ。
意識が薄れるたび、彼女は自傷を繰り返した。
そうして繋ぎ合わせた記憶は、あまりにも醜悪な真実を映し出していた。
魔族の長は、彼女を魔族の同胞の形をした兵器として戦地に投入し、意図的に制御を奪い、暴走を引き起こさせ人間の世界を焼き払った。
――その力が「間違えた」ものだからだ。
――間違えたものは引き下がっていた方がいい。そうしなければ、きっと間違った方向に利用され、無駄な破壊をすることになる。
かつて本能が告げた通りのことが、現実となった。
間違えたのだ。
どこから、何を。
何が正解だったのかもわからなくなった彼女は、ひたすら泣いた。
喚いても仕方がないとわかっていても、止められなかった。
その後、彼女は自らの力を意図的に大きく削り、弱らせてから人の世界へ戻った。
欠落した記憶を埋めるため、そして三人の長への復讐のために。
世界は荒れ果て、人間同士が魔族に煽られ争う新たな地獄が広がっていた。彼女は影から魔族を狩り、情報を引き出し、滅した。
やがて、その繰り返しの中で失われた時間のすべてが明らかになっていった。
意識が戻ったのは、三人の長のうち一人が人間の遠征軍に討たれ、封印の枷が欠けたからだった。
高揚と同時に、彼女は自らの罪の全貌を知り、深い絶望に沈んだ。そして名も知らぬ人間に感謝した。
やがて二人目の長が倒れた時、彼女は自ら動いた。
最後の一人だけは、この手で葬らなければ気が済まなかったからだ。
そして、彼女は最後の長を殺した魔族として、罪ごと滅されるために人間の遠征軍の前に立った。
その頃、人間たちは魔族との永い戦いの果てに、一つの秘術を編み出していた。相手を殺さずその魂を『書』に封じ込めるという術。
精神を失った抜け殻の肉体は、容易く滅することができる。彼女もまた、その対象となるはずだった。
だが、指揮官の一人が「待った」をかけた。
彼は人間同士の争いを煽る魔族の存在に気づいており、彼女がその魔族たちを影で滅していたのを偶然にも目撃していたのだという。
指揮官は彼女に対話を求め、彼女もそれに応じ、これまでの経緯を包み隠さず全て話した。
彼は、放逐も滅却も危険だと判断し、彼女に一つの役割を与えた。
――本の内側から封印を守れ、と。
その姿を本の鍵へと変え、本に封じられた者たちを抑えること。
それを未来永劫続けること。
それはある意味では、責任の重い誇りであり、ある意味では、死より重い罰になると言った。
彼女は静かに受け入れた。
それで過ちがほんのわずかでも修復できるのなら、と。
そうして彼女は本の『鍵』となり、内側からの封印を守り続けた。
本の中に息づくモノたちを抑えながら、また、理解しながら。
次に、佐伯槐という一人の人間の手によって、その鍵が破ら『及己』という名を与えられる三百年後まで。
これで及己の過去編は終了です。
ここまでおつきあいくださいましてありがとうございます。




