33話 名を与える
「なんなんだおまえは……」
力が抜けたように体を倒した男が問うと、「魔族だと、おまえも言ったではないか」と彼女は返した。
男は吐き捨てるように言う。冗談じゃない、魔族は人間の敵だ。奴らは人間を玩具か何かのように思っている。正しい力の使い方も知らない化物だ、超常の力に溺れる狂人だ、と。
一通り聞いた彼女は男に問うた。正しいとはなんだ?と。
「……弱い者を守り助けることだろう。殺すより生かし、壊すより――保つことだ」
その言葉に、彼女の魂の奥で何かが繋がった。
――ならば、私は、正しい。
再び目を開けた男の瞳から、敵意は消えていた。
「おまえは人間が憎くないのか」
会ったこともない存在を憎む理由が分からない。そう答えると、男は「同胞を殺しただろう」と告げる。
会ったこともない同胞の死を、悲しいとは思えない。そう返すと、男は言葉を失った。
彼女は問うた。
人間は会ったことのない死者でも、それが『人間』ならば魔族を憎むのか、と。
男は誇るように答えた。
一つの目的のために戦うものは皆同志だ、顔や名など問題ではない、と。
「魔族と人の戦いが終わらないのはそれでか?
魔族を殺しきったらその憎しみは消えてなくなるのか?」
彼女の純粋な問い。その根源的な問いに、男はもう何も答えられなくなった。
それから二人は、途切れ途切れに言葉を交わすようになり、彼女は彼らの『営み』に興味を抱き始めた。
着るもの、傷を癒やすもの、暖を取るもの、そして、食べるもの。人間が生きるためには、ここはあまりにも多くのものが足りていなかった。
彼女は人間に詳しいと自称する森の精霊に教えを乞い、人間の世界へ足を運ぶようになった。
姿を偽り、森の恵みを『金』というものに換え、人間が必要とするものを手に入れていく。その営みを間近で見るうちに、彼女は魔族の価値観がますます分からなくなっていった。
人間はレクスと名乗った。
彼女には、まだ名がなかった。
レクスの傷が癒え始めた頃、森の者たちが再び人間の侵入を知らせ、落ち着かない気配で騒ぎ出した。
今度は一人ではなく、どこかの国の師団だという。腕に赤い布をつけていると聞いた瞬間、レクスは息を詰めた。
「……俺を、追ってきた者たちだ」
国に追われ、この森へ逃げ込んだのだと、彼は静かに語った。捕らえるためか、殺すためか――だが、おそらくは後者だろう、と。
ならば、と、彼女は森の者たちと一芝居を打つことにした。
正面から拒めば踏み込まれる。ならば、森そのものに拒まれていると悟らせればいい。
森の中を進む師団の前を鼠が横切り、次いで兎が現れた。
兎は森の精を名乗り、彼らに来訪の理由を問うと、師団は迷い込んだ者を迎えに来たのだと答えた。
兎はその人間はすでに死んでいると告げ、獣に食い荒らされたのだと答える。
鎧だけでも残っているはずだと詰め寄る彼らを、兎はある場所へ導いた。そこには、黒く歪んだ鎧や武具が無惨に散らばり、湿った土がかつて人がいたことを物語っていた。
兵の一人が遺物を足蹴にし、やがて鎧の手甲と小さな革袋を拾い上げ、哄笑する。
その不躾な振る舞いに、兎の姿を借りた彼女は静かに告げた。
「――迎えに来たと言ったのは、人ではなくモノだったのか」
そして、冷ややかに言い放つ。
「用が済んだなら、去れ」
その瞬間、森全体が一つの意思となって囁き始めた。
頭上を旋回する小鳥が「去れ」とさえずり、地を走る鼠が「帰れ」と鳴き、鷲が「消えろ」と空を裂く。
抗いようのない拒絶に師団は恐れをなし、逃げるように森を去った。
師団が森を出たことを確認した彼女はレクスに告げた。もう来ることはないだろう、と。
やがてレクスは過去を語った。
彼はその国で『勇者』と呼ばれ、魔族との戦で讃えられた存在だった。だが、その武功は策略によって仕組まれたものだと貶められ、糾弾され、命を追われたのだという。
話を聞きながら、彼女は思った。
人間と魔族は何が違うのだろう。人間もまた、同じ人間を容易く貶めるではないか、と。
彼女が傷が癒えたら国へ戻るのかと尋ねると、レクスは首を振った。
争いはもう嫌だ、と。師団が持ち帰った革袋には彼の階級を示す宝石が入っている。国にとって彼はすでに死んだ者なのだ、と。
そうして、レクスは彼女と共に森で暮らすことを選んだ。
ある日、彼は名がないのは不便だと言い、彼女をこう呼んだ。
『ルイ』、そして『ルイ・ブライン』。
故郷の言葉で、『清く、尊い』という意味だと笑いながら。
その名を与えたレクスは、やがて人間としての寿命を迎え、静かに息を引き取った。
彼女は、森の者に弔いを教わりながら、初めて人間の『死』を見た。
それは恐ろしくも醜くもなく、ただ穏やかで、安らかなものだった。
初めて見た人間の死は、彼が与えてくれたその名のように、どこまでも『清く、尊い』ものだった。




