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32話 名無しの彼女

 彼女には名がなかった。必要がなかったからだ。

 

 もしも、創造主というものがいたとして、存在を象る配分を決めているのなら――

 

 自分はきっと「間違えた」のだろうと彼女は感じていた。


 意識と身体の感覚がどうにも噛み合わない。

 岩肌に触れただけの指先がいとも容易く岩を抉り、器を持てば掌の中で砕け散る。

 自分は思っているよりも、ずっと力が強いらしい。


 ――これは、よくない。


 彼女の本能がそう告げていた。

 ここにいてはいけない。意図せず何かを壊す前に離れなければならない。


 そして、彼女は誰の目にも触れぬよう、深く昏い森の奥へ身を潜めた。

 そこは言葉を持たぬ者たちの世界。鳥や獣、妖精も精霊も、純粋な『意思』だけを伝えてくる。取り繕いのない魂の響きは、彼女にとって心地よいものだった。


 彼らは教えてくれた。自分は『魔族』と呼ばれる存在であること、人と魔族が互いを滅し合うほどの諍いを続けていること、そして自分はそこから逃れた者なのだと彼らが思っていることを。


 ――違う。

 ――関わりたくなくて、見たくなくて、ここへ来ただけ。


 力があるのになぜ、と問われ、彼女は答えた。


 ――その力が「間違えた」ものだからだ。

 ――間違えたものは引き下がっていた方がいい。そうしなければ、きっと間違った方向に利用され、無駄な破壊を生むことになる。本能がそう告げている。だからここにいるのだ、と。


 彼女はその本能を信じ何もしないようにした。事実、森で過ごす時間は穏やかで満ち足りていた。


 そうしてどれほどの時が流れただろうか。その日、森の静寂を破って一人の人間が迷い込み――そして、力尽きたように崩れ落ちた。


 森の者たちに導かれ、彼女は初めて『人間』を見る。まだ息はある。だが、このままでは死ぬ。

 かわいそう、痛そう、と嘆く森の者たちの声の中で彼女は逡巡した。

 触れれば壊してしまうかもしれない。それでもおそるおそる人間の小指に触れた。小指なら万一折れても命には関わらないだろう、と思って。


 指は折れず、代わりに微かな生の反応が返ってくる。


 ――壊さなかった。


 その安堵が彼女を少しだけ大胆にした。肩を貸し、半身を背負う。自分よりも二回りも大きな身体のはずなのにひどく軽く、脆い。背に伝わる体温が妙に熱い。


 自身の住処へと運び、横たえさせる。ふと見ると自分の肩から背中に背中にかけて赤黒いものが付着しており、人間の腹や胸を染めているものが付いたのだと理解した。

 森の獣同士が争った時に流れるものと同じだと気づき、それが『血』というものだと知り、森の者たちに教えられるまま初めて『手当て』という行為を学んだ。


 重々しい甲冑を解き、傷を洗い、薬草を盛り、布で額を冷やす――

 一通りの仕事を終えた時、彼女は気づいた。


 何も壊していない、と。


 そして、人間は念じただけでは傷は癒えず、時間をかけ回復を待つしかないのだということを知る。何も知らなかった。関わる必要などないと思っていたことを、初めて後悔した。


 魔族は人間を非力で矮小だと見下すという。

 確かに非力。しかし、矮小だとはなぜか思えなかった。


 やがて人間が目を開け彼女の姿を認めた瞬間、驚愕に見開かれる。


「おまえ……魔族、か……?」

 掠れた問いに、彼女は初めて声を発した。

「……そう言われている……らしい」

 口から零れた音に、彼女は、その響きに一瞬だけ意識を向けた。


 ――そういえば、初めて声を発した気がする。

 自分の声はこんな響きだったのか、まるで他人の声を聞いたように思えた。


「何が……なぜ……俺はどうなった……どうして……魔族が……」

 次々と投げつけられる言葉に、彼女は瞬きを一つする。

 問いが多い。人間とはこんなにも雑音の多い生き物なのか。森の者たちのように意識だけで語ればいいものを。

 そう思いながら、意識と発声が一致している問いだけを選び答える。

「森の中にいた。放っておいたら死ぬと森の者が騒いだので手当てをした。ここは私の寝床だ」

 人間は理解が追いつかないという顔をしたまま、喉を鳴らす。

「……おまえはなんだ」

「魔族と呼ばれる者らしい」

 その言葉が引き金だった。人間の呼吸が荒くなり、視線に剥き出しの警戒が宿る。

「なぜ魔族が人間を……? 敵のはずじゃ……」

「言っただろう。森の者が騒いだからだと」

 その返答は男の感情を逆撫でしたらしい。


「ふざけるな……!」

 怒声と共に男が跳ね起き、彼女の首を掴み上げた。大きな手だ。片手で十分に彼女の細い首を一周できてしまう。

 だが、その手は動揺と痛みに震えていた。


 人間は、もう少し力を込めれば首をへし折れると考えているらしい。おまえの命は握った、と告げるように。恐怖しろ、と言わんばかりに。

 射殺さんばかりの視線が真正面から突き刺さる。彼女は恐怖も怒りも示さず、その目をまっすぐに見返した。


 なぜ人間はここまで必死に『敵』を求めるのだろうかと、静かに思うだけだった。


 その様子を見ていた彼女の周囲に潜んでいた者たちが騒ぎ出した。鳥が、小動物が、人間に抗議するように騒ぎ立て、男は居心地が悪くなったように彼女から手を離した。

及己の過去編です。

4話続きます。本日中に2話投稿予定です。

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