31話 役目と使命感
廉の祠に着くと、彼はまるで全てを察していたかのように静かに二人を迎えた。
顛末を伝えると張り詰めていた糸が緩み、安堵がその表情を染めて、
「まあ、事なきを得たならそれに越したことはなし」
とだけ言った。
張った境界線についても、あと三体いるならそのどれかで使えばいいと、こともなげに言い放つ。その気遣いが今はありがたかった。
家に戻ると、亘が心配そうな顔で二人を迎えた。
夕餉の木具膳にはすでに温かな湯気を立てる料理が並んでいる。
食事を摂りながら、杳は昼間の出来事を順序立てて亘に話した。猫大将の話と岸邱の鼠、そして数年前の出来事との奇妙な繋がり。そしてエリダナが目論んでいた『大いなる死』という破滅的な計画を。
話が進むにつれ亘の表情から穏やかさが消え、医家としての鋭く真剣な眼差しへと変わっていった。
「……鼠が運び手になる病……」
腕を組み、深く考え込む。知識の中にも、すぐには該当する病名が浮かばなかったらしい。
「痘瘡か……。でも、聞く限りそれよりも短期間で命に関わるもののようだ……。もし発生したら対処が追いつかないだろうな……」
「痘瘡だって、遥か昔に異国から入ってきたと聞いている。虎狼痢もそうだ。それだって、いつこの土地に流れ着くか分からない」
亘は重々しく頷いた。その脳裏には、目に見えぬ脅威が人々をなすすべもなく蝕んでいく最悪の光景が広がっているのだろう。
「そうか……鼠か……。鼠毒だけじゃなかったのか……」
悔しそうな呟き。
「収穫物が鼠に齧られたら、その部分だけを選り分けるだけじゃ無理なんだろうな……」
木具膳に重い沈黙が落ちる。それは、ただの夕食の沈黙ではなかった。一つの土地の医療をその肩に背負う者の、静かな覚悟が場の空気を支配していた。
「食事が済んだら少し医局に籠もるよ。次に交易の者が来た時、詳しく話を聞くための書面を今のうちに認めておきたい」
その声は穏やかだったが、見えざる敵と戦う決意が滲んでいた。
食後の片付けを終え、熱い薬缶を手にした杳は、縁側で夜の闇を見つめている及己に静かに声をかけた。
「及己。おれの部屋に来てくれ」
及己は、何も問わずに頷く。
杳の部屋は質素だった。
火鉢に書見台といくつかの書物に、書を認めるための小さな文机。あとは壁際に畳まれた布団だけ。
その部屋で杳は及己の前に座布団を出し、腰を下ろすよう促す。持ってきた薬缶の湯を、古びた土瓶へと静かに注ぐ。茶葉が開き、かぐわしい香りが広がった。
「……おれも、茶くらいは淹れられるんだ」
そう言いながら、湯呑みをそっと差し出す。
「叔父さんには、負けるけど」
及己は静かに一礼し、両手で包むように受け取って、一口含んだ。
「……同じ葉だろうに、亘のとは違うな」
そして、少しだけ口元を緩める。
「……でも、これはこれで、旨い」
二人の間に、沈黙が流れる。
湯呑みから立ち上る湯気だけが、ゆっくりと揺れていた。
やがて――。
「聞かせてくれ」
杳が言った。
及己は頷き、手にしていた湯呑みを畳の上へ静かに置く。
「全て話すと長くなる――が、簡潔にもできる。どちらがいい?」
「……ん?」
「夜もだいぶ更けた。明日の務めに障るなら、まとめた方がいいかと思って」
思わぬ気遣いに虚を衝かれる。
「いやいや、重要そうな話を略そうとすんなよ」
そう言いながら、付け加えた。
「……でも、一応、その簡潔な方も聞いておく」
及己は、一度、息を整えた。
「かつて、人間と魔族の間で大きな諍いがあった。魔族はエリダナのような気質の者が多く、それ故に人間への攻撃も容赦がなかった」
「ふんふん」
「私はその中の一つとして、魔族の長に兵器として扱われた。それがバアルベリトやエリダナが言っていたことの概要だ。以上」
「……簡潔版は分かった。でも、それじゃあ自分が地雷火か何かだって言ってるようなもんだぞ」
「間違いじゃない」
即答だった。その、あまりにも平坦な肯定に杳は声を強める。
「背景とか、理由とかあるだろ。むしろそれが聞きたいんだよ、おれは」
真っ直ぐな言葉に及己は視線を泳がせた。何を語っても卑怯な釈明に聞こえる気がして、自嘲に喉を塞がれたまま唇を結ぶ。
けれど、一切逸らされない熱量に及己はついに根負けしたように肩の力を抜いた。
「……じゃあ」
どこか吹っ切れたような声音。
及己は語るべき記憶の重さを計るように、一度だけ天井を仰いだ。
「長い、話になるな」
そうして、及己の、永い永い物語が始まった。
それは、まるで、どこか遠い異国の物語を聞いているかのようだった。
(補足)
疱瘡-天然痘・庶民が使う呼び名、民間記述ではこの表記が多い
痘瘡-天然痘・漢方書など医学書では痘瘡の表記が好まれたそうです。
虎狼痢-コレラ
鼠毒-鼠咬症
ここまでお付き合いありがとうございます。




