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3話 本の中にいた人外

『それに私はそこそこ強い。この土地にとって強い力を持つ異物は危険だ。タタリにどんな影響を与えるか分からない』

 一呼吸置いて

『杳の成長を邪魔しないためにはこれが最良だったんだ』

 静かに続いたその声は、不思議な優しさと温かさを帯びたものだった。

 知らぬところで、見えぬ形で自分はずっと守られていたのか、そう思うと胸の裡が軋みを上げた。


 怜悧な声がわずかに低くなる。

『望めば剣にも盾にもなろう。だがその代わり、槐さん――お祖父さんのやり残しを引き継ぐことになる』

「……祖父さんの、やり残し……?」

『話せば長くなる。出してくれたら話すよ。それにもう時間がないんだろう?』

 図星を突かれ、杳は言葉を呑んで奥歯を噛み締めた。外にはあの怒り狂った鹿の子がいる。一刻を争うのだ。

「……本当に力を貸してくれるのか」

「誰にも危害を加えないか」

 わずかに目を細め、相手の奥底を射抜くように問いを重ねた。

『佐伯家に誓う』

 三度目の即答だった。

『私も問う。「約束」を聞く気はあるか?』

 杳は目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、叔父から伝え聞いた両親と祖父の最期、そして、この土地を守るために命を削ってきた先祖たちの影だった。


「……祖父さんのやり残しは佐伯に関係あることのはずだ。家に課されたことは当主が引き取らなきゃいけない」


『――なら、開けろ』


 杳は書棚に手を伸ばし、その本を引き抜いた。

 表紙の古びた革が淡い光を帯び、脈打つように輪郭が揺れる。留め金がひとりでに外れ本が開いた。

 溢れ出した淡い光はやがて緩やかに人の形を象っていく。光が収まった時、そこに立っていたのは一人の人物だった。暗紅色の長い髪が肩から背へと流れ落ち、無造作に後ろに一つにまとめられている。色白の肌は、人のものに似ていながらどこか冷たく、金の瞳は獣のような鋭さを宿している。尖った耳がその存在が明確に人外であることを示していた。

 おそらく女性だが、性別を断じさせない中性的な顔立ちと子供のような佇まい。

 身に纏っているのは臙脂色の異国めいた僧衣のような衣装で、布は古風でありながらこの国のものではないと直感させる。

 その存在を前に、杳の本能が告げる。


 ――人ではない。


 その者は静かに杳を見据え、視線が包帯の巻かれた肩に落ちた瞬間、表情が一変した。

「……なんだその傷は」

 怒りと焦りがはっきりと浮かぶ。不意に手をかざされ、杳は思わず身を強張らせた。だが、そこから温かな光が流れ込むと焼けるような痛みが引いて、みるみるうちに傷が塞がっていく。

 その者は傷が完全に治癒したか、他に異常がないかを確かめるように杳の周りを一回りし、大きく息を吐いた。

 杳は目まぐるしい展開に追いつけず、されるがままになっていたが、聞こえた吐息に張り詰めていた警戒がほんの少しだけ緩むのを感じた。


「……おまえの、名は?」

 問いかけると金の瞳がわずかに細められた。

「イツキ。『及己』と書く」

 それだけ名乗り、指先で空に字を書いて見せた。

「及己か……この土地らしい名前だな」

 杳はその名がこの地の森にも自生する、静かに白く咲く植物を指していることに気づいた。

「槐さんにもらったんだ」

 懐かしむように答える及己に、杳は少しだけ毒気が抜かれる。古びた洋書から現れた異質の存在に、あえて森の静寂に紛れるような花の名を与えた祖父の意図――この者を、土地の一部として受け入れる優しさを感じたような気がした。


「それで、私は何をすればいい?」

 及己は居住まいを正し、まっすぐに杳を見据えた。託された役目を必ず果たすという、静かで強い意志がその眼差しにある。


 杳は戸惑いを振り切るようにして、これまでの経緯を語った。

 沢の異変、森の亡骸、そしてタタリを纏い人間を憎悪する異形の鹿の子のことを。


「わかった」

 すべてを聞き終え、及己は短く答え、出口へと歩き始める。


 地下倉庫を出ると亘が近くで待っていた。及己の姿に一瞬目を見張るが杳の様子を見て何も問わなかった。

 家を出る間際、及己は亘に向き直り、静かに深く一度だけ頭を下げた。

 亘は驚きながらも穏やかに微笑み、小さく会釈を返した。


 ♢


 夕暮れの道に西の森へ向かって二人分の影が長く伸びていく。鹿の子の元へ向かいながら、杳はどうしても消えない違和感を口にした。

「……なぜ、あの状況で鹿の子は止まったんだろう」

 死んでもおかしくなかったのに、と訝しむ杳に及己は取り立てて重要でもないことのように、「佐伯の血のためだ」と言った。傷口から流れた血。その血に宿る気配が、他者のそれより遥かに「死」から遠かったのだという。

 

 佐伯の一族には、血を伴う行為を極力避ける風習がある。

 タタリとは流血を伴う死への苦しみが変質したもの――それと同化してはならない。そのためにも死を与える存在であってはならない。

 それは、土地の穢れをその身に引き受ける佐伯に課せられた、古くからの戒めだった。


 その一環として――肉を喰らわない。命を奪わない。


 穢れは《《気》》が《《枯れ》》るとも書く。

 血は死を誘い、獣の肉は断末魔を運ぶ。他の死と『同調』すれば、タタリを鎮めるための均衡は保てない。肉を断つのは魂の純度を守るための護身術――あるいは、死に魅入られないための『境界線』。その戒律が身体に「死」から遠い気配を形作り、鹿の子を踏みとどまらせたのだと及己は淡々と語る。


「それも祖父さんから聞いたのか」

 そう問う杳に及己は言葉を返さず、ただ小さく首肯した。


 ♢


 森の空気は昼間よりもさらに冷たく、重く沈んでいる。

 夕闇が迫るにつれ、木々の影は不自然に歪み、足元から立ち上る怨嗟の気配が黒い靄となって漂っていた。その奥、その中心に異形の黒鹿が佇んでいた。


 輪郭は定まらず、全身が黒いもやに包まれ、巨大な影だけがそこに存在している。

 本来の鹿よりもはるかに大きく、歪に伸びた角は闇を引き裂くように天を突いていた。

 頭部の瞳があったであろう落ち窪んだ場所が、杳とその隣に立つ及己を捉えた瞬間、もやが脈打ち、憎悪が波のように溢れ出す。低い唸り声が森全体を震わせた。それは警告ではなく、理性を失った憎悪の衝動だった。地を蹴る轟音とともに黒い影が突進してくる。

 狙いは明白、目の前に現れた人間を力の限り薙ぎ払うこと。

 

 その瞬間、杳の前に及己が滑るように一歩踏み出した。

 迫り来る大鹿を視界に捉え、す、と目を細める。

 次の瞬間、突進の勢いが見えない壁に叩きつけられたかのように止まった。


 大鹿の巨体が宙に浮き、黒いもやが激しく揺らぐ。締め上げられるような力に大鹿は苦悶の声を上げた。周囲に鋭い音が響く。それは獣のものではなく何かが内側から締め上げていくような音に似ていた。


 続いて、轟音。


 見えない何かに叩き落とされるように大鹿の体が地面へと叩きつけられる。大地が揺れ、土と靄が舞い上がった。

 異形の巨体は地に伏し硬直している。黒いもやは薄れ、自身に何が起こったのか理解できないまま、驚愕に震えているようだった。

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