29話 裁定者
とりあえず、罠の買い上げは持ち合わせがないと断り、二人は屋敷を後にした。
村を歩きながら、黙り込んだままの及己に杳が声をかける。
「どう思う?」
「その悦という女がエリダナと見て間違いない」
杳の問いに答えながら及己は村の畑や家並みを眺める。そして今度は逆に杳に問いかけた。
「その悦が村から消えたとして、人々は困ると思うか?」
「さあ……さっきの店主の話だけじゃ、分からないな」
二人はしばらく村を歩き、人々の声に耳を傾けることにした。そこからわかったのは多くの者が悦を快くは思っていないらしいことだった。
曰く、利用価値の有無で、人付き合いを打算する。
曰く、向き合うと、値踏みされているようで居心地が悪い。
曰く、美人で賢いが、それだけだ。
「……急にいなくなってもどこかへ行ったんだろ、程度で済みそうだな」
一通り聞き終え、杳が辟易したように呟く。
「その方が、都合がいいじゃないか」
そう言って、及己はふっと村外れの山へと視線を向けた。
「実際、もうこの村を出ている」
「え?」
「気づかれたらしい。あの山の中を走っている」
弾かれたように杳も及己が見ている山へと目を向ける。
「――! じゃあ、もう……!」
「むしろ好都合だ。人目につかないところへ自ら行ってくれた」
及己はそう言うと、杳の手を強く掴んだ。
瞬間、視界が暗転し、全身が風に攫われるような浮遊感に包まれる。
気がつくと、二人は鬱蒼とした森の中に立っていた。
♢
藤の色の着物を着た女が顔に焦りを浮かべ、汗を流しながら山中を走っていた。
息を切らせながら時折何かを噛み締め、ぐっと堪えるように喉が鳴る。
今日は、どこで夜を過ごそうか。
あの米蔵は美味い酒があるからいいが、主人のいやらしい目が不愉快だ。
物流問屋は面白いものがあるが、主人のあざとさが不愉快だ。
じゃあ、どうしようか。そんなことを考えながら一晩過ごした庄屋から出た瞬間、さっと血の気が引いた。
気がついた時には無意識のうちに走り出していた。
山の中を枝葉を薙ぎ払いながらただ走る。
なぜだ。どうして気づかれた。
偶然か。それともバアルベリトが喋ったのか。
そうだ、そうに違いない。上手く詰所の主に取り入って、協力してやったというのに恩を仇で返したな。
あいつめ……あの口だけのクソ男め……。
少し遠いが、この先に大きな集落があったはず。そこに逃げ込めさえすれば、あの女の目ももう届かない。
そう考えながら、前を塞ぐ大きな木を薙ぎ倒そうと腕を振り上げた、その時――。
「エリダナ」
温度のない、冷たい声が耳に突き刺さった。
「――ルイ・ブライン……!」
振り向いた先、木々の影の中から金の瞳が真っ直ぐに射抜いてくる。
「随分と、手間取らせてくれたな」
一歩、及己が踏み出す。
「もう、人間ぶる必要はないだろう」
その言葉と同時に悦の身体の輪郭が激しく揺れ、強制的に変化が解かれていく。
現れたのは、紫の波打つ長髪と紅玉の瞳を持つ女。身体の線をあからさまに強調する黒衣は、自らの肉体への絶対的な自信を物語っていた。
エリダナは、及己の背後に立つ杳に気づくと迷いなく手を上げる。
人質を取るためか、それとも及己の動揺を誘うためか。杳の背後の木が意思を持ったかのように歪み、鋭い刃となって襲いかかる。
だが、その刃が杳に届く寸前、陽炎のように霧散した。
及己は、最初の姿勢から微動だにしていない。
守られたという事実と攻撃を阻まれた現実が、杳とエリダナの間に等しく動揺を生じさせる。その中央で、及己は怒りの滲んだ長いため息を吐いた。瞬間、エリダナの身体が見えない力に押さえつけられその場に跪かされる。
絶対的な物理拘束。
「――『エリダナ。知略による破滅に、快楽を見出す鬼女』」
さらに、封じ句による枷を上乗せされ、完全に動きを封じられた。
及己はエリダナの正面に立ち、絶対的な強者としてただ静かに見下ろす。
「……あの子は話を聞かせるためだけに連れて来た。一切の手出しは認めない」
信じられないという表情で、エリダナが見上げる。
「……なぜ……なぜ、分かった……!? バアルベリトが、バラしたのか……!」
「違う」
及己はエリダナの足元を顎で示した。
「水溜りを踏んだだろう」
「……!」
「あの雨は私の意識の延長だ。おまえが水に触れた瞬間、その気配を掴んだ。そして、その水気は今もおまえの身体に残っている」
「……あの雨はおまえが……!?」
及己は答えない。ただ冷たい目が肯定を示していた。
「封印する前に聞きたいことがある。全て、喋ってもらう」
ちらりと背後の杳を見る。
「隠し事はしない。これが、人外……魔族のやり方だ」
再びエリダナへと向き直る。
「今から、おまえが思う『ルイ・ブライン』を再現してやろう」
そして、エリダナにとって地獄の時間が始まった。
話に嘘が混じれば精神を縛る『文字』が即座に反応し、その身を内側から締め上げる。
言葉を選んで口ごもれば、今度は別の『文字』が浮かび上がり、骨の髄まで軋ませるような圧を加えられる。
逃げ道はなく、誤魔化しも許されない。ただ事実だけを順序立てて吐き出すことだけが、わずかな猶予となった。
執行者である及己はその一部始終を感情の揺らぎ一つ見せずに、ただ見下ろす。
裁く者というより、決められた手順をなぞる装置のように、静かに冷徹に。
歯を食いしばり、呻き声を漏らしながらエリダナがその態度を詰る。
なぜそんな顔で見ていられる。なぜ平然としていられるのだ、と。
それに対し、及己はほんのわずかに首を傾け淡々と答えた。
「ルイ・ブラインは何をしても、何をされても、顔色ひとつ変えない人形のような奴だ
――そう評されていた」
まるで事実確認でもするかのような口調だった。
その間も及己は、背後に立つ杳へ言葉にならない念を静かに送っていた。
――辛かったら見なくていい。
――ここから先は、気分のいい話じゃない。
だが杳は、唇を引き結んだままゆっくりと首を横に振る。
視線は逸らさず、ただ起きていることをそのまま見届けようとしていた。
そうして引き出された話の中身は、想像以上に醜いものだった。
それは衝動的な破壊ではなく人の心をどう壊せば最も長く、深く、苦しませられるかだけを考え抜いて組み上げられた、冷酷で執拗な悪意の連鎖だった。
第一の計画は疫病だった。
鼠を集め、その処理に関わる人間たちを媒介として『大いなる死』――かつて異国で猛威を振るった疫病をこの土地で再現する。そうすれば、発症者と非発症者の間に疑心暗鬼が生まれ、村は内側から崩れていく。
交易路を失えば、楸の地もまた時間をかけて衰弱するだろう。そうなれば土地の斎主も否応なく表に引きずり出される。そこを叩けばすべてが終わる。
だが、それはエリダナにとってただの結果に過ぎなかった。
彼女が本当に見たかったのは、その過程だ。
病が蔓延した時、権力者が突きつけられる選択と、その瞬間に生まれる地獄。
患者を匿えば村が滅び、切り捨てれば人の誇りが死ぬ。どちらを選んでも判断した者として民から責められ疲弊する。破滅しかない選択を前に権力者が苦悩に顔を歪め、夜ごと眠れずに追い詰められていく姿。
それを想像するだけで胸が高鳴るのだとエリダナは恍惚とした声で語った。
しかし、病は発生しなかった。
それどころか鼠が減ったことで人々は喜び、笑顔が増え、感謝の言葉が交わされる。
気に入らない。あまりにも、気に入らない。
ならば、と、第二の計画に移った。
捕らえた鼠を数匹ごとに壺に閉じ込め、飢えさせる。すると鼠たちは壺の中で極度の飢餓状態に陥り共食いを始める。最後に生き残った一匹には自身が抱えた恐怖と食われた鼠の怨念が集まり強い邪気を帯びた個体となる。異国に伝わる蠱毒という邪法になぞらえて生み出した鼠たちを楸の地へと放った。
穀物を荒らすのもいい。土地そのものに呪いを振り撒くのもいい。そして、あの鼠は岸邱から来たと噂を流し、二つの村が憎しみ合えばそれはさぞ愉快だろう。
だというのに、何事も起こらなかった。気に入らない。
では、と、第三の計画へ。
今度は岸邱の権力者たちを直接煽った。楸を奪え、と。だが、誰も彼もがタタリを恐れ、兄弟の末裔を手に掛けることを忍びないと言い、首を縦に振らない。
ここまで何もかもが思い通りにならないのはどういうことか。気に入らない。
第四の計画を考え始めた時、バアルベリトが帳簿改竄という地味で回りくどい計画を持ちかけてきた。内部から時間をかけてじわじわと蝕む方法。
それも一興かとエリダナは頷き、交易に関わる有権者の家々を渡り歩いていたのだと、そう語って一通りの自白を終えた。




