28話 鼠の謎
「……その、捕った鼠はどうなった?」
箸を止めたまま、杳が問う。
その声にはわずかな緊張が滲んでいた。
「籠ごと大きな穴に埋めて処理した、と聞いたね」
その答えに、木具膳の上に一瞬だけ重い沈黙が落ちる。
亘と杳のやり取りを聞きながら、及己は黙って手元の湯呑みを見つめていた。
揺れる水面に映る自分の顔に何を見出そうとしているのか、自分でも分からないまま。
「……その集めた鼠を、ここに放ったと考えているのか」
杳の問いに、及己はようやくゆっくりと顔を上げた。
「断定はできない。でも可能性はある」
「それが『封印されたモノ』だという根拠は?」
「……岸邱の民は、楸に遠慮がある…と聞いている」
思いがけず曖昧な答えに、杳は思わず聞き返す。
「……人がやらないことなら、『封印されたモノ』がやりそうだってことか」
及己は言葉を介さず、ただ淀みのない所作で深く頷いた。
そういえば、と杳は思う。二五〇年前にこの地であった戦のことだ。
岸邱はその混乱の最中、うまく逃げおおせた者たちが作った集落だった。
いわば楸の地とは親戚関係のようなものだ。だが、そこには世代を超えても消えない、負い目のようなものが横たわっている。
故郷から逃げた者と、戻った者。見捨てた者と、見捨てられなかった者。その歴史が岸邱の民に楸への複雑な感情を抱かせているのだと、土地の者から聞かされていた。
彼らが、自ら楸の地に害をなすとは考えにくい。
「……憶測ばかりじゃ始まらない。場所が定まるならやりやすい」
お茶のおかわりを注ぎながら及己が言う。その声には、すでに次の局面を見据えた硬さがあった。湯呑みから立ち上る湯気が彼女の表情をわずかに揺らがせる。
「明日の昼から雨が降る。今日はもう明日の雨に備えよう」
そう言って及己は話の終わりを告げる。
その言葉に誰も異論を挟まなかった。三人は席を立ち、縁側や屋根の縁に掛けられていた干しものの薬草たちを黙々と取り込んでいく。土の匂いと乾いた薬草の匂いが、湿り気を帯びた夜の空気の中に静かに混じり合っていった。
翌日、杳が朝の務めを終え、母屋の戸を引いたのを待っていたように、空からぽつりぽつりと雨が落ち始めた。
♢
しとしとと、雨が降り続いている。
縁側の内側に座り、及己はただ静かにその音に耳を澄ませていた。
庭の木々を濡らし、屋根を叩き、地面に無数の波紋を描いては消える雨の雫。
その一つ一つに意識を溶け込ませていく。
――当たれ。
――踏め。
そう念じながら、意識を雨に染み渡らせていく。
やがて――。
「――踏んだ」
ぽつり、と零れた声は雨音に溶けるほど小さかった。
だが、その金の瞳には獲物を捕らえた狩人のような冷たい光が宿っている。
――やっと、捉えた。もう、逃がさない。
「杳」
自室で書を読んでいた杳に、襖越しに声がかかる。雨の日は畑仕事もなく、こうして静かに自らの時間を過ごすのが彼の常だった。
「どうした」
襖を開け室内へと招き入れる。及己は杳に向かい合うように座ると、早々に切り出した。
「封印された者――エリダナが岸邱にいる。捉えた」
「え……間違いないのか」
「間違いない。気配を確かに捉えた」
その声には、微塵の揺らぎもなかった。
「いくら見た目を人に寄せていたとしても、本質は誤魔化せない」
「人……寄せる……?」
「エリダナは、人に化け岸邱の民に混じっている」
及己は、淡々と告げる。
「捕らえ、結界外の廉の領域に連れて行く。そこで封印する」
「岸邱に行くのか」
杳の問いに及己は静かに頷いた。一緒に来るかと問うために来たのだと言った。
「そりゃ行くけど……岸邱に行っても、おまえの気配を感じたらすぐ逃げるんじゃないか。それにおまえの姿は浮くからすぐ伝わるぞ」
「その辺は、ちゃんと考えてる」
すっと立ち上がり、及己は念じるように目を伏せた。
その輪郭が陽炎のように揺らぎ、色が、少しずつ変わっていく。やがて揺らぎが収まった時、そこに立っていたのは――黒髪を後ろで簪ひとつにまとめた、紅の着物を纏った、茶色い瞳の少女だった。
「これでどうだ。エリダナにできるんだ。私にもできるさ」
「…………」
言葉を失い、杳はただ、まじまじと目の前の少女を見つめていた。
「……なんか、まずい?」
不安げな及己に、杳は口をもごもごと動かし、ようやく絞り出すように言った。
「いや……その…………」
「……おまえ、女の子だったんだな……って」
しばし、雨音だけが響く重い沈黙が落ちる。
「――今、初めて杳を殴りたくなった」
「ごめんて」
「……しないけど」
次第に弱くなっていく雨音が、明日は晴れることを告げていた。
翌日、杳が朝の務めを終え、昼餉を済ませた昼下がり。作戦はほとんど間を置かずに決行された。
まずは廉に概要を伝え、境界線の準備と位置の指定を済ませる。廉は余計な問いを挟まず淡々と段取りだけを確認し、静かに頷いた。それから、及己は杳の手を取ると岸邱の地へと空を飛んだ。今はいつもの姿に戻っている。
雨はもうすっかり上がっていた。濡れた大地から立ち昇る匂いが、雨の余韻を伝えている。
「おれ、土地から出るのは初めてだ」
眼下に広がる見知らぬ風景を見下ろしながら、杳がぽつりと呟いた。その声には驚きと、ほんの少しの戸惑いが混じっている。
「佐伯の家系は、そうだろうね」
及己は前を向いたまま応じた。
「土地のタタリに、他所者だと思われないために……って考えだけど」
「分からんでもないが……岸邱だって先祖は楸の者で親戚みたいなもんなのに、邪険にするのか……とは思ってたんだよ」
そう言って、杳は小さく肩をすくめる。その言葉に及己は一拍置いてから、静かに返した。
「大人の社会は複雑だと言っていたじゃないか」
♢
岸邱の里の手前に降り立つと、及己は昨夜見せた少女の姿へと変わった。
疲れるから短時間で済ませたいと、事前にそう言っていた通りだ。
村に入り、早速交易を管理する詰所へと向かう。素性は伏せ、噂を聞いた近隣の村人を装った。
「この村で鼠罠を借りられると聞いたのですが……」
詰所の男は、二人を一瞥しただけで警戒する様子もなくあっさりと頷いた。
「ああ、あるよ。この先に赤い暖簾を下ろしている屋敷があるからそこに行くといい」
「ここは鼠の被害はないのですか?」
何気ない問いを装って、及己が重ねる。
男は、少し得意げに鼻を鳴らした。
「すっかりなくなったねえ。悦の妙案さまさまだよ」
詰所を出て、赤い暖簾の屋敷へと向かう。
屋敷の主人は二人の話を聞くと、どこか懐かしむような、そして少し寂しげな笑みを浮かべた。
「今はもう罠を借りに来る者は稀でね。商売もそろそろ閉じようかと思ってるんだよ」
罠は余っているくらいだから、なんなら安価で売ってもいいとまで言われ、商売としてはもう廃れているのだと感じさせた。
「この商売を始めた方は、何と?」
「ああ、悦のことかい。もう、どうでもいいんじゃないのかね」
「悦?」
「十数年前にやって来た、流れ者の女でね。大層賢いもんで、知恵貸しをしながらこの村でぶらぶらしてるよ」
「知恵貸し……」
及己の目がすっと細められる。その変化を主人が気付くことはない。
「鼠捕りの方法も、罠の作り方も、その女の知恵さ。裏の山に生き埋めにして処理するのもな」
主人は話すほどに饒舌になる。
「最初は熱心にやってたから、この商売で身を固めるのかと思ったら、すぐに飽きて他所へ行ってしまった」
「今は岸邱の権力者の家々を気まぐれに回ってるよ。なまじ美人で賢いからね、ほだされるらしい。
まあ……権力者を宿代わりに転々とする、家なし女って言われてるよ」
主人は、最後の方にはどこか辟易したような雰囲気を滲ませていた。




