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27話 呪い

 どれほどの時が流れただろうか。やがて、及己が長い息を吐き出した。

 そのまま壁を伝いずるずると床に崩れ落ちる。

「あー……うん……私、頑張った……頑張った、と思う……」

 自分を褒めるように呟くその姿は、まるで疲れ果てた子供のようだった。

 猫はにゃあ、と一声鳴くと再び杳に身体を寄せ、もっと撫でろと頭を擦り付ける。

「話は終わったのか? ありがとうな」

 杳は、そう礼を言いながら猫を心ゆくまで撫で続けた。




 帰り道、及己は何度も浅い呼吸を整え、小さく首を振っていた。

 そのあまりに痛々しい様子を見ていられなくなった杳は、とうとう口を開いた。

「……なんで、そんなに猫がダメなんだ?」

「今は、どうでも……!」

 及己は咄嗟に言いかけて、言葉が途切れる。唇をきつく噛みしめ、その顔に葛藤がありありと浮かび出す。

「……望むだけ、答えなければならない。嘘をついてはいけない。誤魔化してもいけない……それは、相手への侮辱……」

 それは、祖父である槐の言葉だろうか。壊れたおまじないのように、何度も、自分に言い聞かせるように繰り返し出した。


 たっぷりとした沈黙が二人の間に落ち、やがて、

「……昔……猫に、呪われ……たん、だ……」

 力尽きたようにそう呟いた。


 昔、火炙りにされる魔女とその飼い猫を見た、と及己は語り出した。

 その声はどこか遠く、過去の一点を見つめているようだった。


 魔女は冤罪だった。

 何の証拠もなくただ人々から恐れられ、異端だと決めつけられ、縛り上げられて燃やされた。炎が高く上がり、悪を退治したと高揚する人々の歓声と木の爆ぜる音が混じる中で飼い猫もまた火に巻かれていった。

 息絶えるその直前。燃え盛る炎の向こうで猫と目が合った。そこにあったのは、恐怖でも助けを乞う色でもなかった。

 この世のすべてを呪い尽くすかのような、あまりにも強烈で純粋な憎しみだった。


 魔族は眠りを必要としない。完全な睡眠ではなく、休憩がてらほんの数分目を閉じるだけで事足りる。

 だが、あの日からその僅かな休息が地獄に変わった。目を閉じるたび、火炙りにされたあの猫が巨大な姿となって現れるようになったのだ。


 猫はゆっくりと近づいてきて、まず足の親指を噛み砕いた。


 一度、目を閉じれば親指。もう一度、閉じれば人差し指。

 順番に、一本、一箇所ずつ。急ぐこともなく確実に噛みちぎられていく。


 じわじわと、物理的な痛みはないはずなのに全身が少しずつ欠けていく感覚。

 牙を向けたその瞬間の燃えるような瞳と、剥き出しの牙。それがあまりにも気持ち悪くて、あまりにも恐ろしくて。いっそ休息など取らなければいい。目を閉じなければ見なくて済む。そう考えた。それでもなぜか必ず目を閉じてしまう。


 瞬き程度でも目を閉じれば猫が見える。


 しかし、その呪いはある日ぷつりと途絶えた。

 本当に終わったのか。なぜ急に終わったのか。またいつ再開するのか。

 その疑いが恐怖をさらに大きくさせた。終わったと信じられないこと自体が新しい恐怖になった。そうして、気づけば猫という存在が完全にダメになってしまった――


 及己はそこで言葉を切り、わずかに肩を落とした。自嘲とも諦めともつかない息を、静かに吐き出す。

「……それで、私は猫が苦手なんだ」


 淡々とした調子を装いながらも、その声にはどうしようもない疲労が滲んでいた。

 杳はかける言葉が見つからなかった。胸の奥に重いものが引っかかったまま、それをどう扱えばいいのか分からずただ視線を彷徨わせる。

 やがて、なんとも言えない顔をしたままぽつりと呟いた。


「……おまえも、大変だったんだな……」


 それは慰めにもならず、かといって無視もできないひどく頼りない言葉だった。

 続けて、聞き出してしまったことへのわずかな罪悪感が滲んだ声で付け加える。

「その……元気、出せ」

 言った瞬間、自分でもどうしようもない言葉だと思ったが、他に出てくるものがなかった。



 家に戻ると及己は亘の淹れた茶を受け取り、静かに一口含んだ。

 湯気とともに、肩の力がほんのわずかに抜けていく。二口、三口と飲むうちにその金の瞳から先ほどまであった恐怖の色が、すっと引いていくのが分かった。

 いつもの静かな光が、ゆっくりと戻ってきている。

 それを確かめてから杳は改めて尋ねた。あの猫と何を話してきたのか、と。

 及己は湯呑みを置き、少しだけ間を置いてから答えた。

「――確認する価値のあるものを聞いた」

 その声は静かだが曖昧さはなく、明確な何かを掴んだ者の手応えを帯びていた。


「数年前に鼠が増えたという出来事、あれは『封印されたモノ』が関わっているかもしれない」


 及己は一つ一つ言葉を選ぶように続ける。

「二郎の話では、狩った鼠からこの土地の匂いがしなかったらしい」

 杳は思わず眉を顰める。

「この土地じゃ、ない……?」

「そう。この土地と交易のある隣村の匂いがした、と言っていた」


 それは決定的ではないが、無視もできない違和感だった。

 及己は湯呑みの茶面を見つめながら、その可能性を噛みしめているようだった。


 ♢


 土地の東へひと丘越えたところに、村が一つある。

 そこがこの(ヒサギ)の地にとって、唯一の交易場となっている集落――岸邱(キシオカ)だった。


 岸邱の民はさらに他の集落と交易をし、楸のものを売り、逆に楸に必要なものを運び込む。閉ざされたこの土地と外の世界を繋ぐ、細く、それでいて力強く脈打つ生命線。楸の地の営みが滞りなく続くためには欠かすことのできない存在だった。


「――岸邱の鼠が、ここに渡って来た……?」


 夕餉の木具膳を囲みながら、杳は箸先で里芋の煮物を突き、考え込むように呟いた。湯気の向こうでは、亘が腕を組み眉を寄せて記憶を手繰るように唸っている。


「その頃に、岸邱で鼠が大量発生したとか、何か被害の話はあった?」

 及己の問いかけに杳と亘は顔を見合わせ、すぐには答えられずに首を傾げた。どちらもこの土地の記憶には明るいが、岸邱の細かな内情までは把握していない。


「うーん……むしろ、逆だったかな」

 しばらく考え込んだ末、亘がふと思い出したように口を開く。

「鼠を捕る商売の話を聞いたくらいかな」

「商売?」

 亘の言葉に及己の金の瞳がわずかに細められる。ただの世間話を聞く者の眼差しではなく、すでに事象の裏側を探ろうとする者の目だった。


「うん。せっかく刈り入れた収穫物が鼠に荒らされないよう、代わりに捕ったり鼠罠を有償で貸し出したりする商売だよ」

「実際、それで畑鼠や家鼠がずいぶん捕れて大助かりだったそうだ。交易の運び手が楸でもやったらどうかと、土地の蔵主たちに勧めていたのを聞いたことがあるな」

 亘は懐かしむように言った。

 この土地では鼠は害獣であると同時に、豊穣の神の使いとしての面も持つ。そこまで深刻に受け止める者はいなかったのだろう。

本日あと2話追加予定です。

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