26話 猫大将
――おれの寿命は、あと七年だ。
十六そこそこの子供が口にする言葉ではないだろう、と及己は思う。
それを当たり前のことのように、まるで明日の天気でも語るかのように、淡々と口にするのだからなおさらだ。
佐伯家は、肉を喰わない。
流血を伴うもの――すなわち『死』を、極力生活から遠ざけるために。
命を奪う者ではなく、命を与える側であり続けるために。
その戒律が、かつて森で出会った鹿の仔にほんの一瞬の躊躇いを生ませた。
その戒律が、嘆きと怨嗟の塊であるタタリとの対話を可能にしている。
そして、佐伯家はタタリに浄化への道を示すため、日々自らの魂の一部を差し出し続けている。
それ故に、短命になる。
その身は誰よりも『死』から遠く
その魂は誰よりも『死』に近い
なんという矛盾を抱えた一族だろう。
愚かで気高く、哀れで、そして、あまりに尊い。
「……及己」
名を呼ばれて、及己ははっと我に返った。どうやら知らぬ間に思考の深い海へと沈み込んでいたらしい。顔を上げると、縁側の向こうに杳が少し距離を取ったまま立っている。
声をかけるべきか、やめるべきか、迷っていたのだろう、その足取りにはわずかな躊躇いが滲んでいた。見慣れた縁側。見慣れた午後の光。だが二人の間に流れる空気は昨日までとは微妙に違っている。
「……どうかした?」
「……いや、今、話しかけてもいいのかなって」
杳の声には気遣いと探るような慎重さが同居していた。
「これまで通りでいい。何も変えていない」
そう言いながらもどこかぎこちない。
及己は手元にあった座布団を一つ取り、何気ない仕草で杳の前に差し出したが、その動きにもかえって余計な気遣いが滲んでいるようで居心地が悪く感じた。
「……だから、黙ってたんだ」
おずおずと腰を下ろす杳の様子を見て、思わず小さく息を吐いた。
一拍置いて、今度は杳が口を開く。
「おまえが嫌がるんじゃないかと思って、黙ってたことが一つある」
声は控えめで、慎重で、逃げ道を残した言い方だった。
「……聞くよ」
「土地にいる奴で、ずっと化生かもしれないと思っていたけど、もしかしたら『本から生まれたモノ』かもしれない奴がいる」
「見落としていたのか……どいつだ」
「川部の、猫大将」
――猫。
その一語が耳に届いた瞬間、及己の思考が真っ白に染まった。
この土地で米を扱う家の多くは、猫を飼っている。米倉を鼠から守るためだ。
三年半ほど前、この土地で異様に鼠が増えたことがあった。だが、その被害は最小限で済んだという。猫たちがまるで示し合わせたかのように組織立って動き、徹底的に狩り尽くしたからだ。
その中心にいたのが『川部の猫大将』と呼ばれる一匹の老猫だったらしい。
今でも時折猫が集まることがあり、その場には必ずその猫がいるため、人々は自然と頭領、あるいは大将と呼ぶようになったのだという。
「賢い奴だとは思ってた。でも、たまのことや『生まれたモノ』の話を聞いていたらもしかして……って」
杳は言葉を選びながら続ける。その声は、及己の内側で起きている動揺を知ってか知らずか、ひどく慎重だった。
「でも……おまえに、話してもいいのかなって……」
「…………だいじ……な、話だ……よ……」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
杳がはっとしてこちらを覗き込む。及己は顔から血の気が引いていくのを自覚しながら、無理やり天を仰いだ。縁側の軒先がやけに遠く見える。視界の端が暗くなり、今にも倒れてしまいそうだった。
「……好嫌と、要否は、別……。要る話……確認、するべき……」
自分に言い聞かせるように、何度も繰り返す。その声はもはや祈りに近い。
「……なんか、すまん」
「……杳が、謝ることじゃないよ……」
見なければ、何も分からない。
その一点だけを支えに、及己は重い腰を上げた。
川部の家に着くと、主人は二人を丁重にもてなした。だが、肝心の猫――二郎の姿は見当たらない。
「米倉の中ですな。もういい年でして、最近は寝ていることが多い。どうもあそこが気に入っているようで」
及己が会ってもいいかと尋ねると、主人は稀人様なら猫とも話ができるかもしれませんな、と屈託なく笑った。
その善意が今は刃のように及己に突き刺さる。
及己の表情は石のように硬く、袖に隠れた指先がかすかに震えていた。
案内された米倉の中は、ひんやりとした空気と乾いた稲の匂いに覆われていた。主人が名を呼ぶと、高く積まれた米俵の隙間から一匹の猫がゆっくりと顔を出した。
黒と茶の混じった大きな身体。片耳が少し欠け、長い年月を生き抜いた者だけが持つ静かな光を宿した瞳。
「ひっ」
思わず、及己の喉から短い悲鳴が漏れた。
杳はそれに気づかぬふりをして主人に頼む。
「少し、この子と話したいので。二人だけにしてもらえませんか」
「どうぞ、ごゆっくり」
主人はにこやかに会釈しながら戸を閉め、蔵の中には二人と一匹だけが残された。
杳は猫との距離を詰め、ゆっくりとかがむと慣れた手つきで頭や喉元を撫で始める。猫は気持ちよさそうに目を細め、喉を鳴らした。
一方で、及己は。
米倉の最も遠い壁に、背中を張り付けるように立っていた。まるでそこに縫い付けられてしまったかのように。
「おまえ……話を聞きに来て、それはないだろ」
「もっともだけど、見逃して……」
声は壁に吸い込まれるようにか細い。
「……で、どう思う?」
杳は足元で丸くなっている猫へと視線を落とし、それから隣に立つ及己へと顔を向けた。
「改めて見たけど、おれには文字とかは見えないや」
結局、自分には分からない、という事実がどうにも座りが悪い。自嘲気味に肩をすくめて言うと、及己は猫から目を離さないまま、しばらく黙っていた。
その沈黙が判断のためのものだと分かっているから、杳は急かさずに待つ。
「……その猫は、本とは無関係だ」
やがて、淡々とした声が返ってくる。
「でも、確かに化生の気は帯びている。長く生きるとそうなるモノもいる。その猫も、その類だろう」
杳は、もう一度猫を見る。
「そうか」
短く息を吐き、納得したように、あるいは自分に言い聞かせるように頷く。
「猫大将って呼び名も誇張じゃなかったわけだな……完全に化生になったら話とかできるのかな」
冗談めかした口調だったが、及己はすぐには答えなかった。
猫から、杳へ。その視線の移動にほんの一瞬、ためらいが混じる。
「……もう、できるよ」
囁くように、抑えた声。
「えっ」
杳から間の抜けた声が零れる。その言葉の意味を頭がすぐには理解できず、杳は及己の顔をまじまじと見返した。思わず、撫でていた手が止まる。
「思念の交感、みたいなものだけど……ね」
蒼白な顔のまま、及己は十分な距離を保ちつつ、猫の目を見つめた。
猫もまた顔を上げ、及己をじっと見返す。
人ならざるものと、獣ならざるもの。異なる時間を生きる二つの存在が、静寂の中で向き合った。




