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22話 線を引く

 乙夜家の正六が正気に戻った後、自らを恥じて主家を辞し実家へ戻ったという話は風聞となってほどなく土地中を駆け巡った。

 その話を聞いた時、杳はただ「そうか」とだけ呟いた。


 正六と共にあの無謀な儀式に手を染めた者は、あと二人いる。

 賢木家の奉公人だ。彼らは今もなお、正六がそうであったように見えない何かに怯え、暴れ狂っているという。

 佐伯の家に出入りする者たちは、噂話をまるで供物でも捧げるかのように折に触れて落としていった。


 ――相変わらず、手がつけられない。

 ――ろくな治療もできず、日に日に痩せ細っている。

 ――今のままではそう長くは持たないだろう。

 ――家の中には、いっそ死なせてやった方が楽になるのではないかと考えている者すらいる。


 最初は放っておこうと思った。

 乙夜家の時と同じだ。自分たちで招いた災いだ。自分たちでその責任と向き合うべきだ。


「自分たちでその罪と向き合い、タタリと話す努力をするか。それとも、うちに来るか」


 ――成り行きに任せよう。そう、決めたはずだった。

 だが、噂が耳に入るたびその決心は揺らいだ。脳裏に浮かぶのは、正六の魂の内側で視たあの地獄の光景。自分自身に永遠に切り刻まれ続ける、終わりのない苦痛。

 賢木家の二人もまた、あの地獄の只中にいる。


 ――決して、死を望んでいるわけじゃない。


 彼らの行いを、断罪したいわけでもない。

 だが――では、どうするのか。

 杳は幾度となく、自らの内側で答えの出ない問いを繰り返していた。


 月のない夜だった。

 その葛藤にひとつの答えがもたらされるかのように、母屋の戸が控えめに叩かれた。

 亘が戸を開けると、そこに立っていたのは雨に打たれたわけでもないのに、身を小刻みに震わせ、顔から血の気が失せている、年の頃が杳と同じくらいの女だった。


 賢木家の長女、(ミオ)

「……杳……」

 絞り出すような声と共に、彼女の身体が糸が切れたように前へと傾ぐ。

 咄嗟に支えた亘の腕に、重い疲労を抱えた身体がぐったりともたれかかった。


 離れの寝台に横たえられた澪の顔色は、蝋のように白い。

「杳」

 亘に呼ばれ、杳は黙って頷く。

 じっと彼女を視る。その精神はひどく混乱していた。だが、完全にタタリに呑まれているわけではなく、薄氷の上を歩くように、自我の輪郭を保っていた。

 杳は仏間に置いている『橋』を手に取り、彼女のもとへ戻るとその隣に静かに膝をついた。


「……自分たちで、やろうとしたんだな」

 静かな問いに、澪の瞼がかすかに震えた。


 乙夜家の顛末を聞き彼らは焦ったのだ。

 佐伯に頭を下げるのは決まりが悪い。だが、このまま放置すれば確実に家の名誉を地に落とす。佐伯の、あの若輩にできて、自分たちにできないはずがない。

 ――ならば。

 その、あまりにも浅はかな挑戦は賢木家の長女に任され、そして、失敗した。

 患者に取り憑いていたタタリの一部は、取り縋るように彼女へとその宿主を乗り換えたらしい。


 杳は『橋』の先端を彼女の手首へとそっと当てる。

 一呼吸。

 息を止め、すっと『橋』を引く。

 手首と『橋』の間を、黒い糸のようなものが粘りつくように伸びた。それは『橋』へと吸い込まれるように手繰り寄せられ、やがて完全に彼女の身体から抜けていった。

「……取れたよ」

 黒く染まった『橋』から視線を外さないまま、杳は告げる。

 澪の顔には明らかな驚愕の色が浮かんでいた。

 ――もう?

 ――なんで?

 ――そんなに簡単に?

 そう語るような表情だった。


 しばしの沈黙。

 『橋』の黒ずみが霧散するように消えていくのを確認し、杳は長い息を吐いた。

「おまえについたのは、かつての恋人か、あるいは母親の面影を求めて無意識に縋り付いただけだったんだろう。……もう、大丈夫だ」


「何日、その状態だった」

「……四日、くらい……」

「そうか」

 澪の瞳から、堪えていたものがやるせない吐息となって洩れた。

「……ありがとう……」

「本来の患者は? 二人いるんだろ?」


 澪の話によると、元の患者たちはタタリが一部離れたことで、正気と狂気の間を行き来するようになったという。

「杳……お願い……」

 澪はゆっくりと身を起こし、畳に手をついて深く頭を下げた。

「家の無礼への謝罪もできていないのに……図々しいとは思うけど……」

 その声は震えていたが、他に選択肢がないような切実さを帯びていた。

「私に……鬼鎮めの技術を教えて」

 杳は何も答えなかった。ただ、そのまっすぐな瞳をじっと見つめ返す。

 その奥に親世代の傲慢さとは異なる、必死で純粋な光を見た気がした。


「それは賢木の長女としてか」

「そう」

「現当主にそう言われたのか」

「……そう」

「………………ダメ……だ……」

 何かを堪えるような、絞り出すような声が杳から漏れる。


「……身内を悪く言われるのは嫌だろうが堪えてくれ」

「?」

「……ッの……クソ親父が……ッ!!」


 魂から吐き出された暴言。澪はただ目を白黒させる。

「――そんなだからタタリと話せないんだ……!」

「?」

「あのな、鬼鎮めは女性には向かない。やめるべきだとも言われている」

 聞いた澪の目が丸くなる。

「佐伯十六代のうち、確かに女性はいた。だが一人だけだ。そしてその任は二年で終わった。

 その女斎主自身が言ったんだ。『今後、この任は女性にさせるべきではない』と。おまえの親父もその記録と語られた理由は知っているはずだ」

「……え?」

「聞いてないのか?」

 問いに澪は小さく頷いた。


 澪の反応に杳は込み上げる怒りを無理やり飲み込むように俯いた。

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