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21話 いとなみの環

 その日の昼下がり、佐伯家の台所には発酵した大豆の深く豊かな香りが溢れていた。

 先日のわらび餅の礼にと、菓子屋へ手製の味噌を届けに行く。亘のその言葉に及己は黙ってうなずき、荷物持ちとして付き従った。


「先生、今日は稀人様とご一緒なんですね」


 菓子屋へ向かう道すがら、土地の者たちとすれ違う。槐を知る古老は、及己の姿を認めると懐かしそうに目を細めた。


「久しぶりだ。もう戻ってこんのかと思うとったよ」


 その言葉に、及己はただ黙って会釈を返す。

 一方で、若い世代はその人ならざる容姿に一瞬、警戒の色を浮かべる。だがすぐに、隣にいた古老が「佐伯様の客人だ。槐様の頃からのな」と窘めるように言い、若者は慌てて頭を下げた。


 土地の者は、及己を『稀人』と呼ぶ。

 十七年前、先代当主である槐に付き従い、忽然とこの地に現れた人ならざる者。使役されるでもなく、主従とも異なる距離感でただ友人のように槐の隣に立っていた存在。

 その姿は、いつしか畏敬と親しみを含んだ『稀人』という呼び名で受け入れられるようになった。


 十五年の空白を経て、再び現当主・杳の隣に立つようになってからは、槐を知る者たちから懐かしむように声をかけられることもある。

 土地の者たちにとって及己は境界の向こうから時折訪れ、人知を超えた何かをもたらす存在でありながら、どこか身近で、親しむべきもの――『稀人』としてこの土地に根付いていた。


「こんにちは、先生。稀人どのも」

 菓子屋の主人は及己の姿に一瞬驚きつつも、すぐに破顔し、二人を丁重に迎え入れた。


「先日のわらび餅のお礼になればと思いましてね……」

 わざわざ、いえいえ、と軽い言葉を交わしながら、亘が小ぶりな樽を及己から受け取り差し出す。

 味噌樽の蓋を開けると、芳醇な香りがふわりと店内に広がった。


「相変わらずいい香りですね……先生の味噌は絶品ですから。

 交易に出せば飛ぶように売れるでしょうに」


 もてはやす主人に、亘は穏やかに首を振る。


「とんでもない。生薬を商ってもらっているだけで十分ですよ」

 そう言って、人の良い笑みを浮かべる。

「それに、これは農家の方々が良い豆を回してくれるからできることなので。豆そのものが旨いんですよ」

 その謙虚なやり取りを、及己は荷を抱えたまま黙って見守っていた。


 ふと、店の隅にいた他の客――幼い子を連れた母親が、羨望の眼差しで味噌樽を見つめていることに及己が気づく。


 及己は、亘の袖をくい、と小さく引いた。

 その意図を察し、亘は苦笑しながら客の方へ向き直る。

「もしよろしければ。余分に持ってきた分がありますから」

「えっ、よろしいんですか?」

「ええ、どうぞ」

 思いがけない申し出に、母親は満面の笑みを浮かべ、何度も頭を下げた。


「――これは、ほんの気持ちですが」

 帰り際、その母親は及己の前に小さな布袋を差し出した。

「稀人様にもいいのでは」

 その言葉に及己はわずかに目を見張る。

 布袋の中には、指先ほどの大きさの飴が数粒入っていた。

「……」

 及己は戸惑い、隣の亘を見る。

「甘茶の飴だね」

 亘が覗き込んで優しく言う。

「アマチャ?」

「葉と餅米から甘い液を作って、煮固めたものだよ」

 及己は差し出された飴と、亘の顔を交互に見る。

「……もらうなら、亘じゃないのか」

 素朴な疑問だった。味噌を分けたのは亘なのだから。

「及己が受け取った方がきっと喜ばれると思うよ」

 亘の言葉に、母親もこくこくと頷いた。


 この土地では、稀人は座敷童のような親しみをもって迎えられる存在だ。

 彼らにささやかな礼を示すことは、幸福を願う古くからの習わしでもあった。

 及己は飴と母親の顔を交互に見つめ、しばらく迷うように沈黙した後、小さな声で尋ねた。

「……家で、みんなで一緒に食べても、いい?」

 その問いに、母親は花が咲くような笑顔で答える。

「ええ、どうぞ。ぜひ」

「……ありがとう……ございます」

 たどたどしい感謝の言葉と共に、及己はその小さな布袋を壊れ物を扱うかのように、そっと受け取った。


 その日の午後、杳は土地の西側にある畑の隅で土を掘っていた。

 務めと休息を終えた後の時間は、こうして土地の誰かの手伝いをすることが多い。それは土地の営みを肌で感じ、人々の声に耳を傾けるためのもう一つの重要な務めでもあった。

 掘っているのは、冬を越すための根菜類を保存する埋め戻し用の穴だ。


「――佐伯様、お疲れ様です」

 不意にかけられた声に顔を上げると、菓子屋に居合わせたあの母親が立っていた。

 彼女は、亘から味噌を分けてもらったこと、そして、その礼として及己に飴を渡したことを嬉しそうに語った。

「『みんなで一緒に食べる』だなんておっしゃってくれたんですよ」

 そして、少しはにかみながら言う。

「きっと特別な方なんでしょうね。稀人が皆、あんなに可愛らしい方ならいいんですが」

 その言葉に、杳は思わず笑みを漏らした。

「飴なんて珍しいな。楽しみだ。……ありがとうございます」

 それは母親の善意と、友人の新たな一面を教えてくれたことへの二重の感謝だった。


 手伝いを終え、礼に持たされた芋の重みを腕に感じながら杳は家路につく。

 夕暮れの光が、長く伸びた影を畦道に落としていた。


 手伝い、手伝う。

 そしてお礼と、返礼。


 亘の味噌が母親の飴に変わり、その飴は、やがて佐伯家のささやかな喜びになる。

 畑仕事という労働が食の彩りへと姿を変える。

 この土地の人の営みは、そうして小さな「なにか」を交換し合いながら巡り、回っている。


 ――土地の循環もきっと、こういうものだったのだろう。


 かつて土地神がいた頃。

 人々は土地への感謝として祈りを捧げ、土地はその祈りに応えるように豊かな実りを与えた。


 その、当たり前で温かな循環。

 今は失われてしまったその営みを、この土地の人々は互いの関わり合いの中で、無意識に、そして懸命に取り戻そうとしているのかもしれない。


 腕の中にある芋から温かな土の匂いが立ちのぼる。

 ごくありふれたその匂いに、なぜか遠い日の記憶が呼び覚まされるように思えた。

本日あと2話追加予定です。

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