20話 責任
「そいつは、『嗜虐』と『罪悪感』を同時に抱えていた」
杳は、ゆっくりと、言葉を選びながら続ける。
「多分、正六は嗜虐心に任せて誰かを攻撃した。だが、相手が抵抗したり、あるいは自分がやりすぎたと感じた瞬間に罪悪感が顔を出した」
「その矛盾に耐えきれず、混乱し、激昂し、さらに相手を攻撃することでその罪悪感から目を逸らそうとした。そして……取り返しのつかない事態を引き起こした」
尚は、何も言えなかった。
「もし、そこで自分の罪悪感と向き合えていたなら、まだ救いはあった。でも全てに蓋をして忘れることを選んだ」
「その結果、魂は、嗜虐と逃避、そして蓋をされた罪悪感が混じり合った不安定な状態になった」
杳は言葉を切り、尚の目を見据える。
「――タタリは、そういう心の隙間に引き寄せられる」
「正六に取り憑いたタタリは、ただの怨念じゃなかった。理不尽な暴力によって命を奪われた者たちの恐怖と抵抗の念だ」
「彼らは正六の魂の奥に、かつて自分たちを襲った連中と同じ『嗜虐性』の匂いを嗅ぎ取ってしまったんだろう」
尚は、喉を鳴らすように息を呑んだ。
「タタリたちは叫んでいた。『なぜ、おまえのような奴に襲われなければならない』『殺されるくらいなら、殺してやる』と」
「彼らは正六を自分たちを殺した奴と重ね、その魂の内側で逆襲を始めたんだ」
「……じゃあ、おまえが見た四人の正六ってのは……」
「ああ。タタリが正六を攻撃しているうちに、正六の加害性を取り込んで混じってしまったんだろう。そして正六自身も、タタリを加害者だと錯覚して、恐怖に駆られて抵抗していた」
「加害者の魂と被害者の魂が、一つの精神の中で永遠に殺し合いを続ける地獄……それが、発狂の原因だ」
尚は、完全に言葉を失っていた。
顔から血の気が引き、ただ蒼白なままそこに立ち尽くしている。
あまりにも、救いのない光景だった。
「……タタリには、もうおまえたちを襲う者はいない、と説得した」
杳は静かに続ける。
「正六はおまえを殺した奴じゃない、勘違いでおまえが襲う側になるつもりか、目を覚ませ。同類になるな、と……時間はかかったけれど、分かってくれたよ」
その声には、拭いきれないやるせなさが滲んでいた。
長い沈黙の後、尚は絞り出すように呟いた。
「……そいつは……その、虐げられていた相手は……誰なんだ……」
「それは、おれが知ることじゃない」
杳は、静かに首を振る。
「――それを聞き出し、どうするかはおまえ次第だ」
尚は再び、長い沈黙に沈み、そして深く頭を下げた。
「……あとは俺が引き取る。嫌な思いをさせてすまなかった」
その声はこれまでとは比べ物にならないほど重く、真摯なものだった。
詫びの埋め合わせは――と尚が言いかけた言葉を、杳は静かに遮る。
「鬼鎮めでおれは毎日誰かの死に触れている。死を見ているうちに、自分も死んでいくような感覚になる……慣れてるよ」
「今回もその一つだ。務めが進んだと思うことにする」
だから埋め合わせは要らないという、その静かな諦観に尚は言葉を失った。
「……なあ」
不意に、杳がからかうような、試すような目で尚を見る。
「鬼鎮め、代わってみるか? 乙夜家、次期当主どの」
「……いや、無理だわ」
尚は正直に首を振った。
「仮にそうなったとしても、まずタタリと話せるかどうかも分かんねえ。それに多分……無理じゃねえかな。俺、肉食ってるし。佐伯は肉食わないんだろ?」
「食ってるさ、肉」
「ん?」
「豆腐は畑の肉なんだぞ」
真顔で言い放たれた言葉に、尚は一瞬、本気で考え込み、ようやく意図に気づく。
「いや、そういうことじゃなくってさ……!」
冷やかされたのかと思ったが、杳の瞳からはからかう色はなかった。
「どうなんだろうな。おまえの親父は、おまえに鬼鎮めをさせて今の佐伯の立場を手に入れたがってたが」
「佐伯が絶えた時、分家が代役に立つんなら、いっそうなってもいいように準備はしてないのか?」
それは事実を確認するような声だった。
「……!」
「佐伯の務めの基本は早寝早起き、精神修行、肉を食わないことだ。でも、そんなのはやり方を変えたっていい」
「――それより、タタリと話せることが大前提だぞ。乙夜家でタタリと話せる奴は育ってないのか?」
静かだが鋭い問い。
それは乙夜家、ひいては分家の最も触れられたくない核心だった。
「……おまえ……痛いところつくなぁ……」
尚は、降参したように天を仰いだ。
乙夜家を辞し、家路に就く。
夕暮れの光が二人の影を、長く、長く伸ばしていた。
家に帰ると亘が心配そうな顔で二人を迎えた。食卓に並べられていたのは、香ばしい匂いを立てる豆腐の蒲焼だった。
「……美味い」
一口食べた杳が心の底からそう呟く。
そのあまりにも幸せそうな表情に、亘も、及己も、知らず知らずのうちに顔を緩めていた。
「あの世話係が淹れた茶より、亘の茶の方がよっぽど旨い」
及己がぽつりとこぼした言葉に、亘は嬉しそうにはにかんだ。
後日、尚から事の顛末が伝えられた。
正気に戻った正六は、憔悴しきってはいたが、痩せて細くなった腕を懸命に動かし、たまを黙って何度も撫で続けたという。
そして、堰を切ったように自らの罪を自白し始めた。
かつて乙夜家の下働きだった少年を虐げ、死の間際まで追い詰めたこと。死ななかったのだから罪ではないと、目を逸らし続けてきたこと。
タタリに追い回されたあの地獄は、自分が少年に与えた恐怖そのものだったと――ようやく目が覚めたのだと。
残った発狂者たちもまた、正六の自白によって似たような、あるいはそれ以上の罪を抱えていることが次々と明らかになったという。
「――それで、杳はどうする」
報せを聞き終え、及己が杳に問う。
杳は答えなかった。
ただ、縁側に腰を下ろし、この土地の空を静かに見つめている。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「タタリを取り除けば正気に戻ると証明された。なら、あとはあいつら次第だ」
「自分たちでその罪と向き合い、タタリと話す努力をするか。それとも、うちに来るか」
「――できれば、前者の方がいい」
杳の声は、どこまでも静かだった。
「それで、人の無念の重さを自分たちで知ることができるなら……この土地の回復は、今よりずっと早く進むだろうな…」
庭から見える土地の景色に杳が何を見ていたのか。
それを尋ねる者はいなかった。
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