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19話 内の暗闇

 重く閉ざされた空間には湿った空気と、獣じみた息遣いが澱のように溜まっている。

 杳が中へ足を踏み入れた瞬間、案の定、患者――正六(ショウロク)は甲高い奇声を発し、腕を滅茶苦茶に振り回して抵抗した。

 焦点の合わない眼球が、何かに怯えるように忙しなく動く。


「ちょっと、強引だけど」


 そう前置きして、杳は一瞬の隙を逃さず、振り下ろされた腕の軌道を読み、滑るように間合いへ入った。『橋』の先端を正六の眉間へと素早く当てる。

 びくり、と正六の身体が跳ねた。次の瞬間、全身が糸が切れた人形のように強張り、そのまま完全に硬直する。

「及己、頼む」

 牢の外で控えていた及己が、静かに一歩前へ出る。

 正六へと手をかざすと淡い温もりを帯びた光が広がり、衰弱しきった肉体へと染み込むように流れ込んでいった。


「これからすることは相当体力を使う。途中で潰れられると困るからな」

 及己は、正六の顔色にわずかに血の気が戻ったのを確認し、無言で頷く。


「……じゃあ、やるか」


 杳は一度深く息を整え、改めて『橋』の先端を正六の眉間へと押し当てた。

 そして――。

 意識をその魂の最奥へと、沈めていった。



 杳の意識が潜った先は、混沌の極みにあった。

 荒れ果てた田畑で四人の男が揉み合っている。


 奇妙なことに四人は皆同じ『正六』の姿をしていた。


 四人の正六が終わりない殺し合いを繰り広げている。

 刀を振りかざし、狂気に満ちた雄叫びを上げる正六。

 槍を構え、執拗に相手を追い立てる正六。

 そして、血を流し、恐怖に顔を歪めて逃げ惑う正六。

 逃げる正六を盾にしてこの場をやり過ごそうとする正六。

 

 その光景はあまりにも異様だった。

 刃が肉を裂く。しかし、血を噴き出すのは斬られた側だけではない。振り下ろした側の正六の体からも、同じ場所から鮮血が迸る。殴りつけた拳の衝撃はなぜか殴った側の体を揺るがし、よろめかせる。

 攻撃がそのまま自分へと返ってくる。

 傷つけたはずの痛みが、時間差もなく自らの身を裂いていく。


 加害と被害が完全に混濁している。憎悪が自らを怯えさせ、恐怖が自らを傷つける。もはや、誰が誰を追い、誰が誰から逃げているのかその境界すらも曖昧になっていた。


 ――何だ、これは。


 タタリと自我が絡み合い、もう輪郭そのものが溶け崩れている。

 こんな地獄を正六は常に内側で再生し続けていたというのか。

 これでは発狂するのも無理はない。


 杳は、まずこの不毛な自傷の連鎖を断ち切るため、殺戮の渦中へと踏み込んだ。

 下手に攻撃すれば、この精神の持ち主である本体に測り知れない負荷がかかる。――及己に体力の回復を頼んでおいて本当に良かった。

 一瞬の冷静な判断ののち、杳は振り下ろされる刃を『橋』で弾き、突き出される槍をいなしながら、この混沌の『本質』を見極めるべくさらに意識を深く沈めていく。

 四つの影は新たな侵入者である杳へと、一斉に敵意を向けた。

 四対一。

 だが、それでいい。

 自分で自分を傷つけ合う連鎖はこれで止まった。

 攻撃を捌きながら四人の正六を観察するが、外見や動きに決定的な違いは見えない。

 ――ならば。

 杳は意識を、さらに深く、細かく沈めていく。

 封印の書の文字列を読み解く時と同じ要領で、魂の表層を一枚ずつ剥がし、その奥にある『核』に目を向ける。


 ――違う。

 ――違う。

 ――これも、違う。


 そして。


 一体だけ、明らかに性質の異なる存在が浮かび上がった。


 ――見つけた。


 杳は、『橋』に巻かれた赤紐を意思のままに解き放つ。紐は生き物のように蠢き、三体の正六の影を瞬く間に絡め取った。


 これで、分かたれた。


 本体と、それに取り憑いていた三つの嘆き。確信と共に、杳は意識を肉体へと引き戻した。眉間から『橋』を引き離すと、その先端は絡め取ったタタリの負の念によって墨を流したように黒く染まっていた。

 正六はしばらく虚ろに宙を見つめていたが、やがて力尽きたようにその場へ崩れ落ちる。


「――たま」

 杳の静かな呼びかけに応じ、黒猫が音もなく牢の中へ滑り込んだ。

 気を失った正六の身体にそっと寄り添い、喉を低く鳴らす。くぅ、と響く振動と共に、修復の力が傷ついた魂をゆっくりと癒やし始めた。

「基本的な体力は及己が戻した。たまがいれば、もうタタリも寄ってこないだろう」

「あとは本人次第だ」

 杳は格子戸を閉めながら、淡々と言った。

「目覚めた時、たまを撫でるならまだ救いはある。邪険にするなら――そこまでだ」

 杳の言葉を聞き、たまは正六をしばらく見た後、尚に言う。

「それならそれで、すぐにヒサシのところへ戻れるから、いい」

 そして一つあくびをすると正六の隣で丸くなった。


 『橋』に絡みついたタタリを浄化するために外に出たい、という杳の希望で尚の自室前の庭へ移動した。

 地に座り込み、『橋』を土に突き立て、ただじっとそれを見つめる。尚はその横顔を、まるで初めて見る生き物でも眺めるかのように、食い入るように見ていた。

「……あれが、鬼鎮めか……」

 それは自然に漏れた感嘆の呟きだった。

 やがて、『橋』の黒ずみが静かに消え、元の木目が現れる。それを確認すると、杳は立ち上がり「終わったよ」と短く言った。


 世話係が恐縮しながら差し出した茶から、細い湯気が立ち上っていた。

 その揺らぎは、張り詰めた空気を和らげるかのように見えたが――それも束の間のことだった。

 これから語られる言葉の重みに、場の空気は再び緊張を帯びていく。


「尚」

 呼ばれた名は短かったが、その声音はこれまでとは明らかに違っていた。

 軽さの欠片もない、硬質な響き。

「尚。これから話すことは、おまえにとって辛いものになるかもしれない」

 尚は息を呑み、視線を逸らすことなくまっすぐに杳を見つめ返した。

「聞いた後、彼らをどうするか。その判断はおまえに任せる。おれには関われない」


 重い前置きの後、杳は語り始めた。

 魂の内側で視た光景を感情を挟まず、しかし一つも取りこぼさないように。

 そして、

「……正六は過去に誰かを虐め殺している。あるいは、それに近しいことをしている……と思う」

 尚の肩が、かすかに揺れた。

「おれが内側で視た光景……そこでは、四人の正六が互いに殺し合っていた」

「あれは、単純にタタリに精神を乗っ取られていたわけじゃない。もっと、根が深い」

 杳は一度、目を閉じる。

 あの混沌とした光景を再び脳裏に呼び戻すかのように。

「だが――一人だけ、明らかに違う性質を持つ者がいたんだ」

 声の調子がわずかに低くなる。それは、地の底に沈んだ冷たさを、掬い上げるような響きだった。

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