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16話 猫

 佐伯家の朝は、夜の気配がまだ色濃く残る中、杳が務めに立つことから始まる。

 いつも通り杳を見送り食事の準備を済ませた後、及己は庭箒を手に取った。これもまた、この家に流れる静かな日課の一つだ。

 掃き清められた庭の植え込みの影が、ようやく自分の足元まで短くなった頃。母屋の前に一つの影が立った。


「――佐伯の番犬が異形と聞いていたが。おまえ、魔族か」

 不意にかけられた声に、及己はゆっくりと顔を上げた。門前に立っていたのは一人の少年だった。

 修行僧のような簡素な衣を纏い、年の頃は杳と同じか、やや上に見える。だが、その佇まいには年齢にそぐわぬ落ち着きと、刺すような鋭さが同居している。

「人間の口から、直接『魔族』と言われたのは初めてだ」

 及己は庭箒を動かす手を止めずに答える。

 金の瞳が値踏みするように少年を捉えた。

「魔族風情が、こんなところで何をしている」

「朝の庭掃き」

「ふざけるな」

「真面目だ。……なんだ、魔族に何か思うところでもあるのか」

「おまえたち魔族は人間にとって害悪だと聞いている。異国の過去の大戦で、多くの人の国を滅ぼしたとも」

「……『聞いた』、ね」

 及己の声にわずかな侮蔑が滲む。

「情報だけで嫌悪を示すか。浅はかな奴め」

「伝承のようなものならそうかもしれないがな。生憎、かなり正確な情報だ」

 少年は、ふっと口元を歪めた。

「こいつに聞いた」

 その背後で黒いもやがゆらりと立ち上る。やがてもやは輪郭を得て――一匹の小柄な獣の姿をとった。

 少年の肩に乗る、爛々と輝く二つの翠玉の瞳、黒い毛並み。


 ――猫。


 その姿を視界に捉え、緑の瞳と目が合った瞬間、及己の全身から血の気が引いた。

 心臓を氷の手で鷲掴みにされたかのように、思考が硬直する。

 庭箒を取り落としそうになるのをかろうじて堪えた。一歩、後ずさりかけた足を必死にその場へ縫い付ける。


 侵入者だ。

 しかも、明確な敵意を帯びている。


 ――ここで退くわけには、いかない。


「そ、そいつは……なんだ……」

 震えを押し殺したつもりの声は、自分でも情けないほど上ずっていた。

「俺の使役獣だ」

「し、使役獣……? そいつはそんなもんじゃないだろ! おまえどうやってその人間に取り入った!?」

 問いかけは完全に猫へ向けられていた。黒猫は喉の奥で低く唸り、威嚇の声を漏らす。

「フシャーッ!!」

「おまえ喋れるだろ……! 猫ぶるな……!!」

 及己の心の底からの叫びが、静かな朝の空気に響き渡った。

 そのあまりにも奇妙な応酬の最中に、杳が帰ってきた。

「………なんだ?」

 務めを終えた身体に染みついた疲労も忘れ、目の前の光景に眉を顰める。

 ふと、少年の姿に気づき、驚いたように名を呼んだ。

「あ……尚単語(ヒサシ)か?」


乙夜(イツヤ)家の長男の尚だ。正月の挨拶くらいでしか会わないけど」

 母屋の客間。三つの湯呑みが並ぶ卓を挟み、杳は及己にそう紹介した。

「乙夜……? あの、代替わりしたら鬼鎮めをしてやるとか言っていた、不遜な家の……」

「そう。あの家の長男が、こいつ」

「……あれの子か。確かに不遜な奴だな」

「そうそう」

「嫌な紹介の仕方をすんじゃねえよ。一応、親父の非礼を詫びに来たんだぞ」

 適当な紹介に、尚は苦虫を噛み潰したような顔で言い返した。

「……どうした、及己」

 そこでようやく、杳は及己の異変に気づいた。

 いつもは泰然としている友人が明らかに精彩を欠き、視線が落ち着きなく揺れている。


 及己が震える指先で尚の背後を指さした。

「あれ……」

「ああ、これか?」

 尚は気安く背後の猫を抱き上げ、ひょいと持ち上げる。

「いや、出すな!」

 及己が悲鳴に近い声を上げた。

「いや、指差しただろ」

「違う、そうじゃない!」

 差し出された猫を前に、及己は本気で怯えている。

 その見たこともない姿に、杳は言葉を失い改めて猫を見る。猫は直感で異形だとわかった。魂の形を視る要領で意識を沈めると、文字の渦がそこに見えた。

「……文字が見えるってことは、『本に封印された者』……? でも、縛りの言葉がない……?」

 その反応に、及己はかろうじて思考を取り戻した。

「……あいつは『本に封印された者』じゃない。『本から生まれたモノ』だ」


「本から……生まれた?」

「人の妄執が力を持ち具現化したものだ。おまえたちなら式神や形代のようなもの、と言った方がわかりやすいかも」

 猫から必死に視線を背けながら、及己は早口で続ける。

「そして、そいつは……かつて殺され、弔われることもなく捨てられた猫たちの恨みが、いつか人間に復讐しに来るんじゃないか、という……妄執が生み出したものだ」


 尚は腕を組み及己と猫を交互に見ながら黙って聞いていた。

 杳は、そこで一つの可能性に行き当たる。

「化け猫、みたいなものか」

「バケネコ……? なんだ、それ」

「伝承にある猫の妖怪だよ。人への恨みで化けて、死体を操ったり、食った人に成り代わったりする」

「だめだろ、それ……!」

 及己が明らかに狼狽し始めた。

「カスパルの方がまだマシだ……! あれは基本、火を守る家の守護霊で……破滅を招くこともあるが、それは家が悪いことをした時で……悪いことがあってもカスパルが悪いってより、家が悪いからだってことになっ…て……」

 普段からは考えられないほど、早口で知識を吐き出す。内心の恐慌を誤魔化そうとしている気配すらある。

 その完全に取り乱した様子に、尚が直球を投げる。

「さっきから思ってたけど……おまえ、猫嫌いなのか?」

 及己は、ぐっと口をつぐむ。

 杳は小さく肩を震わせ必死に目を合わせない及己と、悪びれもせず佇む猫を何度も見比べ、ようやく理解した。

「おまえにも苦手なものがあったのか……」

 及己は何も言い返せず、数呼吸置いてから、苦々しく頷いた。

 そこへ、尚が追い打ちをかける。

「猫顔なのにな」


 ――空気が、凍った。



「――言 っ て は い け な い こ と を 言 っ た な」


 地を這うような低い声。


「気にしてるのに……!!」

 立ち上がった及己の全身から、これまで感じたことのない純粋な怒りの気配が立ち上る。

「及己、落ち着け!」

「尚、おまえも煽るな!」

 殺気を放ち始める及己と、なおも面白がる尚の間に杳が必死に割って入った。

「そもそも、なんでそんなのがおまえのそばにいるんだ!」

 及己が尚から猫を引き剥がさんばかりの勢いで問い詰める。尚は、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。

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