11話 揺さぶり
「君は、騙されている」
仮面の男は、どこか芝居がかった口調でゆっくりと語り始めた。
「君の隣にいるルイ・ブライン――今は及己と名乗っていたか? あの者がどれほど罪深い存在であるか、君は何も知らない」
杳は黙ってその言葉を聞いていた。心の内側でこの時のために廉から教わった呼吸法を何度も繰り返す。精神の表面を凪の水面のように落ち着かせるために。
「奴は持てる力で数えきれないほどの人間を塵芥のように殺戮した。なぜか? 奴は災いの化身だからだ。破壊と殺戮こそが奴の魂の喜びなのだよ」
その言葉は、毒のようにじわりじわりと耳の奥へ染み込んでくる。
「君は奴の過去を知らない。力を制御することもせず暴走するままに身近な者から全てを破壊し尽くした」
杳の眉がほんのわずかに動いた。
「そう。奴は災いそのもの。疫病神だ。関わる者すべてに不幸をもたらす。君の一族とて例外ではない」
仮面の男は、ゆっくりと距離を詰める。
「いずれ奴は力を持て余し、必ず暴走する。その時真っ先にその牙にかかるのは――君か? それとも、君が守ろうとしているあの土地か?」
一歩、また一歩。
「だから早く断ち切れ。奴は、君にとっても世界にとっても、害悪でしかない」
仮面の奥の視線が、じっと杳を射抜いた。
「さあ、こちらへ来い。私と共にあの偽りの守護者を断罪し、世界に真の秩序をもたらそうではないか」
その言葉はどこまでも甘く、そして理路整然としているように聞こえた。
及己の力の強大さは事実だ。その力がバアルベリトが語るような暴走を起こしたらどうなるか、そんな恐れを抱くのもまた事実。
疑念を抱くには十分すぎるほどの材料がそこにはあった。
――だが。
杳の心は凪いでいた。意識は男の言葉には向いていない。
その存在の「本質」へと、深く、深く潜り込んでいた。男の話を聞いているふりをしながら、男を模る文字をただひたすらに読み解いていく。そこには、虚実と煽動の性質があからさまに刻まれていた。
――見える。
――おびただしい文字の渦。その中心でひときわ昏い光を放つ一つの「核」が。
「……なぜ、黙っている?」
杳の奇妙な落ち着きに、バアルベリトが初めて苛立ちを滲ませる。
「私の言葉が図星だったからか? それとも恐怖で声も出ないか?」
さらに一歩、踏み出す。その手が杳の胸倉を掴もうと伸ばされた――その瞬間。
激しい雷鳴のような音と共に、男の手が青白い電流に弾き飛ばされた。仮面の奥の瞳が驚愕に見開かれる。杳は静かに顔を上げ、強い意思を宿した眼差しでその目を真正面から射抜いていた。
――そして。
「捕らえた」
声は天から降ってきた。見上げれば木々の梢の上――日暮の太陽を背に、及己が感情を削ぎ落とした金の瞳で二人を見下ろしていた。
「ルイ・ブライン……!」
バアルベリトの声が歪む。そして何かに気づいたように杳を見る。
「……この小僧は、囮だったか……!」
即座に状況を察したバアルベリトがその手を天へとかざす。周囲の木々が意思を持ったかのようにしなり、無数の枝が槍となって及己へと殺到した。
だが、及己は動かない。枝の槍はその身に届く寸前で見えない壁に阻まれたかのように霧散した。
「ルイ・ブラインともあろうものがか弱い人間を囮に使うとは! 地に堕ちたな!」
吐き捨てられた悪罵。
その言葉に及己が応じるより早く、杳が静かに割って入った。
「……及己は、必死に止めたさ」
その声に、バアルベリトと上空の及己の視線が同時に注がれる。
「これは、おれの意志だ」
毅然と言い放つ杳の瞳がバアルベリトを真っ直ぐに見据えている。
「ここまでだ」
すぐ近くから響いたのは絶対零度の声。気づいた時には、及己はいつの間にかバアルベリトの隣に立っていた。バアルベリトが振り向くより早く、細い指先が首筋にそっと触れる。
――ただ、それだけだった。
次の瞬間。バアルベリトの体が糸の切れた人形のように音もなく地に崩れ落ちた。圧倒的な力の差。抵抗すら許されない。地に伏し、完全に無力化された男を見下ろしながら及己は静かに言った。
「お見事」
その声には、安堵とそれ以上の純粋な賞賛が込められていた。
及己の助言によって封印のための読み上げに入る。
地に伏す男に近づき、杳の声が凪いだ湖面のように静かに響く。
「……おまえの名前は『バアルベリト』」
「その本質は、不和と争いを愛でる精神」
一呼吸置き、魂の最も触れられたくない傷を、正確に抉り出す。
「――自らの愉悦のために一つの王国を言葉だけで崩壊させ、その民草すべてを死に至らしめた――書に封じられた最大の罪」
文字の縛りがバアルベリトの魂を激しく揺さぶる。その体はもはやピクリとも動かない。
「ただ読むだけじゃダメだ。自分で視て、意思を込めて読み上げるんだ」
「わかってる」
それは二人が初めて行う共同作業だった。及己の導きに従い、杳は精神を研ぎ澄まし、魂に刻まれた文字列を一つ、また一つと読み解いていく。
『――話術を以て国を崩壊させた罪により、その根幹を成す『記』と『声』を封じる。意味を為さない怨嗟の音のみを聞け』
杳がその一文を読み上げた瞬間、バアルベリトの仮面が砕け、その下の貌から声にならない絶叫が迸った。
やがて男の姿はばらばらの文字へと砕け、一定の列を成すと文字がびっしりと書き込まれた一枚の古びた羊皮紙へと姿を変えた。
ひらりと落ちたその紙を拾い、懐から取り出した本の、抜けていた箇所にそれを挟んだ。
バアルベリトの存在が本の中へ完全に封印された時、森にはただ静かな風の音だけが戻っていた。
「……及己」
帰路の途上、杳は不意に足を止めた。
「あいつが言っていたこと……おまえの過去の話は、本当なのか」
及己は足を止め、ゆっくりと振り返る。
長い沈黙。やがて及己は森の空気に溶けるような声で答えた。
「……概ね、事実だよ」
そこには何の感情も乗っていなかった。
「……そうか」
杳はそれ以上何も問わなかった。ただ、隣を歩く及己の背中がいつもよりほんの少しだけ、丸くなっているように見えた。
ゆっくりと振り返った時に覗いた表情――あれは明らかに怯えと、苦痛だった。
『悪い奴でも、槐さんは私を友人だと言ってくれたよ』
初めて話した時に及己が口にした言葉。
『悪い奴でも』
――祖父さんは知っていたのか。
脳裏に浮かぶのは出会ってからの及己の姿。
自分の傷を見て怒りと焦りを浮かべた表情。
叔父に深く頭を下げた背中。
墓石の前で静かに佇んでいた横顔。
おれの知っている及己は、あいつが語るようなただの破壊者じゃない。
何かがあるはずだ。
聞きたい。だが、聞いてはいけないとも思った。
『悪い奴でも、槐さんは私を友人だと言ってくれたよ』
――どちらが、友人としてあるべきなんだろうか。
答えの出ない疑問が、胸の奥へと沈んでいった。




