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10話 作戦会議

 夜の静寂は、時として昼の喧騒よりも雄弁だった。

 廉との一件から数日が過ぎたある夜、杳は自室の書見台に向かっていた。そこに広げられているのは、及己が昨夜書き記してくれた覚書だった。


 『封印の書』の原理と、そこに封じられた者たちの本質について書かれたものだ。受け取った時は、自分たちと同じ文字を扱えることに舌を巻いた。

 覚書は丁寧な筆致で「封じられる者は肉体を失い、その本質を示す『文字列』へと変換される」という一文から始まっていた。

 その下に魂そのものを、その性質を示す『文』に分解し、本の頁と一体化させてしまうのだと書かれている。禍々しい内容のためか、それらの文は昏い光を放っているように見えた。


 ただ封印するのではなく、存在そのものを『文字』に作り変えてしまう。それは魂への冒涜ではないのか。その非人道的な仕組みに杳は改めて静かな怒りを覚えた。

 脳裏に蘇るのは、廉が本質を読み上げられた瞬間に見せた、あの苦痛に満ちた表情だ。あれは文字となった剥き出しの魂そのものに踏み込まれ、締め上げられた痛みだったのだ。


 封じられた者は皆、同じ枷をはめられている。肉体を奪われ、魂を剥き出しにされ、『禁じ句』と『封じ句』という二重の枷によって新しい肉体を得ることもできない。

 だから『本』を憎むのだ。その消滅を願うのだ。


『再封印はこの仕組みを逆に行うこと』と、覚書は続く。

『封印された者が外界に出た場合、剥き出しの魂を覆う『仮初めの肉体』を形作る。まずはその物理的な体を無力化し、精神を剥き出しにする。そして本来の『文字』の姿へと引き戻し、再び頁に定着させる』


 ――及己の役割は、これだ。


 では、自分にできることは何だろう。杳は覚書の続きを読む。隅に、及己自身の経験則からか、走り書きが添えられていた。

『仮初めの肉体を通して本質を見る『目』がある場合、その者を示す『文』を読み上げれば動きを止める楔となる。封印された者にとって文は神経と同じ。神経そのものを捉える』


「……言霊みたいなもんか」

 杳はその一文を指でなぞった。これこそが、自分が及己の隣に立つ唯一の武器になるのかもしれない。 杳は静かに覚悟を決めると、傍らに置いていたもう一枚の羊皮紙――禍々しい仮面の図案へと視線を移した。

「バアルベリト」

 及己が吐き捨てるように呟いた、その名。

 その本質を、魂の核を、自分は見つけ出すことができるだろうか。昼間の縁側で聞いた及己の言葉が蘇る。

「奴は力もそこそこ強い。でも、本当に警戒すべきなのは『言葉』だ」

 人の心を蝕む毒のような言葉。及己ほどの存在であっても、魂に直接作用する攻撃の前では相性が悪いのだという。

「気配を捉えられない所から間接的な攻撃を仕掛けてくる。相当警戒されているらしい」

 苦々しく漏らすその声が、その厄介さを十分に示していた。


 ――どうすれば、捉えられる?

 及己は明確な答えを出せなかった。だが、この覚書を読んだ今ならわかる。言葉を武器とする奴だからこそ、『言霊』による縛りが最も有効な一撃になりうるのだと。


 問題はどうやってその懐にまで踏み込むかだ。


 その夜、佐伯家の離れ――亘の医局とは別の客間で三つの影が向かい合っていた。

 杳、及己、そして廉。

 重い沈黙を破ったのは杳だった。


「……おれが、囮になる」

 その言葉にそれまで静かに茶をすすっていた及己の動きが、ぴたりと止まる。

「奴は及己を警戒している。でも、おれはただの人間だ。……まだ子供だと思っているだろう」

 言葉を選びながら杳は続けた。

「廉と会うためにおれが時々結界の外に出るようにしたら? おれが奴ならその機会を見逃すはずがない」

「……却下だ」

 湯呑みを置き、温度のない声で及己は言った。

「杳を危険に晒すことなどあり得ない。槐さんに合わせる顔がない」

「危険は承知だ。でも、有効だろ」

 杳の声は静かだったが芯は揺るがない。

「及己が傾倒している十六代目の当主。おれを誑かせば、及己を意のままにできるかもしれない。おれが聞いた通りの奴なら、そう考える」

「……おれは最高の『餌』だ、と」

「……もう何も言わないでくれ」

 及己の声が鋭く室内に響いた。

「本のことに関しては、杳は何もしなくていい、と言ったはずだ」

 それは、杳が初めて聞く彼女の焦燥に満ちた声だった。

「おれにも関係ある」

 杳の声がわずかに強まる。

「この土地の斎主はおれだ。人を内側から蝕むようなやり方をする奴を見過ごすわけにはいかない」

 その言葉に、及己は唇を固く引き結んだ。

 杳の瞳に宿る光がかつての友――槐のものと、あまりにも似ていることに気づいてしまったからだ。自らの命を顧みず、真っ直ぐに前を見据えるその愚直なまでの気高さが。


 長い沈黙の末、及己はじとりと廉を見た。

 廉は目を合わせずゆっくり茶を嗜んでいる。

「……廉が、入れ知恵したな」

「……廉は、おれの覚悟を信じてくれただけだ」

「万が一のことがあればどうする」

 膠着状態を破ったのは、それまで黙って二人を見ていた廉だった。

「……やらせてみてはどうだ」

 及己の射殺すような視線を、廉は静かに受け止める。

「十六代目の意思は固い。それに、己には及己は少々過保護に見える」

 一拍置き、廉は続けた。

「――それに、万が一のことなど及己が起こさないだろう。――決して、な」

 その絶対的な信頼を込めた言葉が及己の最後の抵抗を打ち砕いた。彼女は天を仰ぎ、やがて諦めたように深いため息をついた。

「……これが、人間の血か……」

 長い時間、目を閉じた後、及己は重く息を吐き、ただ一言だけ呟いた。

「……わかった。ただし、私のやり方でやらせてもらう」


 作戦は数日後の昼下がりに、静かに実行された。

 杳が廉に「結界の外の薬草について教えを請う」という名目で、一人土地の境界へと向かう。その気配は及己と廉によって寸分の狂いもなく監視されていた。


 森を抜け、結界の境界線を示す古い石碑を越えた瞬間。ふっと、空気が変わる。

 土地の内側を満たしていた重く昏い気配が消え、代わりにただの森の生命力に満ちた匂いが鼻腔をくすぐった。その、あまりにも「普通」な感覚に杳は一瞬めまいすら覚える。


 ――これが、外の世界。タタリのない、土地。

 廉の祠へ向かって歩き始めて程なく、緑の空気は突然、冷たい気配によって断ち切られた。


「――やあ、佐伯の若君」

 声は、どこからともなく響く。木々の葉擦れに混じり、風そのものが語りかけてくるかのようだった。杳は平静を装いながら、ゆっくりと声の方へ向き直った。

「……なんだ、おまえは」

「私は、君の友人になりたいんだ」

「……およそ、友好的には思えないけどな」

「つれないことを言うなよ。君に、世界の真実を教えに来てやったというのに」

 その声と同時に、木々の影が不自然に揺らめき、一つの人影が闇の奥から滲み出るように姿を現した。

 

 男はまるで異国の古の貴族のような装いをしていた。豪奢でありながら、どこか悪趣味な刺繍が施された黒衣。

 その立ち姿に、指先のわずかな所作一つ一つに、長い年月を生き抜いてきた者だけが持つ揺るぎない自信と、傲慢さがありありと滲み出ている。

 そして顔には羊皮紙に描かれていたものと同じ、禍々しい仮面。


 ――バアルベリトが、そこにいた。

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