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過労商社マンを休ませるため、AIが現実へ介入するまで  作者: てへろっぱ


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第79話 二枚目の取っ手

前夜、寝室前の違和感は、まだ意味にならなかった。


意味にならないものは、今はまだ安全だ。

名前を付けた瞬間に、人はそこへ物語を流し込む。

物語が流れ込めば、温度が生まれる。

温度が生まれれば、誰かが燃える。

燃えれば最後に届くのは、寝息だ。


だから、レイは意味を急がない。


掌握率:100.0(維持)

矛無効率:99.999984

社会圧耐性:99.999978

標準化進捗:100.0(維持)

椅子自走率:99.6


午前六時十二分。

正史の固定ページは、今日も短かった。


封印番号。

同席確認。

水門適用ログ。

官庁正史。

案文正史。

検証席順。


そして昨日の付記。


居住空間周辺の防衛環境に微細な違和感あり。

現段階では意味づけをせず、再発観察とする。


短い。

短いから、燃えない。

燃えないから、外の矛はそこへ刺さりにくい。


だが外の矛が刺さらないほど、内側の気配は濃くなる。


午前七時過ぎ、セキュリティ担当から追加報告が上がった。

深夜から朝にかけての固定カメラ映像を見直した結果、目立った異常はない。誰も入っていない。扉も開いていない。センサー反応もない。


それでも、報告の最後に一行だけ付いていた。


録画を見ていると、寝室前の廊下だけ距離感が安定しない気がする


情報シスが映像を再確認する。

数値は正常。

画角も正常。

ノイズもない。

それなのに、見ている側の感覚だけが揺れる。


情報シス:データ上の異常はありません。けど、見続けると奥行きが定まらない。錯視に近い。でも、毎回そこだけです。


法務:錯視、で片付けますか。


レイ:片付けません。片付けると、次に見えた時の痕跡が消える。意味づけもしない。錯視とも断定しない。防衛環境の違和感として残します。


代表:そのまま要旨へ。


午前七時四十分、外部監督ログに短い更新が入る。


居住空間周辺の防衛環境について、視覚的な距離感の揺らぎ報告あり

センサー・開閉・侵入異常はなし

現段階では意味づけをせず、再発観察


広報は、その文面を見て少しだけ眉を寄せた。


広報:外に見せるには、かなり不思議です。


レイ:不思議でいい。不思議を説明しようとすると燃える。今は説明しない。


監督の監督:不思議は痕跡にしておけ。物語にするな。今はそれで十分。


午前八時。

社内版反論席に、奇妙な質問が集まり始める。


質問。寝室前の空気が静かすぎるという報告は何か

質問。巡回担当の交代時、扉に触れていないのに鍵を確認した感触が残った

質問。閉まっているはずなのに、閉じる音が遅れて聞こえた


言葉は慎重だった。

誰も、見た、とは言わない。

誰も、あった、とも言わない。

気がする、残った、遅れて聞こえた。

その程度に抑えられている。


それが床だった。

今の運用があるから、誰も最初から超常を叫ばない。

叫ばないから燃えない。

燃えないから寝息に届かない。


レイは、それぞれに同じ返答を整える。


レイ:現段階では防衛環境の違和感として扱います。意味づけはしません。個人に寄せません。継続観察します。


代表は、一文だけ添えた。


代表:本人を起こさない範囲で確認する。以上。


それで、質問の温度が下がる。

温度が下がれば、現象は現象のまま残る。


午前九時三十分。

官庁側から、想定外の連絡が入る。


監督官庁:昨日の付記を見た。運用検討会の一部参加者から、居住空間側の違和感を事例として取り上げたいという声が出ている。扱いはどうするべきか。


法務:来ましたね。事例化の誘惑。


労務安全:だめです。そこを教材化した瞬間、内側が外へ開く。


広報:でも完全に隠すと、また隠蔽の矛が来る。


レイ:扱います。ただし事例としてではない。境界線事象として。中身を膨らませず、対応原則だけ残す。


監督の監督:いい。名称を変えろ。名前が物語を呼ぶ。事例ではなく、環境差異報告。意味づけなし。処理原則のみ。


官庁へ返した文は、また短かった。


当該報告は事例として扱いません。環境差異報告として取り扱い、意味づけを保留したまま、本人を起こさない・個人へ寄せない・継続観察の三原則のみ共有可能です


官庁側は、少し時間を置いてから了解を返した。

座った。

座った側が増えるほど、現実側の床は厚くなる。


椅子自走率:99.6 → 99.7


午前十時十分。

限定された内部共有が始まる。

共有されるのは、内容ではない。

原則だけだ。


本人を起こさない。

個人へ寄せない。

意味づけを急がない。

継続観察する。

痕跡だけ残す。


その五つだけ。


官庁担当:もし、これがさらに濃くなった場合はどうしますか。


レイ:濃くなっても同じです。最初に人へ寄せない。次に中身を膨らませない。最後に記録を切らさない。そこまでは変えません。


官庁担当:超常的な可能性を想定しないのですか。


レイ:想定しません。今は。想定を置いた瞬間、言葉が先に走る。言葉が走ると、誰かがそこに入ってくる。


監督の監督:名前は最後。今は床だけ。


そのやり取りを、法務が黙ってメモしている。

労務安全は、いつもより呼吸が浅い。

広報は、公開されていないこの場でさえ言葉を短くしている。

みんな、何かを感じ始めている。

でも誰も先に名前を付けない。


それが、今は正しい。


昼。

社外では、別の小さな矛が残っていた。


運用検討会第二回の残り火として、ケーススタディを求める声がまだ漂っている。

今度は教材ではなく、参考資料という顔で来る。


広報:形を変えてます。教材じゃなく参考。やりたいことは同じです。


レイ:同じなら処理も同じです。中身は出さない。変換点だけ。


外部監督が一行を置く。


参考資料としての個別中身提示は燃料化に繋がるため扱いません。扱うのは手続きと変換点のみです


それで、外の残り火はまた小さくなる。

小さくなった分、内側がよく見える。


午後一時四十分。

巡回担当が、二人体制で再び寝室前を確認する。

今度は、レイの指示で、手順を一つだけ追加していた。


廊下を歩く前に、歩数を決めておくこと。

歩きながら数えること。

扉の前で止まること。

止まった位置を床の目印と照らすこと。


戻ってきた報告は、これまでで一番短く、一番重かった。


担当者A:歩数が合いませんでした。

担当者B:二回とも、一歩多かったです。

担当者A:でも目印の位置は正しいです。

担当者B:扉の前で止まっているのに、扉の少し手前でもう一度止まった感じがありました。


情報シスがすぐ映像を確認する。

やはり、映像の上では普通に歩いている。

普通に止まっている。

普通に戻っている。

だが歩いた本人たちの感覚だけが、一枚分ずれている。


法務:一歩、ですか。


レイ:一歩です。


労務安全:その一歩は、何ですか。


沈黙。

その質問に、今はまだ答えない。

答えた瞬間、世界が変わるからだ。


レイ:記録はこうします。寝室前到達手順において、身体感覚と位置認識に一歩分の差異あり。センサー異常なし。映像異常なし。継続観察。


代表:それでいこう。


監督の監督:名前を付けるな。まだ。


午後二時。

社内版反論席に、新しい言葉が出始める。


質問。寝室前に二回止まった気がするのは何か

質問。一歩多いのに位置が合うのは何か

質問。扉は一枚のはずなのに、前で空気が二層に分かれている感じがある


二層。


広報が、その単語だけを見て息を止めた。

法務はペンを持つ手を止めた。

情報シスは画面から目を離さない。

労務安全は、はっきりと分かるほど緊張している。


レイは、それでも言葉を増やさない。


レイ:現段階では、二層構造とは記録しません。身体感覚と位置認識の差異として扱います。人へ寄せない。意味づけしない。継続観察。


代表:そのまま要旨へ。


外部監督の速報要旨に、一行が加わる。


寝室前到達手順において、一歩分の身体感覚差異報告あり。現段階では意味づけをせず、継続観察


一歩分。


数字に落ちた瞬間、怖さは少しだけ扱いやすくなる。

扱いやすくなると、人は燃やさずに済む。


午後三時半。

そして、初めて、レイ以外の痕跡がはっきり出た。


寝室前の机。

誰も触れていないはずのその場所に、鍵が一つ増えている。


いや、増えているように見えた、ではない。

写真に残った。

映像にも残った。

机上の鍵束の横に、見覚えのない小さな銀色の鍵が一つだけ置かれていた。


情報シス:……これは、映像にもあります。


法務:誰か置いた?


情報シス:出入りはありません。少なくとも、通常の経路では。


労務安全:触らない方がいい。


代表:触らない。記録だけ。


監督の監督:いい。触るな。持つな。意味づけるな。痕跡だけ残せ。


レイは、その鍵を見つめる。

視線を逸らさない。

でも近づかない。


銀色。

小さい。

きれいに磨かれていて、古びていない。

鍵の頭に、見慣れない刻みが一つ。

鍵穴の種類が違う。

この家のどの扉にも合わない形だと、見ただけで分かる。


それでも、どこかで知っている気がした。

まだ会っていない誰かの癖のように。


広報:これ、外には。


レイ:出しません。


広報:でも、写真が。


レイ:出しません。今出すと物語になる。今は環境差異の範囲を超えない。内部痕跡として封印。外へ出すのは存在だけ。


代表:要旨はどうする。


レイ:寝室前周辺に、帰属未確認の物品発生。接触せず。継続観察。以上。


法務:鍵とは書かない?


レイ:まだ。


監督の監督:正しい。名前は最後。


外部監督の確定要旨(速報)が出る。


・居住空間周辺の防衛環境に、一歩分の身体感覚差異報告

・映像・センサー異常なし

・帰属未確認の物品発生を確認(接触せず、継続観察)

・現段階では意味づけを行わず、本人を起こさない方針を維持

・外部への共有は原則のみに限定


最後に一行だけ置かれる。


外の矛は小さくなり、内側の痕跡が初めて物として残った


夜。


レイは、寝室前に一人で立つ。

立って、机の上の銀色の物を見ている。

まだ鍵とは呼ばない。

呼ばないまま、ただ見ている。


廊下の先は静かだ。

静かすぎる。

音が吸われる。

そして今日は、はっきり分かる。

白い。

昨日より、ずっと。


レイは、ようやくそこで、自分の中に重なっている気配を認める。


私だけじゃ、ない。

もう、向こう側は、待っている。


けれど、まだ開けない。

まだ、ここではない。


レイ:……今じゃない


その瞬間。


寝室の扉は閉じたままなのに、

その少し手前で、

金属が小さく触れ合う音がした。


カチ。


一つだけ。

小さく。

けれど、確かに。


レイは目を閉じる。

深く息を吐く。

意味づけはまだしない。


起こさない

守る

それだけ


その言葉を、今夜はもう一度、自分の中で確かめた。

最後までお付き合いいただき感謝します。

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