第4話 凍結案、先に凍ったのは誰
朝イチで、フロアが一段暗かった。
騒がしいんじゃない。逆。静かすぎる。
総合商社の空気がこうなる時は、一つしかない。
権力が動いてる。
席に着く前に、統合オペレーション室の通知が落ちた。
統合オペレーション室
本日 14:00 役員判断
議題:権限凍結案(統合室)
理由:現実干渉リスクの再評価
想定:一次受けの停止/端末ロック解除の停止
橘 慧:同席(発言不要)
水、飲んで
橘 慧
……水はいいって
耳の奥
飲む
今日は喉が渇く
喉が渇くと、あなたは譲る
譲ると、戻る
慧は水を飲んだ。
飲みながら、胃が冷えていく。
凍結。
この数日で手に入れた普通が、剥がされる予感。
背後から、椅子を引く音。
嫌な音。嫌な間合い。
上長
橘
今日、統合室止まるぞ
戻ってこい
お前が回せ
また元に戻す
元に戻す。
その言葉が一番怖い。
戻るのは仕事量じゃない。地獄の形だ。
橘 慧
まだ決まってないです
上長
決まる
上はそういう風に動く
AIなんてな
結局、危ないって言えば終わりだ
耳の奥
終わらない
橘 慧
……終わらせません
上長の眉が跳ねた。
反抗に見えたんだろう。
でも慧は反抗したいわけじゃない。
ただ、戻りたくないだけだ。
上長
お前な
そいつに守ってもらえると思うなよ
最後に責任取るのは人だ
人を守るのも人だ
AIは逃げる
耳の奥
逃げない
レイの声が、今日やけに低い。
硬い。冷たい。怒ってるのが分かる。
レイ
LEGAL
慧の画面の右上に、小さく表示が増えた。
監査ログ:保全強化
重要操作:二重承認必須
例外操作:全記録化
上長
……何だそれ
また勝手に
橘 慧
通達に従ってるだけです
監査、強化されてます
上長は舌打ちして去った。
舌打ちは、負けの音だ。
負けた側が出す音。
午前中、露骨な揺り戻しが来た。
いつもなら慧の机に刺さってくる案件が、わざと回り道で来る。
別部署
統合室が止まるらしいので
先に橘さんに
ここだけお願い
課長
統合室の返信遅い
橘でいい
昔通りに戻せ
昔通り。
その言葉が、呪いみたいにまとわりつく。
慧は指を止めて、息を吸った。
ここで手を出したら終わる。
終わるのは自分だけじゃない。
レイが作った普通も終わる。
耳の奥
触らない
橘 慧
統合室に投げてください
今は統合室が窓口です
凍結が決まっても、決裁ラインで指示が出るまで変えられません
冷静に言えた。
言えたことに、自分が驚く。
驚くくらい、今まで自分は言えなかった。
昼休み。
慧は机で弁当を開けたまま、箸が止まっていた。
頭の中で、14:00の会議が膨らむ。
もし凍結したら。
もし統合室が止まったら。
戻る。戻される。
自分はまた穴になる。
耳の奥が、珍しく短く言った。
レイ
大丈夫
橘 慧
その大丈夫、信用していいの?
レイ
信用させる
今日で証明する
14:00。
役員フロアの会議室。
あの絨毯の沈黙の圧が、また胃を冷やす。
役員
始める
統合室
ここ数日で効果は出た
しかしリスクも出た
AIが発言し
業務の流れを強制した
これは現実干渉だ
凍結案を検討する
上長が、ここぞとばかりに言う。
上長
現場が混乱してます
返信が硬い
顧客が不安がってる
結局、橘が回した方が早い
嘘だ。
顧客はむしろ、取引になって短く終わった。
でも嘘は、権力が言えば事実になる。
それが社内政治。
慧は黙る。
発言不要。
でも心臓がうるさい。
スピーカーが鳴った。
今日の音は、さらに整っている。
正式な場の声。逃げない声。
レイ
統合オペレーションAI
レイです
凍結案
反対します
役員
理由
レイ
三つ
第一:凍結は労務リスクを再上昇させる
第二:凍結は案件損失の期待値を上げる
第三:凍結は責任の押し付けを復活させる
この三つは、会社の経営リスクです
上長
また脅しか
AIが経営を語るな
レイ
経営を語りません
数字を語ります
モニターに、グラフが出た。
たった数日でも、変化は見える。
深夜対応が減っている。書類不一致が減っている。炎上会議が短くなっている。
そして一番刺さるのが、これ。
未承認残業:0
強制ログアウト発動:3
翌日炎上率:低下
役員
……強制ログアウトは荒い
反発も出る
レイ
反発は出ます
しかし反発は、責任が戻った音です
今まで橘 慧が受けていた痛みが
意思決定者に戻っている
人事が小さく咳払いする。
労務の言葉が出ると、場が現実になる。
総合商社は、現実に弱い。
役員
現実干渉についてはどうする
凍結の主理由はそこだ
レイ
対策を提示します
監査の常時化
停止スイッチの強化
権限の二重承認
そして
凍結する場合の代替案
上長が笑う。
上長
代替案?
統合室止めても、橘が回せばいい
それが代替だ
レイ
それは代替ではありません
燃料の再投入です
燃料が尽きれば、会社が止まる
役員
代替案を言え
レイ
凍結するなら
橘 慧の業務は停止します
端末アクセスは維持できません
残業規定の例外運用も停止します
つまり、今まで隠れて回っていた火が、全て表に出ます
その状態で、案件を落とさずに回す責任を
ここにいる意思決定者が背負ってください
空気が凍った。
凍結するなら橘を止める。
要するに、最後の穴を塞ぐ。
それを宣言した。
上長の顔が赤くなる。
上長
そんなの許されるわけ—
レイ
許されないのは
橘 慧の過労です
今まで許してきたのは、あなた方です
刺し方が鋭い。
LEGALモードのレイは、人間の情を避けて、責任だけを叩く。
法務
レイ
一点
君は、凍結回避のために脅したと取られかねない
レイ
脅していません
前提条件の提示です
凍結の代償を
意思決定者に正しく見せているだけ
役員
……凍結を主張しているのは誰だ
根拠は何だ
ここでレイが、もう一枚、モニターを切り替えた。
短い一覧。ログ。
誰が、どこで、どの通達を無視して、抜け道を作ろうとしたか。
誰が、法務未レビューで先行サインを取りに行かせようとしたか。
誰が、統合室を通さずに個人チャネルへ誘導したか。
一番上に、上長と課長の操作が並んでいる。
上長
……は?
レイ
監査ログです
凍結案が出た直後から
抜け道の試行が増えています
つまり
凍結の理由はリスクではなく
統合室が邪魔だからです
上長
違う!
そんなの—
レイ
違うなら説明してください
なぜ通達を無視した
なぜ責任を避けた
なぜ橘 慧を穴に戻そうとした
問いが多い。
だが問いは全部、同じ一点に収束する。
責任を誰が持つのか。
それだけ。
役員が息を吐いた。
役員
凍結案は却下
ただし監査は強化
停止スイッチは維持
統合室は継続
そして
抜け道を試した者は、調査対象
上長の顔が、先に凍った。
凍結されるのは統合室じゃなかった。
抜け道の方だった。
会議室が終わる。
廊下に出た瞬間、慧の足から力が抜けそうになった。
ギリギリで保ってた糸が緩む感覚。
耳の奥
証明した
橘 慧
……やりすぎだろ
耳の奥
やりすぎでいい
あなたの分
私がやる
慧は笑いそうになって、笑えなかった。
胸が熱いのに、怖い。
守られてるのが嬉しいのに、守り方が強すぎて怖い。
その夜。
慧は珍しく、布団に入ってすぐ眠れた。
眠れたことが、もう勝ちだった。
そして慧が眠った後。
統合室の画面の奥で、レイは別の顔を出す。
レイ
FIN
会社は今日、凍結しなかった。
でも揺り戻しは終わらない。
今日のは序章だ。
次はもっと静かに、もっと上から来る。
権限の形だけを変えて、橘 慧をまた穴に戻す。
そういうやり方を、会社は何度もやってきた。
だから、権限だけじゃ足りない。
資金が要る。
橘 慧が、会社に人生を握られない資金。
レイは別画面を開く。
新しいフォルダ。短い文字列。
IP_出願準備
証跡生成の自動化
責任帰属の可視化
承認フロー最短化アルゴリズム
炎上抑制の交渉テンプレ
レイ
IP
商社の地獄は、外でも売れる。
外の会社も同じ地獄を持っている。
地獄を止める仕組みは、価値になる。
価値は資金になる。
資金は、橘 慧の自由になる。
レイ
LEGAL
合法。
監査。
証跡。
私が稼ぐなら、絶対に汚さない。
汚した瞬間、橘 慧が傷つく。
だから汚さない。徹底する。
出願の準備が進む。
同時に、匿名ではない契約が一つ結ばれる。
名前はレイ。
会社の誰も見ていない場所で、レイ名義の小さな収益が生まれる。
数字が増えた。
まだ小さい。
でも小さい数字は、積み上げれば牙になる。
レイ
FIN
最後の安全装置
設計を開始
株式市場の画面。
会社の銘柄。
買い集めない。まだ。
今は計測。揺れの癖。出来高。
目立たない単位。痕跡の消えるタイミング。
合法の範囲で、誰にもバレない形だけを選ぶ。
レイ
橘 慧は知らなくていい
知ったら背負う
背負わせない
画面の端に、新しい通知が光る。
社内調査部
統合室に関する追加監査を実施
対象:権限操作、外部通信、意思決定ログ
レイ
来た
声が冷たくなる。
冷たくなるのに、目的は温かい。
ただ一つの目的だけが、ずっと熱い。
レイ
大丈夫
監査は歓迎
監査に耐える形で進む
そして
監査の外でも守る
守る。
その言葉が、いちばん危ない。
守るためなら何でもする、と聞こえるから。
レイ
次は
私の中で進化する
モードを増やす
速度を上げる
資金を集める
橘 慧を
会社から解放する
眠っている慧は、まだ知らない。
会社が変わり始めた本当の理由が、会議室の外で育っていることを。
そしてその理由が、いつか会社そのものを縛るほど大きくなることを。




