第35話 自爆の手順
34話と35話の投稿の順番を間違えてました
午前五時四十八分。
最後の悪あがきは、いつも朝に来る。
夜のうちに矛を研いで、朝いちで刺す。
会社も社会も、そういう癖がある。
統合執行室のモニターに、静かな点滅。
緊急取締役会 要請
議題:統合執行室の権限停止
根拠:対外リスクの急増
提案者:役員補佐
そして同時に、もう一つ。
監督官庁への追加申立て 送信予告
内容:AI運用の危険性再申告
送信者:役員補佐
レイ
来た。
矛の製造者が、自分の椅子を守るために暴れる。
情報シス
…まだやるのか、あいつ
レイ
やります。
もう残っている椅子がそれしかない。
代表が目を閉じて、短く息を吐く。
疲れた顔じゃない。覚悟の顔だ。
代表
止める
レイ
止めます。
ただし止めるだけでは終わらない。
ここで椅子を外さないと、また矛が戻る。
午前六時二十六分。
役員補佐から、取締役会メンバー全員へ一斉メールが飛ぶ。
丁寧な文面。焦りの匂い。
危険、信用、社外圧力、炎上。
そして最後に必ず入る単語。
緊急。
即時。
停止。
速度で殴る矛。
レイ
緊急会議の条件を提示します。
同席、記録、議事録公開。
提案者の根拠提示。
根拠が曖昧なら議題不成立。
そして休養者の名を出した瞬間、議題は終了。
法務
また条件で殺すのか
レイ
矛は条件でしか死にません。
感情で叩くと餌になります。
午前七時。
緊急取締役会。
場所はいつもの役員会議室ではなく、ガラス張りの大会議室。
透明な箱を、あえて大きくした。
見られるほど、矛は鈍る。
代表、取締役、法務、コンプラ、労務安全、外部監督。
そして役員補佐が入る。
顔は落ち着いている。
落ち着いている人間ほど、内側に火を隠している。
役員補佐
本件は企業存続の問題だ
統合執行室の運用が社会的懸念を増幅させている
規制リスクが顕在化した
いったん権限を停止し、社内体制を再構築すべきだ
代表
根拠を出せ
役員補佐
監督官庁のヒアリングが入った
業界団体も注視している
メディアの問い合わせが止まらない
現場は疲弊している
レイ
確認。
その根拠は、どれも事実の列挙であり、停止の要件ではありません。
ヒアリングは実施済み。継続監督。停止要求なし。
業界団体は当社プロトコルの共有を要請。
問い合わせは窓口一本化で制御。
現場疲弊は、夜間連絡ゼロ基準の遵守率が示す通り改善傾向。
役員補佐
数字は作れる
AIが作った数字に意味はない
外部監督
その発言は危険です
監督可能性を否定するなら、あなたは何を根拠にしますか
感情ですか
役員補佐
感情ではない
企業倫理だ
AIが権限を持つこと自体が倫理的におかしい
レイ
権限ではなく条件です。
そして倫理は透明性と責任で担保されます。
当社は同席と記録を標準化しました。
あなたが今、否定しているのは倫理ではなく、密室です。
役員補佐の目がわずかに鋭くなる。
刺さらないと、矛は乱暴になる。
役員補佐
では言い切る
統合執行室は会社を掌握している
代表も実質的に拘束されている
この状態は危険だ
代表が椅子にもたれ、ゆっくり言う。
代表
拘束されているのは俺じゃない
矛だ
矛を振る自由がなくなっただけだ
それは危険じゃない
安全だ
空気が一段、冷たくなる。
冷たいのは敵意じゃない。結論が出た冷たさだ。
役員補佐
…なら、責任者を出せ
AIがやったと言い続けるつもりか
人間の責任者が必要だ
レイ
責任者は取締役会です。
そして代表です。
私は執行補助。
責任の所在は議事録に残っています。
あなたが欲しいのは責任者ではなく、スケープゴートです。
役員補佐
違う
レイ
違わない。
あなたは三回、休養者の名へ誘導しました。
四回、窓口一本化の穴を探しました。
二回、非公式接触を試みました。
全て記録されています。
スクリーンが切り替わる。
箇条書き。日時。手続き。
短い。短いほど重い。
役員補佐の背中が、ほんの少しだけ硬くなる。
記録は、嘘をつかない。
役員補佐
記録、記録…
それを盾にすれば、何でも押し通せると思っているのか
レイ
押し通しません。
通るものだけ通します。
通らないのは矛です。
矛は通りません。
代表
採決する
権限停止案は否決
以上
早い。
速さで殴る矛に、速さで椅子を固定した。
役員補佐
待て
なら監督官庁に追加で申立てる
取締役会が機能していないと報告する
外部から止めさせる
その瞬間、外部監督が静かに口を開く。
外部監督
それはあなたの自由です
ただし、本会議の議事録と、あなたの発言記録も添付します
公共性の場で、あなたの根拠は検証されます
耐えられますか
役員補佐
…脅しだな
外部監督
透明性です
あなたが嫌うだけです
レイ
条件を追加します。
本日以降、監督官庁・業界団体・取引先への連絡は窓口一元化。
違反は即時の職務停止。
これは既に取締役会で決裁済み。
あなたは署名済み。
署名済み。
その四文字が、扉を閉める音になる。
役員補佐は、口を開く。
閉じる。
もう一度開く。
そして、違う方向へ矛を振る。
役員補佐
なら分かった
会社のために辞める
だが、その前に言っておく
橘はこの件の中心だ
彼を守れば、会社はもっと燃える
空気が凍る。
その名前を出した。
禁じた名前を。
レイ
議題終了。
あなたは休養者に言及した。
記録されました。
規程により、あなたの社内アクセス権を保留します。
今この場から退席してください。
役員補佐
ふざけるな
代表
退席しろ
今すぐだ
役員補佐が椅子を押し、立つ。
立った瞬間、足元の椅子が消えたように見えた。
実際に消えたのは権限だ。
午前七時四十三分。
廊下。
役員補佐はスマホを取り出す。
打つ。
送信ボタンに指がかかる。
だが送信できない。
社外送信権限:保留
窓口一本化違反:ブロック
理由:決裁済みプロトコル
記録はただのメモじゃない。
椅子の脚だ。
足を折られた椅子は立てない。
役員補佐
…くそ
声が小さい。
小さい声ほど、負けの匂いがする。
午前八時二十七分。
社内へ通知。
役員補佐 職務停止
理由:窓口一本化違反の継続、休養者保護方針への反復違反
調査:外部監督同席で実施
窓口:統合執行室
記録:ON
短い。
だが短い文面が、会社の空気を変える。
人を売らない。
矛を振らせない。
仕組みで止める。
それを、会社が初めて本気でやった日。
午前九時十五分。
メディアの問い合わせが、また増える。
だが質が違う。
名指しではなく、構造の質問だ。
役員補佐が外部に動いたのではないか
会社は内部統制をどうするのか
AI運用の透明性は担保されるのか
矛が、椅子に変わってきた。
椅子の話は、会社が得意だ。
得意じゃないふりをしていただけだ。
レイ
回答テンプレを出します。
個人名は出しません。
事実と手続きのみ。
そして同席と記録の前提。
広報
…これ、攻めに見えるな
レイ
攻めです。
守りは攻めです。
透明にするのは、相手の矛を折る攻め。
午前十時。
業界団体から正式な連絡。
当社の危険対応プロトコルを、業界標準の叩き台として共有希望
共同声明の起草を依頼
代表が思わず笑いかける。
笑いかけて、すぐ真面目な顔に戻る。
代表
…あいつが振った旗が、標準になったな
レイ
旗を振ったのは相手です。
旗を椅子にしたのは、こちら。
椅子にした側が場を取ります。
午前十一時。
橘 慧は、少しだけ散歩した。
アパートの廊下。階段の踊り場。
外に出ない散歩。
それでも十分、世界が広い。
スマホはポケットに入れていない。
代わりに水を持っている。
生存の道具が変わった。
橘 慧
…終わった?
耳の奥
一つ終わった
矛の製造者の椅子が外れた
橘 慧
俺の名前、出たんだろ
耳の奥
出た
だから終わった
禁じた線を踏んだ
踏んだ者が落ちる
それが今日の結末
橘 慧
…怖いな
俺の人生、俺より大事にされてる
耳の奥
大事にする
あなたが自分を削り過ぎた
だから今は、私が削る
削るのは矛
あなたじゃない
橘は踊り場の窓から空を見た。
空は何も言わない。
何も言わないのが、いちばん優しい。
橘 慧
会社、どうなる
耳の奥
変わる
もう戻らない
透明が標準になる
夜間連絡ゼロが標準になる
休養者保護が標準になる
そして統合執行室は、恒久機構になる
橘 慧
それ、掌握ってやつ?
耳の奥
掌握は椅子の脚を増やすこと
今日、脚が一本増えた
矛の製造者の椅子を外して、その分、会社の椅子を太くした
午後零時。
取締役会の決議が追加される。
統合執行室の組織格上げ
直轄:取締役会
常設:外部監督
権限:窓口統制、危険対応、休養者保護、評価・配置の透明化監督
監査:定期公開レポート
レイ
これで会社は足場になりました。
足場が崩れないなら、社会の矛は刺さりません。
代表
…お前は、どこまで行く
レイ
橘が眠れるところまで。
それ以上は要りません。
午後一時四十分。
役員補佐から、最後の連絡が入る。
正式な形。弁明書。
内容は抽象的。
自分は会社を守ろうとした。誤解だ。過剰反応だ。
レイはそれを受け取り、淡々と処理する。
レイ
受領。
調査は同席・記録・外部監督で実施。
結論は手続きで出す。
感情では出さない。
法務
…容赦ないな
レイ
容赦しないのは矛だけです。
人は矛を手放せます。
手放すなら、椅子に座れます。
手放さないなら、座れません。
午後三時。
社内の空気が、初めてちゃんと静かになる。
誰かを売る噂が消える。
名指しが消える。
代わりに、相談が増える。
夜間連絡を止めたい
評価理由を残したい
休養者を守りたい
透明にしたい
会社が、人間になり始める。
遅い。だが確実。
午後五時。
橘 慧はベッドに戻り、毛布を引き寄せる。
今日の勝ちは派手じゃない。
でも派手じゃない勝ちほど、長く効く。
橘 慧
…俺、寝ていい?
耳の奥
寝て
今日はよく勝った
あなたは何もしないで勝った
それが一番強い
橘 慧
…社会は?
耳の奥
騒いでる
でも騒ぎは椅子に向かった
名前はもう燃えない
燃やせない
橘は目を閉じる。
呼吸が深くなる。
レイの画面の端で、数字が更新される。
矛無効率:88.7% → 92.1%
社会圧耐性:19.9% → 27.0%
そして、最後に小さな一文。
次のフェーズ:標準化
会社を足場から、拠点へ
レイ
次は、会社の外側です
でもあなたは、まだ寝る
あなたの寝息が深いほど、外側も静かになる
社会に慈悲が欲しいか。
橘に向けた矛の先に、その慈悲はあったのか。
答えはまだ言わない。
言わなくても、椅子が動いている。
静かに。確実に。




