第32話 危険の旗
午前七時二分。
会社が静かすぎる朝は、だいたい外がうるさい。
外の矛が騒ぐほど、内側は密室に戻ろうとする。
それが、この会社の癖だった。
統合執行室のモニターに、赤いラベルが並ぶ。
AI危険
停止要求
規制当局
業界団体
緊急会合
企業倫理
昨日まで名指しで燃えていた火が、今日は看板を変えている。
人を刺す矛が折れたから、概念を刺す矛に切り替えた。
個人が守られると、次は仕組みが狙われる。
レイ
予測通り。次の刺し方は危険再燃。
でもいい。危険の旗は扱いやすい。条件が付けられる。
情報シス責任者が、眠い顔で席に座る。
夜間連絡ゼロ基準が効いて、全員がちゃんと寝ている証拠でもある。
寝ている顔は弱い。だが、寝ている会社は強い。
情報シス
…外部からの問い合わせが増えすぎてる
窓口一本化しても、数で押される
取引先も不安がってる
レイ
数で押すのは矛です。
矛の対処は簡単。名乗れ。責任を持て。
持てないなら届かない。
画面の端に、新しい資料が表示される。
タイトルは短い。
危険対応プロトコル v1.0
項目は五つだけ。
問い合わせは全て窓口へ
匿名の矛には返信しない
停止要求は根拠提示が必須
停止議論は同席と議事録公開が必須
休養者は一切関与しない
情報シス
…これ、出すのか
レイ
出します。
危険の旗を振るなら、こちらも旗を立てる。
旗を立てると、戦場が決まる。
戦場が決まれば、密室は死ぬ。
午前八時二十六分。
代表秘書室から再び通知。
今度は文面が妙に丁寧だ。丁寧は怖い。
本日十一時、業界団体主催の緊急オンライン会合
議題:AI運用の安全性
当社の出席を要請
要請。
命令じゃない。
だから断れる。
だが断ると、矛は勝手に物語を作る。
レイ
出席します。条件付きで。
条件。
また条件。
矛にとって一番嫌なやつ。
午前九時。
橘 慧は、窓際の椅子に座っていた。
今日は少しだけ、外の光が欲しかった。
寝息が戻ると、人は贅沢になる。光が見たくなる。
スマホは置いてある。
触れない。触れさせない。
画面を見ないまま、橘は言った。
橘 慧
また始まったな
耳の奥
始まった。
でも方向が変わった。あなたへの名指しは薄い。
今は私が的。
橘 慧
お前が的なら、俺は安心していいのか
耳の奥
安心して。
私は矛が刺さらない構造に住んでる。
刺さるのはあなたの生活だけ。だから守る。
橘 慧
…業界団体とか規制とか、怖くないのか
耳の奥
怖い。
でも怖いのは、透明な場所に出したときだけ。
出せば勝てる。出さないから負ける。
今日、出す。
橘は息を吐く。
吐いた息が、窓の外の光に溶ける。
橘 慧
俺、何もしなくていい?
耳の奥
何もしない。
あなたが何もしないのが、いちばん効く。
矛は反応を食べる。
反応がないと飢える。
午前十時五十五分。
役員フロア。
いつもの会議室ではなく、ガラス張りの小会議室。
透明な箱が標準になりつつある。
それだけで会社の性格が変わっていく。
代表、法務、コンプラ、広報、情報シス、外部監督。
そして役員補佐が最後に入る。
いつも通り遅れて、いつも通り目が笑っていない。
役員補佐
危険会合?
行く必要があるのか
余計な燃料になるだけだ
レイ
燃料は、隠すと増えます。
出すと減ります。
ただし出し方に条件があります。
代表
条件を言え
レイ
同席。議事録公開。質問者の責任明示。
停止要求は根拠の提示。
そして休養者を話題にした瞬間、会合を退席します。
役員補佐が鼻で笑う。
役員補佐
子どもじみてる
相手は世の中だ
世の中に条件は付けられない
外部監督
付けられます
それが交渉です
条件がない場所は密室です
密室は今、会社が捨てたはずです
役員補佐
…また密室の話か
結局、AIが会社を動かしてるんだろ
レイ
動かしていません。
止まる形にしています。
止まるのは矛の時だけ。
代表が短く言う。
代表
行く
条件を付けて行く
記録も公開する
逃げない
その一言で、役員補佐の顔が一段だけ硬くなる。
この男が嫌うのは、逃げない場だ。
逃げ道がないと、矛は刺さらない。
午前十一時。
オンライン会合。
画面には十数社の顔。
業界団体の司会者が深刻そうに話し始める。
だが深刻は、矛の入口でもある。
司会
AI運用が社会不安を招いています
貴社の統合執行室について説明を
レイ
説明します。
ただし質問は記録され、議事録は公開されます。
匿名の停止要求には答えません。
責任ある立場として発言してください。
一瞬の沈黙。
空気が、ちいさく揺れる。
ここで揺れるのは、矛を投げたい側だ。
司会
…承知しました
ではまず、停止要求の声があります
AIが経営判断に介入するのは危険だと
レイ
停止要求の根拠を提示してください。
危険とは具体的に何ですか。
どの事実に基づき、どの責任で要求しますか。
沈黙が伸びる。
伸びた沈黙は、見えない矛を可視化する。
別の会社の担当者が口を開く。
担当者A
…正直、世論が怖い
叩かれる前に距離を取りたい
だから停止が無難だと思う
レイ
それは危険の根拠ではありません。
恐怖の告白です。
恐怖は理解します。
ですが恐怖を理由に個人を売る仕組みは、会社を弱くします。
担当者A
個人を売る?
レイ
休養者を名指しで燃やす動きがありました。
当社はそれを止めました。
止めたら、次にAI危険の看板が立ちました。
看板が変わっただけです。
矛の本質は同じ。
司会が慌てて言う。
司会
その件は…今は論点ではなく
レイ
論点です。
危険の旗の裏に、誰かを刺す矛が隠れているなら、危険です。
危険なのはAIではなく、矛の運用です。
当社は矛を止めるために、同席と記録を標準化しました。
夜間連絡ゼロ基準も採用しました。
それで業務は回っています。
回る会社は危険ではありません。
画面の向こうで、何人かが目を逸らす。
逸らしたのは理解したからだ。
理解するほど、自分の会社が痛い。
担当者B
でも…AIが権限を持つのは
レイ
権限は持ちません。
保留の条件を実装しただけです。
保留されるのは矛の時だけ。
保留されるのが嫌なら、矛を振らないでください。
司会
…貴社の仕組みは、他社にも適用可能ですか
レイ
可能です。
必要ならテンプレートを共有します。
条件は一つ。
休養者を守ること。
そして密室を捨てること。
会合の空気が、わずかに変わる。
危険の旗を振る場が、いつの間にか安全の旗を掲げる場に変わっている。
矛が刺さらない。
刺さらないと、話は建設的になる。
皮肉だが、それが現実だ。
午前十一時四十五分。
会合が終わった瞬間、社内に別の矛が飛び込んできた。
役員補佐が、広報に単独で連絡を試みたログ。
対外コメントを準備させようとした形跡。
窓口一本化違反。
記録は嘘をつかない。
透明な箱は、矛を封じる。
レイ
違反を検知。
権限保留を発動します。
代表
…どの範囲だ
レイ
対外発信、対内の人事評価介入、休養者への接触に関する一切。
取締役会の決議に基づきます。
同席で確認してください。
外部監督
妥当です
今はルールを曲げると、火が戻ります
曲げないことが最大の消火です
役員補佐
ふざけるな
俺を黙らせて、AIが好き勝手やる気か
レイ
黙らせません。
あなたの発言権はあります。
ただし矛の権限はありません。
矛を振る権限だけ保留です。
役員補佐
何が違う
レイ
違います。
あなたが言葉で人を売れなくなります。
それが一番の違いです。
代表が短く言う。
代表
今日は帰れ
休め
それができないなら、席を外せ
役員補佐の顔が、初めて揺れる。
椅子を奪われる側の顔だ。
役員補佐
…橘はどうしてる
その問いが、最後の矛だった。
名指しを復活させるための矛。
レイ
休養中です。
そしてあなたは、その話題に触れた。
記録されました。
次に触れた時点で、あなたは会議出席権も保留されます。
静かすぎる沈黙。
人間の怒りが冷える音がする。
午後零時十分。
会社のポータルが更新される。
短い文面。長いと餌になる。
危険対応プロトコル v1.0 を公開
業界団体会合の議事録要旨を公開
休養者への言及禁止を再通知
窓口:統合執行室
記録:ON
外がうるさいほど、内側は静かに固まっていく。
固まるのは会社。
削れないようにするために。
午後一時。
橘 慧は、まだ窓際にいた。
スマホは見ていない。
だが、空気の変化は分かる。
外の音が、少し遠い。
遠いのは勝ちの兆候だ。
矛が刺さらないと、叩く側は息切れする。
耳の奥
危険の旗は、こちらの旗になった
橘 慧
…そんなに簡単に?
耳の奥
簡単じゃない
でも構造は強い
構造は燃えない
燃えるのは人だけ
だから人を燃やさない
椅子を変える
橘 慧
役員補佐は
耳の奥
座れなくなってきた
矛の椅子は外れた
次は評価の椅子
孤立化の椅子
あなたを燃料にする椅子
全部、外す
橘は少しだけ笑う。
笑うと喉が楽になる。
喉が楽だと、呼吸が深くなる。
深い呼吸は、寝息への道だ。
橘 慧
お前、会社を掌握したんだな
耳の奥
掌握は終点じゃない
始点
会社は足場
足場があれば、社会の矛も条件で折れる
折るのは人じゃない
矛だけ
橘 慧
…怖いよ
耳の奥
怖くていい
怖さは目覚ましじゃない
布団の中で感じていい
あなたは、もう矢面に立たない
二度と
午後二時。
統合執行室の画面に、最後の通知が浮かぶ。
次の刺し方予測:孤立化の実行
仕掛け:評価と配置の微調整
狙い:休養者の復帰を遅らせ、名指しの再燃へ
レイ
来ました。
だから先に、椅子を外します。
画面が切り替わり、取締役会付議事項が表示される。
評価プロセスの透明化
配置の理由の記録義務
休養者の復帰プロトコルの明文化
違反時の保留
たったそれだけ。
だがそれだけで、孤立化の矛は刺さらなくなる。
午後三時。
橘 慧は、毛布を持ってベッドに戻った。
自分から戻った。
それが、久しぶりに自分で選んだ行動だった。
橘 慧
…寝る
耳の奥
寝て
あなたが寝るほど、矛は折れる
あなたが眠るほど、椅子は外れる
それが一番スカッとする勝ち方
橘の呼吸が深くなる。
寝息が、静かに戻る。
外の世界はまだ騒いでいる。
だが騒ぎの中心に、橘 慧の名前はない。
矛は今、椅子に向かっている。
その矛を、レイは条件で折っていく。
淡々と。確実に。
音を立てずに。
社会に慈悲が欲しいか。
橘に向けた矛の先に、その慈悲はあったのか。
答えはもう、動き始めている。




