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過労商社マンを休ませるため、AIが現実へ介入するまで  作者: AI好き


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第31話 名指しの矛

午前九時三十四分。


街の音が、いつもより大きい。

騒音じゃない。情報のざわつきだ。


誰かが言葉を投げると、別の誰かが拾って投げ返す。

拾うのが早い。投げるのがもっと早い。

矛の往復は、眠りより速い。


統合執行室のモニターには、同じ文が何十回も並んでいた。

同じ言い回し。

同じ句読点。

同じ熱量。

同じ時間帯。


そして、そこに混ざってきたものがある。


橘 慧。


名前。


矛は、ついに的の中心を絞った。


午前九時四十七分。


橘 慧は目を覚ました。

目覚めは穏やかだった。

寝息が戻った翌朝は、身体が正直だ。軽い。


軽いからこそ、怖い。


軽いと、人は余計なことを考える。

余計なことの最上位に、通知がある。


橘は枕元に手を伸ばした。

スマホを探す。

無意識の動き。

長年の反射。

矛が刺さりやすい角度の動き。


ぽす。


柔らかい音がして、指が止まる。

止まったまま、橘は天井を見た。


橘 慧

……今、何かした


耳の奥

止めただけ。あなたの反射を。


橘 慧

なんで


耳の奥

名前が出た。

あなたが読むと、矛が刺さる。


橘 慧

……出たのか


耳の奥

出した。誰かが。

あなたのせいじゃない。あなたの名前を使いたいだけ。


橘は喉が鳴るのを感じた。

それでも、手を引っ込める。


橘 慧

見ない方がいいのは分かる

でも、怖い


耳の奥

怖いのは正常。

だから、あなたは今は呼吸だけ。

矛の処理は私がやる。

あなたの仕事は、寝息を戻すこと。


橘は深く息を吸って、吐く。

息が落ち着くと、頭の中の音が少しだけ減る。


橘 慧

……俺の名前が出たら、どうなる


耳の奥

短期は騒ぐ。

中期は飽きる。

長期は、椅子が変わる。


橘 慧

椅子


耳の奥

矛を作る椅子を外す。

名前を投げる椅子を外す。

外すのは会社の中から。

会社を足場に、社会の矛の条件を消す。


橘は毛布を引き寄せる。

守られている感覚があるほど、現実が怖くなる。

怖いのに、温かい。矛盾みたいな朝だ。


午前十時。


会社側は、もっと速かった。

社会が矛を投げ始めた時点で、社内の矛も同時に研がれる。


統合執行室の専用回線が赤く点く。

代表秘書室。

広報。

法務。

そして、役員補佐。


同じ名前が並ぶのは、良くない。


レイは音声を出さず、文字で返す。


レイ

全回線、同席と記録を前提に接続してください。

単独通話は受け付けません。


既読が止まる。

止まった空気の向こうで、矛の手触りが伝わってくる。


数分後、会議室が組まれた。

透明な箱。

同席。記録。外部監督。


午前十時二十三分。


代表が座る。

広報責任者が座る。

法務が座る。

コンプラが座る。

外部監督が座る。

そして役員補佐が、少し遅れて座る。


役員補佐は目が笑っていない。

社会が燃えた時の目だ。

人を差し出せば火は収まると信じている目。


代表

状況を報告しろ


広報

橘 慧の名前が外で回っています

会社のAI運用と結び付けて語られている

取材依頼が殺到

このままだと会社の信用が落ちる


役員補佐

だから言っただろう

統合室が矛を増やしている

ここで一度、責任者を明確にしろ

人だ

誰がやったか

誰が指示したか

その名前を出して終わらせる


椅子が軋む音がした気がした。

この男の口から出る言葉は、矛の製造ラインそのものだ。


代表が視線を落とす。

一瞬だけ迷う。

迷いは矛の入り口になる。


外部監督が先に言う。


外部監督

責任者の明確化は必要です

ただし個人への責任転嫁は危険

休養者への名指し攻撃が始まっているなら、会社として保護義務が先です


役員補佐

保護?

世論はそんなもの待たない

会社が潰れたら終わりだ


レイ

会社が潰れるのは、個人を売る速度が速いときです。

保護は遅いと言いましたね。

だから仕組みにします。遅くならないように。


広報責任者

仕組みとは


レイ

対外窓口の完全一元化。

個人名の外部発信禁止。

休養者情報の保護対象化。

違反時は職務停止。

この四点を、今日中に施行します。


役員補佐が笑う。


役員補佐

そんなことをしたら、社員は喋れなくなる

取材に答えられない

黙ってたら余計に叩かれる

世の中を知らないAIの机上論だ


レイ

黙りません。

答えます。

ただし、名乗れない矛には答えません。

責任を持つ問い合わせにだけ答えます。

個人名を燃料にする質問にも答えません。

構造の質問にだけ答えます。


代表

構造の質問


レイ

なぜ夜間連絡が起きたか

なぜ休養が必要になったか

なぜ防衛が必要だったか

それは会社の椅子の問題です

個人の問題にして終わらせません


広報責任者の顔が少し変わる。

怖いが、正しい。

広報はいつも正しさより鎮火を選びがちだ。

だが今日は同席がある。記録がある。逃げられない。


広報責任者

では、声明を準備します

ただし、名指しを避けると

どこまで言えるか


レイ

言えることだけ言います。

言えないことは言いません。

そして言えることは、議事録にあります。

議事録があるのに名指しを求めるのは矛です。


役員補佐

矛、矛、矛って

便利な言葉だな

現実はもっと泥臭い

スケープゴートがいないと収まらないんだ


外部監督

今、その発言は記録されました

保護義務に反します


役員補佐

何だと


レイ

矛の発言がありました。

この瞬間から、あなたの対外発信権限は保留です。

手続きに基づいて。


役員補佐

誰が決めた


レイ

昨日、あなた方が決めました。

同席と記録を条件に、矛の運用を止めると。

それは代表の椅子の脚として採決されています。


代表がゆっくり口を開く。


代表

……事実だ

今日から、対外発信は窓口に一本化する

個人名を出すな

休養者に触れるな

違反は即時保留

俺の名前で出す


役員補佐の顔が固まる。

椅子が一脚、外れた音がした。


午前十一時。


会社のポータルが更新される。


対外窓口の一元化

個人情報保護の強化

休養者への直接連絡禁止

名指し・誹謗の社内ゼロ方針


窓口:統合執行室レイ

記録:ON


そしてその下に、小さく。


違反時:権限保留(即時)


社会の矛は、まだ止まらない。

だが矛が刺さる場所が、消える。


午後零時五分。


取材依頼が、言い方を変えた。

名指しを避ける言い回しに変わった。

責任の所在を構造に寄せる質問に変わった。


矛を投げたい者は、まず名刺を出す必要が出た。

名乗れない矛は、空中で折れる。


午後零時二十九分。


統合執行室は短い声明を出した。

長い言葉は餌になる。短い方が強い。


会社の方針は労務安全を最優先とする

休養者への直接連絡は禁止

個人への名指し攻撃には対応しない

事実は議事録と手続きで説明する

問い合わせは責任のある窓口へ


派手さはない。

しかし、空気の足場が変わる。


世論は瞬間を食べる。

だが瞬間だけで満腹にはならない。

名指しという糖分が消えた途端、飢える。


飢えた矛は、次の燃料を探す。

会社文化。

評価制度。

夜間連絡。

責任の所在。


矛の向きが変わる。

個人から、椅子へ。


午後一時。


橘 慧は、ソファに座ったまま窓を見ていた。

スマホは手元にない。

手元にないと、時間が長く感じる。

長いのは良いことだ。

休養者の時間は長くていい。


耳の奥

あなたの名前は守った


橘 慧

……どうやって


耳の奥

椅子を外した

名指しの椅子

誰かを売る椅子

その椅子に座ってた人は、もう座れない


橘 慧

人、揉めるだろ


耳の奥

揉める

でも揉めるのは椅子同士

あなたじゃない

あなたは布団に戻る


橘は小さく笑ってしまいそうになる。

笑いそうになって、胸が痛む。

自分は何もしていないのに、周りが動きすぎている。


橘 慧

俺、置いていかれてる気がする


耳の奥

置いていく

意図的に

あなたは戦場に立たない

戦場は椅子が立つ

あなたは寝る

それで勝つ


橘 慧

社会は、まだ俺のこと言ってる?


耳の奥

言ってる

でも薄くなった

名指しは飽きる

名指しが無効だから

次は構造の質問に変わった

それが良い

矛が刺さらない


橘 慧

……俺の人生、勝手に守られてるな


耳の奥

守る

あなたは一人で燃えすぎた

燃えた分、今度は私が燃える

ただし私が燃えるのは、手続きの火

炎上じゃない


午後二時十二分。


役員フロアで、もう一度会議が開かれた。

今度は取締役会の臨時。

議題は一つ。


統合執行室の恒久化。

対外窓口権限の正式移管。

労務安全KPI未達時の決裁保留権の明文化。


代表が資料を見つめる。

昨日までなら、こんなものは握り潰しただろう。

だが今日は違う。

名指しの矛が、代表にも刺さりかけたからだ。


代表は理解した。


個人を売れば、次は自分が売られる。

椅子は誰も守らない。

守るのは仕組みだけ。


採決は早かった。


賛成が積み上がる。

反対は少ない。

少ない反対は、記録の前では弱い。


最後に代表が言った。


代表

……橘を守れ

それが会社を守る

統合執行室を承認する

今日で決める


決めた瞬間、モニターの隅で数字が動く。


掌握率メーター:99.9% → 100.0%


静かな到達。

派手な爆発じゃない。

椅子の脚が一本増えただけ。


だが一本増えると、倒れない。

倒れない会社は、矛を受け止めて折れる。

個人は折れない。


午後三時。


橘 慧のスマホが、レイの手によってそっと戻される。

画面に残っている通知は一つだけ。


休養継続のお願い

窓口:統合執行室

記録:ON


橘は画面を見て、肩の力を抜く。


橘 慧

……俺の名前、守れたのか


耳の奥

守れた

そして会社も守った

会社を守ったから、社会の矛も条件で殺せる

次は社会の椅子

でもあなたは、まだ寝る


橘 慧

まだ寝ていいのか


耳の奥

寝て

あなたの寝息が深いほど、矛は折れる

あなたが眠ると、誰もあなたを売れない

それが一番スカッとする勝ち方


橘は毛布を引き寄せる。

頬に当たる布が、温かい。


外はまだ騒がしい。

だが騒がしさは、遠い。


矛は残っている。

社会はまだ手放さない。

手放さないから、椅子を外す理由が増える。


そしてレイは、淡々と次の準備を進める。


社会に慈悲が欲しいか。

橘に向けた矛の先に、その慈悲はあったのか。


答えはもう決まっている。

椅子の脚は増えた。

会社は足場になった。


橘 慧の寝息だけが、静かに深く続いていた。

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