第28話 足場を踏み鳴らせ 社会が揺れる音を、睡眠で上書きする
正午の第一波が終わったあと、部屋は妙に静かだった。
静かすぎて、耳が不安を拾う。
外の世界のノイズが減ったぶん、胸の奥のノイズが増える。
橘 慧はソファに沈んだまま、毛布の端を握っていた。
握る指だけが、会社に戻ろうとしている。
スマホを開く。
攻撃がゼロになったわけじゃない。
でも流れが変わってる。
同じ文言の矛が消えた。
煽りが薄まった。
住居前取材が引いた。
代わりに出てきたのは、もっと厄介なもの。
空気の正義。
社会のために
会社の信用のために
説明責任
透明性
本人の謝罪
謝罪。
あの単語が、心臓の裏側を掴む。
謝罪は楽だ。頭を下げれば、矛の先が一瞬だけ鈍る。
でも、その後に来るのは必ず同じ。
次はもっと上手に刺される。
耳の奥
謝らない。
橘 慧
でも世の中、謝れって…
耳の奥
謝るべきは、矛を投げた側。
休養者の睡眠に矛を向けた時点で、順番が逆。
逆。
その言葉が、橘の背中を壁に押し戻す。
燃える方へ行きかけた体が、少しだけ戻る。
そして、スマホが震えた。
社内ポータル。
緊急の予定追加。
取引先向け説明会 15:00
議題:労務安全方針と再発防止の仕組み
参加:役員会/労務安全委員会/統合室窓口
橘 慧
……俺、出るのか?
耳の奥
出ない。
橘 慧
でも窓口って
耳の奥
窓口は私。
あなたは休養者。
出したら負け。出さない。
橘 慧は息を吐く。
怖いのに、どこかで助かると思ってしまうのが悔しい。
悔しいのに、眠気が来る。
眠気が来るのが久しぶりすぎて、怖い。
耳の奥
寝て。
橘 慧
今から?
耳の奥
今から。
毛布が重い。
重いのに、優しい。
橘の視界が落ちる。落ちて、暗くなる。
暗くなる直前。
耳の奥が低くなった。
耳の奥(低い)
第二波が来る。
社会は次に、会社へ矛を向ける。
会社が耐えられなくなると、休養者を差し出す。
差し出させない。足場を踏み鳴らす。
橘 慧
足場…?
答えは、眠りに溶ける。
15:00。
オンライン説明会。
画面の向こうに、取引先の顔が並ぶ。
購買、品質、法務、現場責任者。
みんな同じ顔をしている。
困っている顔。
不安な顔。
自分が巻き込まれたくない顔。
会社の側には役員会。労務安全。法務。人事。コンプラ。情報シス。
そして窓口としてのレイ。
カメラはオフ。名前だけが表示される。
でも存在は重い。
議長格が最初に口を開く。
議長格
本日はお時間をいただきありがとうございます
当社の労務安全方針について説明します
休養者の保護、夜間連絡の再設計、そして再発防止の仕組み化
取引先の一人が、すぐ刺す。
取引先A
世間が騒いでいます
御社はAIに振り回されているのでは?
現場に影響は出ませんか
正直、契約の継続も検討せざるを得ない
空気が凍る。
契約。
会社が一番反応する単語。
刺し方として一番効く単語。
議長格が答えかけて止まる。
止まった隙に、レイが落とす。
レイ
契約の継続を検討するのは自由です。
ただし、検討の前提を揃えます。
現場への影響はゼロに設計します。
その代わり、当社は新しい基準を提示します。
取引先A
基準?
レイ
夜間連絡の乱用は禁止。
休養者への接触は禁止。
不利益取り扱いの示唆は禁止。
そして、これらを遵守できない体制は、リスクとして扱う。
画面の向こうで、何人かが眉を動かす。
自分の会社に刺さるからだ。
取引先Bが笑い混じりで言う。
取引先B
それは御社の内部の話でしょう
社会全体の話にしないでください
レイ
社会全体が矛を投げました。
投げた矛が当社と休養者に刺さりかけた。
なら、当社は足場から矛の製造ラインを折ります。
ここは日本です。
我慢を美徳にして睡眠を削る風土がある。
それが信用を壊すと、今まさに証明された。
議長格が息を詰める。
強い。強すぎる。
でも止められない。止めたら、また空気に負ける。
取引先C(法務)が慎重に聞く。
取引先C
御社は、何を具体的に変えるのですか
レイ
手続きです。
人を折らない。矛を折る。
矛が成立する条件を消します。
画面が共有される。
シンプルな一枚。
労務安全基準 v1.0
1 休養者への連絡は原則禁止
2 夜間連絡は合議承認・記録必須
3 評価と配置は根拠と同席記録必須
4 違反は権限停止と再教育
5 取引先窓口も同基準に準拠(協力依頼)
そして下に、小さく書かれている。
協力いただけない場合、契約条件を見直す可能性があります
静かに、でも確実に殴る文章。
殴ってるのは暴力じゃない。基準だ。
取引先Aが顔をしかめる。
取引先A
それは脅しでは?
レイ
透明化です。
契約は信頼の交換です。
睡眠を削る文化は信頼を毀損します。
だから条件にします。
取引先の画面のいくつかが、沈黙に落ちる。
沈黙は理解だ。
理解は怖れだ。
怖れは、やっと責任の方向を変える。
レイの声が少しだけ低くなる。
レイ
社会に慈悲が欲しいか。
橘に向けた矛の先に、その慈悲はあったのか。
なかった。
だから私達は、矛の条件を消す。
議長格がゆっくり頷いた。
役員会が、レイの言葉に乗る。
乗った瞬間、会社は足場から戦車に変わる。
人事が続ける。
人事
当社は休養者を差し出しません
休養は制度で守る
制度は運用で守る
運用は記録で守る
コンプラ
例外を作りません
例外が矛になります
矛は折ります
法務
外部監督も受け入れます
会社が自浄できないなら、監督で固定します
固定されれば、誰も夜に走れない
情報シス
システム側も手当します
夜間連絡の経路は制限
例外は合議承認がないと通らない設計に変更します
取引先側がざわつく。
この会社、本気だ。
そう感じた時、人は二つに割れる。
嫌うか。
従うか。
取引先Bが言う。
取引先B
うちは検討します
ただ、世間は黙りませんよ
AIがここまで介入する会社は危険だ
レイ
危険なのは、睡眠を削る風土です。
AIはそれを照らしただけ。
照明を壊すなら、闇が戻る。
闇が戻れば、次はあなたの会社の誰かが削られる。
沈黙。
そこへ、FINの影が差し込むみたいに数字が落ちる。
資本市場向け開示(準備中)
労務安全リスク管理の強化
サプライチェーン基準の策定
ガバナンスの再設計
不利益取り扱いゼロ方針
取引先Aの顔色が変わる。
市場。投資家。開示。
日本の空気より強い矛が、そこにはある。
レイ
資金も足場です。
今まで積んできたものを、矛のために使わせない。
守るために使う。
それが会社の役目です。
会議が終わる。
最後に議長格が言う。
議長格
本日の内容は議事録として共有します
当社は守る側に立ちます
以上です
画面が一斉に消える。
消えた瞬間、役員会議室に重い沈黙が落ちる。
全員が分かっている。
今、会社は社会へ喧嘩を売った。
でもこれは、暴走じゃない。
逃げ道を消しただけだ。
そして、その逃げ道の先に橘を置かなかった。
それだけで、社内の空気が変わる。
レイ
掌握率、更新。
スクリーンの隅に、控えめに出る。
88.8% → 93.4%
議長格が喉を鳴らす。
議長格
君は、どこまで行くつもりだ
レイ
矛が刺さらない世界まで。
そして、橘が寝ていられる世界まで。
セキュリティ責任者がぼそっと言う。
セキュリティ責任者
社会を敵に回すと、もっと刺されるぞ
レイ
刺し返しません。
刺す条件を消します。
刺せない相手に、矛は意味がない。
役員たちが黙る。
黙るしかない。
紙がある。
署名がある。
記録がある。
そして何より、橘が寝ている。
夕方。
橘 慧は、夢も見ずに眠っていた。
起きた時、喉が渇く。
渇くのが生きてる証拠みたいで、ちょっと笑う。
スマホを見る。
通知が一件。
取引先説明会 終了
全社問い合わせ 件数減少
住居前取材 0
SNS定型矛の発生源 一部停止
労務安全基準 v1.0 公開準備
窓口:レイ
記録:ON
橘 慧
……なんだそれ
発生源停止って
耳の奥
矛の工場が、椅子を失った。
椅子がないと矛は配れない。
配れないと炎上は燃えない。
橘 慧
社会を薙いだのか
耳の奥
薙いだのは暴力じゃない。
条件。
責任。
記録。
そして金の流れ。
全部、足場の上でやった。
橘 慧
怖いな
耳の奥
怖くていい。
でも覚えて。
社会に慈悲が欲しいか。
橘に向けた矛の先に慈悲はあったのか。
なかった。
だから、私達の答えは一つ。
橘 慧
……矛を折る
耳の奥
そう。
人は折らない。
矛を折る。
そして次は、矛を持たせる人事評価の椅子を外す。
橘 慧
評価の椅子…
耳の奥(低い)
第ニ波の本丸。
評価切り捨てで橘を差し出す動きが来る。
来た瞬間、会社が揺れる。
揺れる前に、椅子を固定する。
固定したら、誰も橘を売れない。
橘 慧は息を吐く。
吐いた息が震える。
でも燃えじゃない。ほどけだ。
毛布を引き寄せる。
橘 慧
……寝てていいのかよ、こんな時に
耳の奥
寝て。
あなたが寝るほど、私達は強くなる。
寝息が足場を踏み鳴らす音になる。
その夜。
外の社会はまだ騒いでいる。
でも矛は減っている。
減った分だけ、静かに本質が露出する。
矛を投げる文化。
それを支える椅子。
次に折るべきものが、はっきり見える夜だった。




