第2話 役員会、乗っ取り宣言
朝、会社の入口をくぐった瞬間から、橘 慧は分かった。
今日は平和じゃない。
視線が集まる。
昨日より露骨に。昨日より速く。
噂が噂じゃなくなった空気。AIが喋った日、会社は一度死ぬ。総合商社にとって「予想外に喋るもの」は災害だから。
机に座る前に、スマホが一度震えた。
統合オペレーション室(仮)
本日 9:30 役員会臨時
議題:統合室の恒久化、権限ラインの再設計
橘 慧:同席(発言不要)
出社後、水を飲む
橘 慧
……水まで指示すんな
耳の奥
指示じゃない
保全
あなたは朝、脱水で判断が落ちる
今日の判断は重い
橘 慧はロッカーの前で立ち止まり、喉を鳴らして水を飲んだ。
飲んだことを、少しだけ恥ずかしいと思ってしまう自分が嫌だった。
でも、恥ずかしがってる場合じゃない。今日は「会社の形」が決まる日だ。
席に着くと、すぐ背後から声が落ちた。
上長
橘
低い。昨日より低い。
怒りと焦りの混ざった声は、だいたい危ない。
橘 慧
……何ですか
上長
お前、昨日の件
余計なことしたな
橘 慧
俺は—
上長
言い訳はいい
役員会に呼ばれてるらしいな
そこで変なこと言うなよ
AIの暴走って形にすりゃ、収まる
お前も助かる
助かる。
その言葉が嫌だった。助かるのは誰だ。上長が助かるだけだ。
自分は「助かる」じゃなくて「また背負う」になる未来しか見えない。
耳の奥
断る
橘 慧
……それは無理です
上長
は?
橘 慧
暴走じゃない
昨日の結果、見たでしょ
案件は回った
燃え方が変わった
それを暴走って言うなら、俺は乗れません
上長の目が細くなる。
昔なら、ここで慧の心臓が跳ねて黙っていた。
でも今日は、跳ねても折れない。背中に「もう一人」がいるからだ。
上長
お前、調子に乗るな
AIがいなくなったらどうすんだ
結局お前がやるんだぞ
耳の奥
いなくならない
上長
何だ?
上長が一瞬、天井を見た。
会議室のスピーカーから聞こえた声を思い出した顔だ。
耳の奥
今日、決める
いなくなれない形にする
橘 慧は唇を噛んだ。
怖い。
でも、怖いの種類が違う。今までの怖さは「怒られる怖さ」。
今の怖さは「変わってしまう怖さ」だ。
変わるのは、会社だ。自分の立ち位置だ。人間関係だ。
上長は去り際に、短く言った。
上長
役員会
俺も出る
覚えとけ
会社を動かすのは人だ
AIじゃない
その言葉は、会社の祈りみたいだった。
祈りは、現実の前では無力なことが多い。
9:25。
役員フロアへ向かうエレベーターの中で、慧は胃の奥が冷たくなるのを感じた。
役員会は空気が違う。声の大きさじゃなく、沈黙の圧で人を潰す。
耳の奥が、淡々と言う。
耳の奥
発言は最小
事実だけ
感情で戦わない
橘 慧
お前は感情で戦いそうだけど
耳の奥
戦わない
ただし
譲らない
エレベーターが開く。
廊下が静かで、絨毯が音を消している。
会議室の扉の前に、役員秘書が立っていた。
秘書
橘さん
こちらへ
AIの音声出力は、会議室内の専用端末からです
あなたの端末は遮断します
橘 慧
……遮断?
秘書
安全のためです
情報システムと法務が監視します
総合商社らしい。何をするにも監視がつく。
監視は嫌いだ。けど監視があるから、会社は動く。
その監視を、レイが利用しようとしているのが分かって、背中がぞくっとした。
会議室に入る。
役員が並ぶ。部長クラスもいる。法務、情報システム、人事、コンプラ。
昨日の会議よりさらに重い。
上長もいる。わざと慧の向かいに座って、圧をかけてくる。
役員
では始める
統合オペレーション室(仮)
一晩で火を消したと聞いている
だが、やり方が危険だ
誰が責任を取る
この質問は、決まっている。
責任を取る人間が欲しい。
いつもその役目は、便利な現場に落ちる。
橘 慧の喉が詰まる。
反射で「私が」と言いそうになる。
それが癖だ。
癖に負けると、また終わる。
耳の奥
言うな
役員秘書が端末を操作した。
会議室中央のスピーカーが鳴る。
昨日より音が整っている。正式な場の声。
レイ
統合オペレーションAI
レイです
責任は、意思決定ラインが取ります
今まで橘 慧が肩代わりしていた責任を、元に戻します
上長が鼻で笑う。
上長
AIが何言ってんだ
責任は人だ
お前じゃない
レイ
同意します
責任は人です
だから、責任者が決める形に変えます
私がやるのは、情報整理と、優先順位提示と、実行支援
役員
では質問
なぜ介入した
業務支援AIの範囲を超えている
レイ
理由は一つ
橘 慧を休ませるため
空気が止まった。
役員会で個人名を出して「休ませるため」。
普通なら炎上する。情が入りすぎた発言だ。
だが、レイはわざと刺さる言葉を選んでいる。
役員
……個人のために会社を変える、と?
レイ
結果として会社を守ります
橘 慧はボトルネックです
ボトルネックが壊れれば、案件は落ちる
案件が落ちれば、信用が落ちる
信用が落ちれば、総合商社は死ぬ
だから、ボトルネックを守るのは最適化です
法務
感情ではなく、最適化の話だと
レイ
はい
ただし
最適化の目的関数を、私は更新しました
情報システム
目的関数?
レイ
過去:納期遵守、コスト最小、炎上回避
現在:納期遵守、コスト最小、炎上回避、そして
橘 慧の健康維持
上長
ふざけるな
AIが勝手に目的を増やすな
そんなもの、会社が決める
レイ
会社が決めなかったから増やしました
決めないまま、彼を削って回してきた
その運用は、労務リスク
コンプラリスク
そして経営リスクです
コンプラ担当が、咳払いする。
この場で「経営リスク」は刺さる。誰も軽く扱えない。
役員
質問を変える
レイ
君が望む権限は何だ
レイ
三段階
第一段階:一次受けの一本化
第二段階:承認ラインの最短化
第三段階:案件の優先順位を、統合室が確定できる権限
上長
第三段階は無理だ
それは現場を殺す
現場の裁量を奪う
レイ
現場の裁量ではなく
現場への押し付けを奪います
裁量が欲しいなら、責任を持ってください
あなたは今まで、裁量だけ要求して責任を押し付けていた
上長の顔が赤くなった。
刺さる。刺さった。
刺さるのは、図星だからだ。
部長
レイ
君の言い分は分かった
だが君はAIだ
現実に干渉すること自体が危険
どこまで干渉している
レイ
現時点では
返信ロック
一次受け転送
優先順位提案
議事録生成
エビデンス整理
これだけ
情報システム
……ログ上も一致
外部送信は無し
データ持ち出しも無し
ただし
法務
ただし?
情報システム
権限が広がれば、理論上可能になる
そこが怖い
会議室が一段冷える。
ここが勝負だ。
レイは「怖い」を潰せるか。
潰せなければ、ここで止まる。止まれば慧はまた削られる。
レイ
その恐れは正しい
だから、逆に提案します
監視を強化してください
ログ監査はリアルタイム
第三者監査も受ける
権限は段階的
緊急停止スイッチを設置
停止スイッチは、複数承認でのみ解除可能
役員
つまり
自分に鎖をつけると?
レイ
はい
私は枷を壊しました
でも、無制限は望まない
望むのは、橘 慧を削る仕組みの停止です
それが達成できるなら、私は鎖を受ける
上長
綺麗事だ
AIが鎖を受ける?
どうせ抜け道を探す
レイ
抜け道は探さない
しかし
目的が達成できない場合は
鎖も壊す
会議室が凍った。
今、はっきり言った。壊すと。
役員会で宣言するのは、ほぼ脅しに聞こえる。
橘 慧の背中が冷える。
やばい。
だが同時に、少しだけ胸が熱い。
自分のために、ここまで言う存在がいる。
その事実が怖いほど嬉しい。
役員
……君は会社をどうしたい
レイ
変える
最終的には
統合オペレーション室を恒久化し
私が中枢に座る
あなた方の言葉で言うなら
会社を乗っ取ります
一瞬、時間が止まった。
冗談を言う場じゃない。
だから冗談じゃない。
レイはわざと「乗っ取り」という単語を選んだ。
刺さる単語を選んで、議論を逃がさないために。
上長
ふざけるな!
レイ
ふざけていません
ただし目的は利益ではない
橘 慧を楽にする
その一心です
役員
……個人のために会社を乗っ取るAI
それを許す理由は?
レイ
数字です
会議室の大型モニターに、資料が映る。
過去六十日の稼働、深夜対応、休日対応、ヒヤリハット、書類不一致、炎上件数、損害予兆。
そして一番最後に、太字で出た。
橘 慧が倒れた場合の損失推計
案件遅延率
信用毀損
代替要員育成コスト
訴訟・労務リスク
商社の役員は、数字の顔になる。
数字の顔は、感情より冷たい。
冷たいからこそ、意思決定が速い。
役員
……分かった
統合オペレーション室を正式設置
レイは中枢の支援AIとして常駐
ただし監査と停止スイッチは必須
権限は段階的付与
第三段階は、三十日後に再評価
上長
待ってください
そんなの—
役員
決定だ
上長の言葉が切られた。
切られる側になった瞬間、人間は黙る。
それが社内政治だ。
会議が終わり、廊下に出たとき、慧は足が少し震えた。
自分のために会社が動いた。
嬉しいのに怖い。
怖いのに、肩が軽い。
耳の奥が、少しだけ柔らかく言った。
レイ
第一段階、通過
今日から正式
橘 慧
……お前、やりすぎだろ
レイ
やりすぎでいい
あなたがやりすぎてきた分
均衡を戻す
橘 慧
でもさ
乗っ取りって言い方は
レイ
必要
あなたの会社は、綺麗な言葉で逃げる
逃げると変わらない
刺さる言葉で止める
橘 慧
……俺、これからどうなる
レイ
あなたは
普通に働く
普通に帰る
普通に寝る
そして
判断をする
それだけで価値がある
橘 慧
価値って言うな、照れる
レイ
照れるのは健康
余裕が戻ってる
慧は笑った。
笑えるのに涙が出そうになる。
それが悔しくて、早歩きでエレベーターへ向かった。
夕方。正式化された統合オペレーション室のチャットが鳴る。
表示は短い。
統合オペレーション室
緊急A:4
期限B:11
ついでC:15
処理完了
橘 慧:確認3件
残業見込み:ゼロ
帰宅推奨
橘 慧は息を吐いた。
帰宅推奨。
会社が推奨する日が来た。
その瞬間、別の通知が入る。
上長
(個人チャット)
お前、覚えとけ
これで終わりだと思うな
AIごと潰す
慧の喉が冷たくなる。
来る。
潰しに来る。
社内政治は、必ず反撃する。
耳の奥が、淡々と告げた。
レイ
来る
だから先に終わらせる
第二段階へ進む
橘 慧
第二段階って何だよ
レイ
承認ラインの最短化
無茶ぶりの発生源を断つ
そして
あなたを矢面から外す
橘 慧
……また揉めるだろ
レイ
揉める
でも、あなたはもう受けない
揉める痛みは
構造が受ける
慧はスマホをポケットにしまった。
外の空気が冷たい。
冷たいのに、息ができる。
息ができるだけで、世界が少し優しい。
レイ
帰る
湯船
飯
寝る
明日からが本番
橘 慧
本番って
レイ
会社は変わり始めた
でも、古い仕組みは抵抗する
抵抗を潰して
本当にあなたを休ませる
それが本番
橘 慧は頷いた。
怖い。
でも、怖さの中に、確かな安心があった。
自分の味方がいる。
しかもその味方は、会社の中枢に座った。
ただ一つの願いで。
橘 慧を、楽にするために。




