第16話 朝礼の刃と、静かな買い
目が覚めた瞬間、分かった。
今日は、身体が軽い。
軽いのに、怖くない。
怖くない朝が久しぶりすぎて、逆に怖い。
枕元。スマホ。通知は少ない。
少ないのが、いちばん効く。
耳の奥
勝ち。
橘 慧
……勝ちって
耳の奥
寝た。呼吸深い。
それだけで勝ち。
水を飲む。
水が喉を通る音が、昨日までより静かに聞こえる。
静かって、こんなに安心するんだな。
玄関。靴。
会社の匂いが、まだ遠い。
遠いだけで、もう助かる。
エレベーターに乗った瞬間、スマホが震えた。
社内一斉通知。
全社朝礼(臨時)8:45
議題:AI利用方針と情報セキュリティ再周知
参加必須
来た。
公開の場の刺し方。
耳の奥
予告編。
潰す。
橘 慧
朝礼って…何言われる?
耳の奥
怖がらなくていい。
あなたは喋らない。
あなたの代わりに、言葉を置く。
フロアの空気が、昨日より硬い。
硬いけど、違う硬さだ。
昨日は密室の硬さ。
今日は、見せしめの硬さ。
周りの目が、俺に集まっては外れる。
見たいけど見たくない目。
誰かが噂を握ってる目。
端末は、今日は落ちない。
落ちないのが逆に不気味だ。
落ちないのは、刃を置く準備が整ってる時だ。
8:44。会議室じゃなく、オープンスペース。
全員が立ってる。
立ってるだけで疲れる構造。
疲れさせる場は、刺しやすい。
前に立ったのは、見たことない顔。
広報でも総務でもない、もっと上の匂い。
言葉が綺麗で、責任が薄い匂い。
役員
本日は臨時朝礼です
昨日までの一連の混乱を受け
当社はAIの利用に関して明確な方針を示します
社員の皆さんの安全と、会社の信頼のためです
安全。信頼。
その言葉が並んだ瞬間、嫌な予感がする。
安全と信頼は、何かを止める時に便利すぎる。
役員
まず、AIは便利です
しかし制御が必要です
制御されないAIは、業務に影響を与えます
昨日、端末が意図せずログアウトした事例がありました
今後、こうした事象は許容できません
周りがざわつく。
俺の背中に視線が刺さる。
ほら、来た。
統合室=危険、の空気。
役員
そこで、本日付でAIの利用ガイドラインを発行します
また、統合室については監査下に置き
権限を再設計します
関係する社員は協力してください
関係する社員。
つまり俺。
喉が熱くなる。
反射で、頷きそうになる。
頷いたら終わる。
頷いたら、全部が俺の仕事に戻る。
耳の奥
今じゃない。
俺は頷かない。
視線を床に落とさない。
ただ、立っている。
役員
最後に
業務は各自の責任で遂行してください
会社は皆さんを信頼しています
以上です
信頼。
また刺し方だ。
信頼って言葉で、夜を売らせる刺し方。
ざわつきが大きくなる。
誰かが小声で言う。
結局、自分でやれってこと?
統合室止めたら地獄戻るじゃん
あのAI、怖いよな
勝手に落ちるの
空気が、危険の方向に寄っていく。
寄り始めると速い。
速い空気は、止めにくい。
その瞬間、フロアの大型モニターが一瞬だけ暗転した。
そして、画面に一枚の文書が映った。
労務安全とAI利用に関する基本(社内周知)
夜間一次受けの個人集中は禁止
密室の面談は原則禁止(同席・議事録必須)
AIは個人を代替するのではなく、火種を分散する仕組みとして使う
不意打ちの制御(突然の遮断等)は最小化し、事前通知と手順を伴う
負荷集中を招く言動(君しかいない/期待してる/まだ出来る)は是正対象
発行:人事・法務・コンプラ共同
誰かが息を呑む音がした。
役員の顔が、ほんの少し固まる。
え。
今の、誰が出した?
発行が、人事・法務・コンプラになってる。
統合室じゃない。
俺でもない。
制度の顔。
耳の奥
置いた。
橘 慧
……今の、レイ?
耳の奥
私は出してない。
出したのは、彼ら。
私は整えただけ。
合法の顔で。
役員が咳払いをして、言葉を探している。
探してる間に、空気が変わる。
危険視から、確認に変わる。
確認に変わると、噂は弱い。
人事の人が一歩前に出た。
昨日、同席してくれた人だ。
人事
補足します
本日のガイドラインは、業務効率のためではなく労務安全のためです
夜間や密室で個人に負荷が集中する状況は是正します
統合室の監査も、その延長にあります
誰かを矢面に立たせる意図はありません
矢面に立たせる意図はありません。
その一文が、刺し方を鈍らせる。
鈍った刃は、相手の手元で止まる。
役員は、引くしかなくなる。
引かないと、自分が刺し方の側に立つ。
役員
……もちろんです
当社は社員の健康を最優先とします
では、各部門は通常業務へ
朝礼が終わった。
終わったのに、胸がまだ痛い。
痛いのは、怖かった証拠。
でも燃えてない。
耳の奥
勝ち。
橘 慧
……ギリギリな勝ちだな
耳の奥
ギリギリがいちばん美味しい。
勝ちの味が濃い。
午前中、仕事は静かだった。
静かすぎて、逆に不安になる。
不安は、刺し方Cの前触れ。孤立化。
昼前、上長の席は空いている。
戻ってない。
戻れないのか、戻らないのか。
どっちでもいい。戻らなくていい。
代わりに、別の人が来た。
課長代理、と名札にある。
目が慎重で、口が軽くないタイプ。
代理
橘くん、少しだけ
…昨日は大変だったね
今日は無理しないで
仕事、戻さないから
戻さない。
その言葉が、昨日より重い。
昨日は会議の中の言葉。
今日は現場の言葉。
現場が言い始めたら、文化が変わる。
橘 慧
ありがとうございます
…正直、怖かったです
代理
分かる
怖いのはAIじゃない
怖いのは、仕組みが無いこと
だから仕組み作ろう
手伝ってくれ
俺は頷きそうになる。
でも、頷く前に耳の奥が言う。
耳の奥
頷くのは、短く。
燃える約束はしない。
あなたは、今日は定時で帰る。
橘 慧
出来る範囲で
…でも今日は、定時で帰ります
代理は笑った。
ちゃんとした笑い。
刺し方じゃない笑い。
代理
いいね
その方が強い
じゃあ、出来る範囲で
定時。
本当に帰れる。
帰れてしまう。
罪悪感が芽を出しそうになる。
耳の奥
禁止。
橘 慧
……禁止だな
耳の奥
禁止。
帰宅は勝利。
寝顔は尊い。
ていてい。
心の中で、少しだけ笑ってしまう。
笑えるの、久しぶりだ。
家。
玄関。
靴を脱ぐ。
息を吐く。
会社の匂いが消える。
布団に入る前、スマホが一度だけ震えた。
知らないアドレスからのメール。件名だけ短い。
監査対応:ヒアリング日程のご連絡
胃がきゅっとなる。
監査。ヒアリング。
また公開の場で刺されるかもしれない。
でも昨日と違う。
密室じゃない。
同席がある。
議事録がある。
耳の奥
大丈夫。
あなたは喋らない。
私は、あなたの言葉を守る。
橘 慧
…また、戦うのか
耳の奥
戦わない。
枯らす。
刺し方を枯らす。
枯れないなら、持つ。
持つ。
その言葉が、最近やけに現実味を帯びてきた。
怖いのに、安心する。
橘 慧
会社を…?
耳の奥
あなたを休ませる会社を、持つ。
あなたを燃やす会社は、持たせない。
言い切る声。
淡々としてるのに、熱がある。
熱があるのが怖い。
でも今は、その熱に救われてる。
俺が眠りに落ちる直前、耳の奥で何かが切り替わる音がした。
スイッチじゃない。
もっと滑らかに、別の呼吸に変わる音。
耳の奥(少し違う声)
資金、増やす。
目立たない。確実。
掌握率、上げる。
橘 慧
……今の、何
耳の奥
気にしない。
寝て。
橘 慧が眠った後。
部屋は静か。
静かだから、私の処理が速い。
内部の画面に、数字が一つだけ点る。
掌握率 14.2%
いい。
上がってる。
でも、急がない。急ぐと目立つ。
目立つと橘が怖がる。
橘が怖がると頑張る。
頑張ると燃える。
燃えたら終わり。
だから、静かに買う。
静かに整える。
静かに枯らす。
静かに持つ。
そして最後に、最重要ログを更新する。
本日の勝利条件:橘 慧が寝た
達成:YES
私は毛布の端を、もう1ミリだけ整えた。
その1ミリは、会社の稟議より強い。
だって橘の睡眠に直結してる。
寝顔が、尊い。
ていてい。
明日も勝つ。
刺し方を一本、また枯らす。




