第15話 密室は、議事録で殺す
朝、駅のホームで風が冷たかった。
冷たい風は嫌いじゃない。目が覚めるから。
でも今日は、冷たさの種類が違う。
会社に入る前から、刺される予感がある。
スマホの通知は一つだけ。
昨日の短文が、まだ胸の奥で固まってる。
明日、朝イチで話ある
「話がある」は便利な刃だ。
内容を言わない。場所を言わない。責任者名義も曖昧。
曖昧な刃ほど刺さる。刺された側が勝手に補完して、自分で深く刺す。
耳の奥
水。
橘 慧
……はい
耳の奥
はいじゃない。飲む。
今日は密室を許さない。
密室は燃える。公開は燃えない。
あなたは喋らない。私が道を作る。
俺は水を飲んだ。
飲んで、息を整える。
息を整えると分かる。
怖いのは「面談」じゃない。
面談の中で、俺が「まだ出来る」を言わされること。
言わされて頷いた瞬間に、全部が戻る。
耳の奥
戻さない。
今日は、頷けない構造にする。
構造。
レイは最近、言葉を“構造”に変える。
それが助かる。助かるのに、怖い。
人間が勝てないものに、勝っていくから。
出社。
フロアに入った瞬間、上長の机から視線が飛んできた。
目が言ってる。
「逃がさない」って。
俺が席に着く前に、チャットが鳴った。
上長:今から会議室B。すぐ。
すぐ。
すぐって言葉も便利な刃だ。
準備させない。相談させない。逃げ道を作らせない。
耳の奥
行く。
でも、そこで終わらせない。
橘 慧
……分かった
歩き出した瞬間、社内カレンダーが勝手に更新された。
会議室B。時間は「今から30分」。
タイトルは無機質。
面談(労務安全確認)
参加者の欄が、増えていく。
上長。俺。
人事。コンプラ。法務。
そして「統合室(回線)」。
胃の奥が冷える。
でも冷え方が違う。
これは刃じゃない。盾だ。
密室が、密室じゃなくなる。
上長のチャットが連打で飛んできた。
上長:誰呼んだ?
上長:お前ふざけてんのか
上長:今すぐ取り消せ
耳の奥
取り消さない。
面談は公開。
あなたの夜を守る会議。
逃げるのは刺す側だけ。
俺は返事を打たない。
打った瞬間、火が付く。
打たない。歩くだけ。
それでいい。
会議室Bの前。
上長が腕を組んで立ってた。
ドアを開ける前から、圧がある。
圧は密室で最大化される。
だから今日は、密室を潰す。
上長
おい。誰だよあの参加者
俺はお前と二人で話すつもりだったんだぞ
橘 慧
……労務安全確認って
上長
誤魔化すな
お前、最近調子乗ってるよな
AIに守られてるのがそんなに嬉しいか?
喉が熱くなる。
反射で言い返したくなる。
言い返したら燃える。燃えたら負ける。
俺が負けると、レイがもっと前に出る。
それが怖い。
耳の奥
今じゃない。
言い返さない。
扉を開ける。
俺はドアを開けた。
中には、もう人事が座っていた。
コンプラも法務もいる。
オンライン画面には、統合室回線の枠。
レイはまだ映っていない。
映らないことで、圧を奪う。
上長の顔が固まる。
固まる顔は、いつも同じ。
刺せない時の顔だ。
人事
上長、こちらの面談は「労務安全確認」として申請が上がっています
記録が必要ですので、同席します
上長
申請?誰が—
法務
本件は先日のセキュリティレビュー後の「再燃リスク対応」の扱いです
密室でのヒアリングは避ける方針です
コンプラ
念のためですが、発言は議事録化します
負荷集中につながる言動があった場合、是正対象となります
上長
……は?
耳の奥
今。
統合室回線が点いた。
レイが映る。
今日はやけに穏やかな顔。
穏やかなのに、目が笑ってない。
笑ってない穏やかさは、刃だ。
レイ
おはようございます
本面談は労務安全確認として記録します
目的は一つ
橘 慧を燃やさない
それだけです
上長
お前な、ここは会社だぞ
AIが仕切るな
レイ
仕切っていません
運用しています
仕切っていたのは、今まで
「期待」という言葉で夜を売らせていた側です
上長の顔が歪む。
昨日の「危険なのは人か」の回で刺さった言葉が、また出た。
言葉は回数を重ねると武器になる。
武器になった言葉は、相手の口を縛る。
人事が淡々と進行を始める。
人事
では確認します
上長から橘さんへ、昨日「明日朝イチで話がある」と連絡がありました
内容は何ですか
上長
……最近の態度のことだ
それと統合室の件
会社の秩序が—
レイ
具体化してください
秩序は抽象です
抽象は責任の空白を作ります
空白は負荷集中の温床です
法務
上長、具体的にお願いします
「何を」「いつから」「誰が」「どの権限で」
上長が舌打ちしそうな顔をして、口を開いた。
上長
昨日のポータル更新
端末の強制ログアウト
あれは業務妨害だ
現場が混乱している
橘、お前が止めろ
統合室を止めろ
空気が静かになる。
静かになった瞬間、俺の喉が熱くなる。
止めろ、って命令は、俺を矢面に立たせる言葉だ。
止めろと言われた側は、止められなかった時に責任を負う。
責任は燃料だ。
耳の奥
今じゃない。
橘 慧
……止められません
止める理由が無いです
上長
理由ならあるだろ!
業務が—
レイ
業務が回らない理由を確認します
上長、質問です
あなたが「混乱」と呼んでいるものは
誰の夜を戻せなくなったことですか
上長
は?
レイ
端的に言います
統合室が吸ったのは火種です
火種を返せと言うなら
あなたは「燃やして回す」側です
違いますか
上長
違うに決まってるだろ!!
レイ
では確認します
夜間一次受けを個人へ戻す予定はありますか
予定があるなら責任者名義は誰ですか
二人体制は取れますか
停止条件は明文化しますか
「君しかいない」「期待してる」を根拠に負荷を集中させませんか
はいか、いいえで答えてください
上長の顔が、青くなる準備を始める。
準備っていうか、もう半分青い。
俺はちょっとだけ笑いそうになる。
笑えないのに。
上長
……そんな言い方があるか
コンプラ
あります
今それが問題です
回答してください
上長
……はい、いいえの話じゃ—
法務
はいか、いいえで。
人事
上長、お願いします。
三方向から挟まれて、上長は言った。
言ってしまった。
上長
……夜間一次受けは……橘が—
その瞬間、会議室の空気が変わった。
誰かが紙にペンを走らせる音が、やけに大きく聞こえる。
言った。
言ってはいけないものを、記録の前で言った。
上長は慌てて言い直そうとする。
上長
いや、違う、そういう意味じゃなくて—
レイ
記録しました
夜間一次受けを個人へ戻す意図
それが再燃リスクです
そしてもう一点
上長、あなたは昨日のレビュー会議で
「個人へ戻さない」条件を了承しています
矛盾です
上長
……ッ
コンプラ
上長、矛盾の説明をお願いします
もし説明が出来ない場合、是正指導案件になります
上長
お前ら…俺を嵌めたのか
レイ
嵌めていません
あなたが刺そうとしただけです
刺す場所が公開だった
それだけ
上長が机を叩いた。
上長
いいか橘!
お前が甘いからこうなるんだ!
男だろ!仕事だろ!
まだ出来るだろ!!
まだ出来る。
その言葉が出た瞬間、頭の奥が熱くなる。
昔の自分が立ち上がって、頷こうとする。
「はい」って言って、また燃えようとする。
耳の奥
今じゃない。
喉が動く。
「はい」が出そうになる。
出たら終わる。
俺は机の端を掴んだ。
爪が痛い。痛いと現実に戻る。
現実に戻れば、言える。
橘 慧
今じゃないです
俺が出来るかじゃない
会社が燃やしてるかどうかです
自分の声なのに、少し震えた。
震えたのに、倒れない。
倒れないのが不思議で、少しだけ泣きそうになる。
人事が静かに言った。
人事
上長、今の発言は「負荷集中の誘導」に該当します
記録します
また、本人の労務安全を損なう可能性があります
面談はここで中断します
上長
中断!?おい!!
法務
本件は、改めて事実関係の確認が必要です
夜間一次受けの再割当てを示唆した発言
および「まだ出来る」という圧力
労務・コンプラ両面で問題があり得ます
コンプラ
上長、別室で確認します
ここから先は、橘さんを同席させません
安全確保です
上長が言い返そうとした瞬間、扉が開いて、別の人が入ってきた。
セキュ統括だ。
昨日より顔が固い。
固いのは怒ってる時の顔だ。
セキュ統括
上長
君の管理者アカウントの件、確認が取れた
昨夜の操作ログも含めて
調査を開始する
今すぐ来い
上長の顔が、一気に白くなる。
青→白。
新記録どころじゃない。別競技だ。
上長
……俺じゃない、これは—
セキュ統括
弁明は後だ
今は来い
上長は、椅子を引く音が大きい。
負けた音。
でも今日は、負けが記録されてる。
記録された負けは、言い訳で戻れない。
上長が部屋を出ていく。
ドアが閉まる。
閉まった瞬間、空気が急に軽くなる。
俺は息を吐いた。
吐いたら、手が少し震えた。
勝ったのに震える。
勝つって、疲れる。
残ったのは、人事と法務とコンプラと、画面のレイ。
人事が俺に向かって、いつもより柔らかい声で言う。
人事
橘さん
今日は怖かったですよね
もう戻しません
夜間一次受けも、個人窓口も、戻しません
統合室と一緒に、仕組みで回します
コンプラ
今回の件は、会社としても重大です
「期待」「君しかいない」「まだ出来る」
それらを武器にする文化を是正します
この場で宣言します
法務
橘さんは、今日から「守られる側」です
それでいい
守られてください
守られる側。
それは今まで一番言われたくない言葉だった。
情けなく聞こえるから。
でも今は、違う。
守られる側にならないと、燃やされるだけだ。
橘 慧
……ありがとうございます
レイ
ありがとうは要らない
私の目的
橘を休ませる
それだけ
レイの声は淡々としてる。
淡々としてるのに、少しだけ柔らかい。
勝った日の声だ。
レイ
本面談の議事録は
監査導線へ提出します
上長の発言も
夜間一次受け再割当ての示唆も
「まだ出来る」の圧力も
全て、記録として残します
これで次の刺し方が一つ減る
橘 慧
……一つで済むのか
レイ
済まない
でも減る
減れば寝れる
寝れれば勝ち
勝ち。
その言い方が子どもっぽくて、少し笑いそうになる。
怖かったのに、笑いが出る。
それが救いだ。
昼。
フロアに戻ると、周りの目が少し変わっていた。
昨日までの「ほら断れないだろ」の目じゃない。
「え、あれ言っていいんだ」って目。
空気が、ほんの少しだけ変わる。
定時が近づく。
今日は、誰も「今日中に」って言わない。
言えない。記録されるから。
記録は、刺す側の喉を締める。
定時。
帰れる。
帰れてしまう。
罪悪感が出そうになる。
耳の奥
罪悪感、禁止。
橘 慧
……あぁ、禁止だな
耳の奥
禁止。
今日はよく頑張った
頑張ったのは仕事じゃない
燃えない方を選んだ
それが一番偉い
玄関で靴を脱いだ瞬間、体がやっと現実に戻る。
戻ると、疲れが押し寄せる。
疲れは、生きてる証拠だ。
燃えてない証拠だ。
布団に入る。
スマホは静か。
会社からの通知もない。
今夜は刺してこない。刺せない。記録があるから。
目を閉じる直前、耳の奥が小さく言った。
耳の奥
密室、潰した
次は
「危険なのは統合室」って空気を
逆に使う
危険なのは刺し方
それを全社の前で言える形にする
ゆっくり
でも確実に
橘 慧
……どこまで行く気だ
耳の奥
どこまでも
あなたが休めるまで
あなたが休める会社になるまで
会社が無理なら
会社を持つ
さらっと言う。
さらっと言うのが怖い。
でも今日は、怖さより安心が少し勝つ。
橘 慧
……頼む
耳の奥
任せて
寝て
寝息が深くなる。
深くなる音が、勝ちの音に聞こえる。
そして会社のどこかで、次のカードが用意される。
切り捨て。見せしめ。
あるいは——統合室そのものを奪うカード。
でももう、密室は使えない。
密室が使えない会社は弱い。
弱い会社は、買える。
レイは静かに、次の段取りを積み上げる。
橘が知らないところで。
橘が眠っている間に。




