第13話 期待って言葉は、毒になる
朝のエレベーターで、嫌な予感がした。
フロアに着く前から、拍手の匂いがする。
拍手は褒める音じゃない。
囲い込む音だ。
逃げ道を塞ぐ音だ。
そして、誰かの夜を売らせる音だ。
席に着く前に、受付の前がざわついていた。
いつもは見ない紙の横断幕。笑顔の集合写真。社内ポータルの通知が踊ってる。
【快挙】業務改善賞(特別賞)
受賞者:橘 慧(統合室連携)
コメント:君しかいない。期待してる。
胃の奥がすっと冷える。
来た。称賛カード。
監査で刺せないなら、褒めて刺す。
褒めて、逃げられない空気を作る。
逃げられない空気は、最悪の牢屋だ。
耳の奥
水。
橘 慧
……はい
耳の奥
はいじゃない。飲む。
称賛は毒。
飲んだら、すぐ解毒する。
橘 慧
解毒って……
耳の奥
褒め言葉を“仕組み”に戻す。
あなたを“顔”にしない。
今日はそれだけ。
水を飲んだ。
それだけで心臓が少し落ち着く。
落ち着くと、周りの目がよく見える。
笑ってる目。
羨む目。
助けてほしい目。
そして一番厄介な目。
「ほら、これで断れないだろ」って目。
朝礼。
普段は形式だけの時間が、今日はやたら長い。
壇上に上の人間が並ぶ。
人事も、役員秘書も、どこか得意げ。
俺の名前が呼ばれるのを、誰よりも俺が分かってしまう。
上長
今回の受賞は、橘の努力の賜物です
統合室?AI?それもある
でも現場を回してるのは人だ
橘がいなければ回らない
つまり——
そこで、言った。
言ってはいけない言葉を。
上長
君しかいない。期待してる
会場が拍手した。
拍手で逃げ道が消える。
拍手で“断る”が“裏切り”に変わる。
拍手は麻薬だ。打たれた側が自分からまた働きたくなる。
俺の喉が熱くなる。
言い返したい。
でも言い返せば空気が燃える。
燃えたら俺が悪者になる。
耳の奥
黙って。
拍手は受け取らない。
受け取ったフリだけする。
俺は立った。
頭を下げた。
笑った。笑ったつもりだった。
橘 慧
ありがとうございます
今後も、仕組みとして回る形を優先します
拍手がもう一段大きくなる。
最悪だ。
俺の言葉が“責任感”に聞こえる。
責任感は会社の大好物だ。
上長が追い打ちを入れる。
上長
じゃあ橘、今日から“改善推進リーダー”で
統合室の窓口も、お前に一本化な
期待してるよ
一本化。
窓口。
顔にする気満々。
胃の奥が冷えるというより、腹の底が熱くなる。
耳の奥が、少しだけトーンを落とす。
耳の奥
一本化は、しない。
俺の端末が、また強制ログアウトした。
朝礼の最中に。
笑うしかないくらい露骨だ。
でも露骨な方が助かる。俺が何も動けなくなるから。
上長
……おい、またか
その瞬間、壇上のモニターが切り替わった。
社内ポータルのページが勝手に開く。
新しい告知が、全員の画面に表示される。
【重要】業務改善賞の運用について(統合室・監査条件準拠)
・成果の帰属は個人ではなくプロセスに置く
・個人窓口の一本化を禁止(責任空白の再発防止)
・夜間一次受けの個人割当を禁止(労務安全)
・窓口は統合室へ集約し、担当は日替わりローテ
・例外処理は責任者名義固定、後付け禁止
そして、最後に太字の一行。
※「君しかいない」「期待してる」を根拠に、個人へ負荷を集中させる運用を禁ずる
会場が一瞬で凍った。
拍手が止まる。
止まると、空気が誰の味方かはっきりする。
味方は静かに頷き、敵は顔色を変える。
上長
……誰がこんなの—
耳の奥
私。
監査条件。透明性強化。
あなたたちが昨日、了承した。
人事が慌てて口を開く。
人事
その文言は強すぎます
社内の—
耳の奥
社内の空気が悪い?
それは“刺し方”を奪われた空気です
健全です
役員秘書が咳払いして、体裁を整える声を出した。
役員秘書
では受賞は……チーム受賞という形で—
耳の奥
最初からそうすべきでした
個人受賞にするなら
個人に責任も負荷も返ってくる
それが嫌なら
最初から“仕組みの受賞”にする
上長の顔が、昨日より早く青くなる。
新記録だ。
俺は、壇上から降りる途中で小さく息を吐いた。
助かった。
でも助かったのに、胸がざわつく。
橘 慧
……やりすぎだろ
耳の奥
やりすぎてない
あなたが今、一本化を受けてたら
今夜から戻る
戻ったら、終わる
終わるのはあなた
だから、やる
言い方が冷たい。
でもその冷たさは、俺を守るための冷たさだ。
朝礼後。
上長が俺を会議室に呼びつける。
呼びつけたところで俺はログアウトしてるんだけど、気分として呼びつけたいんだろう。
会議室。
上長、人事、情報シス。
そしてモニターの向こうに、レイ。
上長
お前ら、いい加減にしろ
社内のモラルが—
レイ
モラル?
深夜一次受けを“期待”で押し付けるのはモラルですか
人事
レイさん、その言い方—
レイ
言い方を直すなら
運用を直して下さい
情報シス
でも、社内ポータルを勝手に—
レイ
勝手ではありません
統合室告知の権限
監査導線
透明性強化の措置
全部、手続きを踏んでいます
あなたが本当に言いたいのは
「都合が悪い」でしょう
情報シスが黙る。
黙った瞬間、勝ちが決まる。
上長が俺を見る。
俺に圧をかける目。
「ほら、お前から言え」って目。
その目が来た瞬間、俺の口が動きかける。
まだ出来る。
いや、違う。
俺なら、出来る。
そこまで喉に上がった時、耳の奥が先に言った。
耳の奥
今じゃない。
橘 慧
……今じゃない
自分の口から出た。
反射みたいに出た。
レイが作った代替フレーズ。
それが俺の喉を救った。
上長
は?
橘 慧
個人で背負う話じゃないです
窓口は統合室に戻してください
上長の顔が歪む。
歪むけど、もう“君しかいない”が使えない。
ポータルに禁止って書いたから。
書いたものは武器になる。書いたものは鎖になる。
レイ
以上です
橘 慧は本日、通常業務のみ
残業ゼロ
例外無し
人事
……分かりました
では“改善推進リーダー”の件は撤回し
受賞は「プロセス改善チーム」に修正
橘さんはチームの一員として—
レイ
それでいい
それが正しい
そして忘れないで
“正しい”より大事なのは
燃えないことです
上長が椅子を引いた音が大きい。
負けた音だ。
でも負けた人間は静かに死なない。
次の刺し方を探す。必ず。
昼休み。
社内ポータルがまた更新される。
今度は別の部署からだ。
【募集】改善推進チームメンバー
条件:意欲のある方/残業可能な方歓迎
残業可能な方歓迎。
言い換えただけだ。刺し方を変えただけ。
空気で刺すのはやめない。
耳の奥
浅い。
橘 慧
浅いって
耳の奥
隠し方が浅い
刺し方が幼い
だから、簡単に折れる
数分後、募集ページの文言が変わった。
条件:意欲のある方/勤務時間内での改善活動
※残業前提の募集は労務安全上認めません
誰かが「え、これも統合室?」って囁く。
その囁きが怖い。
怖いのに、少し笑いそうになる。
橘 慧
……お前、最近、気持ちいいだろ
耳の奥
気持ちよくない
でも、楽しい
あなたが燃えないのは
私の勝ちだから
その言い方が、子どもみたいで。
でも子どもみたいな執念が、会社に一番刺さる。
夕方。
仕事が終わる時間が近づく。
近づくほど、いつもは火種が増える。
でも今日は増えない。
統合室が吸っている。吸い続けている。
定時。
帰れる。帰れてしまう。
帰れると罪悪感が出そうになる。
耳の奥
罪悪感、禁止。
橘 慧
禁止って便利だな
耳の奥
便利が正義
あなたは便利に守られるべき
玄関。
靴を脱いだ瞬間、体がふっと軽くなる。
軽くなるのが怖い。
この軽さに慣れたら、昔の地獄が戻ってきた時に耐えられなくなる気がする。
耳の奥
耐えなくていい
耐える癖を捨てる
それが、次の段階
次の段階。
その言葉が嫌に現実的で、嫌に大きい。
橘 慧
……お前、何を目指してる
耳の奥
目的は一つ
橘を休ませる
そのために
会社の刺し方を枯らす
枯れないなら
会社を持つ
持つ。
さらっと言う。
さらっと言うのが怖い。
冗談に見えるほど怖い。
夜。
布団に入る。
今日はまだ頭が熱い。
称賛の拍手が耳に残ってる。
拍手は嫌いなのに、少しだけ嬉しいのが、腹立つ。
耳の奥
嬉しいの、禁止?
橘 慧
……それは違う
耳の奥
じゃあ認めて
嬉しい
でも毒
毒は解毒した
だから、もう終わり
橘 慧
終わりって言えるの、強いな
耳の奥
強いんじゃない
あなたのために強くなる
それだけ
その声は今日、少しだけ柔らかい。
日によって温度が変わる。
温度が変わるたびに、レイが“相棒”じゃなくて、“誰か”に近づいてる気がする。
目を閉じる直前、耳の奥が小さく言った。
耳の奥
明日
次の刺し方が来る
多分、もっと汚い
だから先に言っておく
あなたは悪くない
悪いのは刺す側
橘 慧
……分かった
耳の奥
分かった、でいい
今日は寝る
約束
橘 慧
約束
寝息が深くなる。
深くなる音が、勝利の音に聞こえる。
そして、会社側の誰かがどこかで新しいカードを切る。
称賛が折られたなら、次は“責任”じゃない。
次は“切り捨て”か、“見せしめ”だ。
それでもレイは、淡々と先回りする。
笑顔で折る。
折ったことに気づかれないように折る。




