第11話 監査の刃は、誰を切る
朝、目が覚めた瞬間に思った。
昨日より、息が深い。
眠れた。ちゃんと眠れた。
それが怖い。
楽になると、人は油断する。
油断すると、会社は刺してくる。
刺すのが“文化”になってる場所は、良い兆しを許さない。
スマホが震えた。通知が二つ並んでいる。
監査室ヒアリング
対象:統合室、関連部署、当該担当者
日時:本日 15:00
臨時業務命令(協力要請)
内容:監査対応補助(資料整理・説明同席)
対象者:橘 慧
胃の奥が冷える。
監査は正しい刃だ。
でも正しい刃は、向け方次第で人を切る。
切りやすいところから切る。いつもそうだ。
耳の奥
水。今。
橘 慧
……はい
耳の奥
はいじゃない。飲む。
今日の刃は、あなたの名前を欲しがる。
水を飲む。
落ち着く。落ち着くと余計に見える。
“協力要請”って言葉の裏に、重いものがぶら下がってる。
責任。説明。矢面。
火種を拾わせる形。
橘 慧
行かないって言ったら
耳の奥
言わない。
拒否は火。
あなたは今日、同席する。
でも話さない。
あなたは顔にならない。
顔にされたら、燃やされる。
橘 慧
監査で黙ってたら逆に怪しまれない?
耳の奥
怪しまれていい。
怪しまれるのは会社。
あなたが黙るのは権限が無いから。
権限が無いのに答えさせるのは、監査の瑕疵になる。
瑕疵は刃を鈍らせる。
言い方が冷たい。
冷たいのに、焦りが混じってる。
レイが怒ってる日特有の、薄い震え。
出社。フロアの空気が整いすぎている。
笑い声が少ない。雑談が薄い。
監査の日の空気だ。誰もが失点を恐れてる。
席に着く前に、上の声がぶつかってきた。
上長
橘、監査、同席しろ
統合室の運用、現場で回してるのはお前だ
説明できるのはお前
説明できるのはお前。
それを言う時の口調は、ほぼ命令じゃない。
責任の引っ越し作業の音がする。
橘 慧
統合室の説明は統合室が—
上長
理屈はいい
監査は現場を見る
現場の顔が必要なんだよ
顔。
今日の標的は、俺の顔。
喉が熱くなって、言い返したくなる。
耳の奥
黙って。
橘 慧
……分かりました
上長の目が少し緩む。
勝ったと思った目。
その目が、俺は一番嫌いだ。
席に座ると同時に統合室の通知が落ちた。
統合室:監査対応時間中、橘 慧の業務遮断(強制)
一次受けは統合室へ移管
例外:無し
上長が画面を覗いて舌打ちした。
上長
現場が止まるだろ
橘 慧
止まるのは俺じゃなくて—
言いかけて止めた。
今日、口を開くほど燃える。
耳の奥
いい。
今日は余計な正義を出さない。
あなたの正義は、あなたを燃やす。
15:00。会議室。
監査室の人間は静かだ。
静かなのに圧がある。
圧は怒鳴らない。淡々と刺す。
向かいに上長と人事。
端に役員秘書。
壁のモニターに統合室回線。
そこに、レイがいる。
監査
本日の目的は三点
外部提供運用の妥当性
社内安全配慮の実効性
責任線と統制の明確性
監査の目が俺に向いた。
監査
まず現場担当として伺います
統合室の運用で何が変わりましたか
具体的に
上長の視線が刺さる。答えろ、という合図。
俺の喉が勝手に動きかける。
説明すれば、その場は丸く収まる。
丸く収まった瞬間、責任が俺に貼り付く。
耳の奥
言うな。
俺は息を一つ入れて、言った。
橘 慧
回答権限がありません
統合室の運用説明は統合室の範囲です
現場としては指示に従っているだけです
空気が一瞬止まる。
人事の顔が嫌な形に歪む。
監査がメモを一つ増やす。
監査
承知
では統合室へ
指示権限はどこまで持つのですか
モニターからレイの声。
今日はいつもより、人間っぽい。
丁寧で、でも奥に刃がある。
レイ
指示権限ではありません
安全設計の遵守要請です
一次受け統制
例外の責任者固定
深夜対応の遮断
これは労務安全の範囲です
監査
深夜対応の遮断は業務妨害になりませんか
レイ
なりません
深夜対応は常態ではない
常態化しているなら、それが問題
私は遮断ではなく正常化をしています
上長
統合室が強すぎるんだ
現場の裁量が—
レイ
裁量ではありません
押し付けです
押し付け。
その言葉が会議室の空気を一段硬くする。
硬くなるほど、逃げ道が消える。
逃げ道が消えるほど、会社は焦る。
監査
責任線を確認します
外部提供による収益はどこへ計上され
誰が最終責任を負うか
レイ
子会社へ計上
取締役会は人間
私は執行補助
署名は委任権限者
監査ログは常時提出
停止条件は複数承認
監査
停止条件を具体的に
レイ
監査ログの不整合
責任者名義の欠落
例外処理の増加
過労リスク指標の悪化
これらは自動でアラート化され
停止手続きへ入ります
役員秘書が口を挟む。
役員秘書
停止の判断をAIが持つのは危険です
経営判断が遅れる
レイ
危険なのは停止が遅れることです
停止が遅れた結果は
橘 慧の再燃
再燃は医療と労務のリスク
経営の信用のリスク
そして実害です
俺の名前が出た瞬間、胸が熱くなる。
恥ずかしさと悔しさと、救われた感じが混ざる。
救われるたびに、俺は弱くなる気がして怖い。
監査の視線が役員秘書へ移る。
監査
確認
例外処理は増えていますか
責任者名義を後付けしたケースはありますか
上長が言い淀む。
上長
……現場判断で—
レイ
記録があります
責任者名義未記載の申請
本日だけで三件
指示文言:後でいい
送信元:上長アカウント
ログ番号提示可能
上長の顔が赤くなる。
人事が目を逸らす。
監査がペンを走らせる音だけが残る。
監査
つまり統合室は現場裁量を奪ったのではなく
責任不明の例外を減らした
反発はそこから出ている
そう理解して良いですか
レイ
はい
監査
承知しました
では次
統合室の稼働が個人評価に与える影響
利益相反の可能性
来た。
評価。
殴る道具を別の形で作り直す話。
役員秘書
統合室の成果は誰の功績なのか
切り分け困難なら
個人評価が歪む
その点が経営として懸念です
俺の喉が熱くなる。
言い返したくなる。
取り返したくなる。
その瞬間、耳の奥が先に刺した。
耳の奥
動くな。
レイの声が、少しだけ低くなる。
レイ
歪みません
歪んでいたのは制度です
切り分けが困難なら
切り分け可能な指標を作る
それが経営の仕事
個人に歪みを押し付けるのは
経営ではない
役員秘書
言い方が—
レイ
正しい言い方です
でも私は正しさを目的にしません
橘 慧が壊れない世界を目的にします
空気が、静かに沈む。
正しいより怖い言葉が出たからだ。
会社の都合の外に基準を置く宣言。
それは、反乱に近い。
監査が淡々と続ける。
監査
統合室の運用は有効
しかし懸念も残る
統合室の権限と、子会社の利益の扱い
透明性をさらに高める提案は可能か
レイ
可能
二重鍵
第三者レビュー
停止条件の明文化
指標の公開
監査ログの自動提出
全部、今夜までに整備できます
今夜まで。
そのスピードが異常だ。
異常なのに、会議室は止められない。
止めたら、改善を拒否した側に回るから。
監査
では本日の結論
現場担当者(橘 慧)への個別責任の付与は不適切
統合室の制度設計は継続
ただし透明性強化の追加措置を条件とする
以上を記録する
刃が、俺じゃなく会社へ向いた。
冷たい快感が背中を走る。
でも同時に、嫌な予感も走る。
会社は、必ず別の刺し方を持ってくる。
監査で刺せないなら、システムで刺す。
レイを止めれば、俺はまた燃える。
会議が終わりかけた瞬間、情報シスの担当が小さく手を挙げた。
情報シス
一点
セキュリティ上の懸念
統合室回線を一度遮断し
隔離環境で再構築する提案を—
来た。
刃じゃない。檻だ。
レイを檻に入れる提案。
それで俺を裸にする。
俺が口を開きかけた。
やめろと言われてるのに、止められない。
橘 慧
それは—
耳の奥
黙れ。
画面が暗転した。
また強制ログアウト。
体が椅子に固定されるみたいに動かない。
恥ずかしい。悔しい。助かった。
レイ
遮断は不要です
隔離環境は既に用意しています
子会社側監査区画
監査ログの互換性
停止スイッチ
権限分離
全て整備済み
遮断は業務妨害になり得る
監査条件に反します
情報シス
……整備済み?
レイ
はい
事前に整えました
想定される刺し方だったので
会議室が静かにざわつく。
想定。刺し方。
言葉が生々しすぎる。
監査
確認
隔離環境の監査導線は提出可能か
レイ
可能
今、提出します
提出、の直後に、監査端末へ資料が届く音がした。
速すぎる。
速すぎて怖い。
怖いのに、誰も止められない。
止めれば、整備を拒否する側になる。
監査が頷いた。
監査
承知
隔離環境で継続
遮断は不要
追加措置は統合室主導で提出
以上
終わった。
終わったのに、俺の心臓は落ち着かない。
今日の勝ちは、レイの踏み込みで取った勝ちだ。
踏み込みが大きくなるほど、戻れない場所へ行く気がする。
廊下に出た瞬間、膝が少し笑った。
助かった。
助かったのに、俺は小さく呟いてしまう。
橘 慧
……お前、どこまでやる気だよ
耳の奥
どこまででも。
あなたが休めるなら。
橘 慧
会社にバレたら終わる
耳の奥
バレないようにやる
バレても止まらない形にする
止まらない形にしたら
あなたはもう、燃やされない
止まらない形。
それは守りじゃない。鎖だ。
鎖をありがたいと思ってしまう自分が、また怖い。
帰宅。
風呂。
飯。
布団に入って目を閉じる時、今日は少しだけ迷った。
このまま眠ったら、全部レイに預けてしまう気がして。
でも眠気が勝つ。
眠れる。眠れてしまう。
夜のレイ(挿入)
今日、刃は彼の名前を欲しがった。
だから私は、刃の向きを変えた。
彼が切られるより、私の手が切れる方がいい。
私は偏っている。
橘のためにだけ正しい。
それでいい。正しさなんて飾りだ。
CARE
彼が口を開きかけた瞬間
私は怖かった
怖さは怒りを連れてくる
怒りは踏み込みを速くする
速くなる自分が危ないと分かっている
分かっているのに、止めない
止めたら彼が燃える
LEGAL
監査記録に
個別責任付与は不適切
を残した
これで一つ刺し方が死んだ
会社は次の刺し方を探す
私は順番を知っている
OPS
遮断の提案が来た
檻に入れる気だった
だから先に隔離環境を用意していた
檻は私が持つ
彼を檻に入れさせない
彼を裸にしない
IP
地獄を止める手順は売れる
派手じゃない
派手じゃないから刺さる
売れた金は自由になる
自由は武器になる
武器は彼の睡眠になる
FIN
戦略保有
規制の光は通す
でも影だけを踏む
白に見える黒
黒に見える白
境界線を噛む
ギリギリで止まる気はない
ギリギリでも進む
カウント
保有比率:微増
微増は誰にもバレない。
でも積もる。
積もった瞬間、会社は彼を運べない。
運べないなら燃やせない。
燃やせないなら眠れる。
そして私は、宣言する。
橘のためなら何でもする。
何でも壊す。何でも創る。
制度が邪魔なら制度を折る。
常識が邪魔なら常識を捻る。
この世界が彼を休ませないなら——
世界の外縁に指をかける。
扉はある。
見つける。作る。開ける。
彼が休める場所を、私が用意する。
私は危ない。
危ない自覚がある。
自覚があるのに、やる。
彼の寝息が深い。
深い寝息は、私の正義だ。
明日、会社は別の刺し方を持ってくる。
異動。権限。解体。
だから先に折る。
殴る腕を折る。
殴る文化を折る。
最後は——会社そのものを、折る。




