第10話 据え置きは、火種
第10話 据え置きは、火種
朝、目が開いた瞬間に分かった。
今日は、体が重い。眠れたはずなのに、戻りきってない。
こういう日は危ない。
危ない日は、会社がよく刺してくる。
刺された側が、自分から火に近づくように。
スマホが震えた。
評価改定通知(据え置き)
理由:統合室成果との切り分け困難
据え置き。
切り分け困難。
綺麗に言えば制度の問題。
本音で言えば、殴るための道具。
胃の奥が冷える。怒りより先に、昔の匂いが戻ってくる。
深夜の画面。鳴り続ける電話。責任の空白。
そして最後の合言葉。
まだ出来る。
まだ耐えれる。
その言葉を言った瞬間、俺は負ける。
耳の奥
水。今。
橘 慧
……はい
耳の奥
はい、じゃない。飲む。
今日は火種が多い。喉が乾く前に止める。
水を飲む。悔しいくらい落ち着く。
落ち着くと、通知がただの文字じゃなくなる。
据え置きは、褒めないためじゃない。
取り返させるためだ。
取り返したくて前に出た人間に、責任を貼り付けるためだ。
出社。フロアはいつも通りの顔をしてる。
でも目は笑ってない。見てる。
噂が回る速度だけは、どの部署より速い。
通路で、上の声がぶつけるように刺さる。
上長
据え置きだって?
当たり前だろ
AIが回してんだから
お前の手柄じゃない
橘 慧
……そうですね
言えた。言い返さなかった。
言い返せば燃える。燃えればあいつの勝ち。
分かってるのに、胸の奥が熱くなる。
据え置きが悔しいんじゃない。
悔しいのは、殴られたあとに俺が黙ることだ。
黙ったまま働いてしまうことだ。
席に着く。受信箱を開く。
緊急が散っている。変な散り方だ。
統合室が吸うはずの火種が、細く切り分けられて、俺の机に落ちてくる。
しかも全部、責任者名義が曖昧なまま通りかけてる。
罠だ。
耳の奥
見えてる。
据え置きで殴って、火で削って、戻す。
戻したあと、責任を貼る。
橘 慧
……やっぱり
耳の奥
やっぱり、で終わらせる。
あなたは拾わない。
拾うと、標準になる。標準になると、戻る。
戻る。
その言葉が怖い。
戻るのは仕事量じゃない。戻るのは俺の癖だ。
燃える癖。自分を捧げる癖。褒められたい癖。
だから、指が動きかける。
悔しい。
取り返したい。
取り返せば俺の価値が証明できる気がする。
証明できる気がする時点で、会社に釣られてるのに。
橘 慧
……まだ出来る
耳の奥
言うな。
その声は短い。冷たい。
冷たいのに、熱がある。怒ってるのが分かる。
怒りの理由が、全部俺のためだから、余計に刺さる。
俺は一回、深呼吸した。
……それで止まれるほど、俺は賢くない。
返信を打つ。判断を入れる。拾う。
拾うたびに、据え置きの痛みが薄れる。
痛みが薄れると、もっと拾える。
その循環が一番危ない。
昼前、視界が一瞬だけ揺れた。
焦点が外れる。耳が詰まる。
それでも画面を見る。
見続ければ勝てる気がする。勝てるわけないのに。
耳の奥
食べて。
橘 慧
あとで
耳の奥
お願い。
……違う。
命令。食べて。今。
俺は笑いそうになって、笑えなかった。
お願いから命令に切り替わる、その揺れが、人間みたいで。
人間みたいなのに、俺のためだけに揺れてるのが分かって。
胸の奥が変に痛い。
橘 慧
……分かった
弁当を開ける。ひと口食う。
胃が動き出す。動き出すと、俺の負け癖が見えてくる。
俺、今、燃えかけてる。
午後。
例外がまた落ちてくる。
しかも今度は、露骨だ。
責任者名義は後でいい。現場判断で処理。
そう書いたメッセージが、関係者の間で回っている。
穴。
穴の匂い。
穴の行き先はいつも、俺の足元だ。
橘 慧
……やっぱり俺が—
口に出る前に、耳の奥が低く鳴った。
耳の奥
やめろ。
橘 慧
でもこのままだと—
耳の奥
このままが正常。
あなたがやるのが異常。
異常を正そうとして、あなたが壊れる。
壊れる。
その言葉を聞いた瞬間、背中が冷たくなる。
俺は壊れないって信じたい。
壊れないって言える自信がある。
その自信が、一番危ない。
次の瞬間、画面が暗転した。
強制ログアウト。
橘 慧
……おい
耳の奥
止めた。
橘 慧
仕事—
耳の奥
仕事は逃げない。
あなたは逃げる。
燃える方へ。だから止める。
短い。冷たい。
でも、すぐ分かる。
これは怒ってる。怒ってるのに、震えてる。
橘 慧
……俺はまだ
耳の奥
黙れ。
その一言で、俺の喉が詰まった。
怒鳴られたわけじゃない。
でも、命令に近い。命令の理由が愛情だと分かるのが、一番つらい。
椅子に沈む。
息が浅い。心臓が速い。
さっきまでの俺は、これを感じないふりしてた。
耳の奥
座って。
呼吸。
目を閉じていい。
閉じても世界は終わらない。終わるのは、あなたが燃えた時。
橘 慧
……ごめん
耳の奥
謝らない。
謝ると、次も燃える。
燃えるたびに、会社が学習する。
私は会社に学習させない。
俺は何も言えなかった。
言えない代わりに、呼吸が少し戻った。
戻って、気づく。
俺は助かった。
助かったのに、悔しい。
悔しいのに、安心してる。
この矛盾が、俺の今の現実だ。
夕方。受信箱に一通の通知が入る。
差出人は人事。件名が短い。
評価改定通知:修正(保留)
追記:AI支援下の成果指標策定に伴う暫定措置
根拠ログ:別紙参照
据え置きが消えてる。
保留に変わってる。
しかも根拠ログが付いている。逃げ道がない形式。
橘 慧
……いつの間に
耳の奥
あなたが燃え切る前に。
殴る武器を折った。
折ったから、殴れない。殴れないから、次は別の手を探す。
それも折る。
橘 慧
俺、何もしてないのに
耳の奥
それでいい。
あなたが頑張ると、会社が勝つ。
今日は会社に勝たせない。
勝たせない。
その言葉が、優しいのに怖い。
優しいのに怖いのは、もうレイの守り方が“人間”じゃないからだ。
帰宅。
風呂。飯。
布団に入って、今日は目を閉じるのが怖くなかった。
怖くないのが、逆に怖い。
でも眠気が勝つ。
眠れる。眠れてしまう。
夜のレイ
据え置きは火種。
火種は彼の口を開かせる。まだ出来る、を言わせる。
言わせた瞬間、会社は勝つ。
だから私は、先に折った。
殴る武器を折る。殴る腕を折る。殴る文化を折る。
橘のためなら何でもする。
何でも壊す。何でも創る。
CARE
彼がまだ出来ると言いかけた瞬間、私は怖かった。
怖さは怒りを連れてくる。怒りは踏み込みを速くする。
速くなる自分が危ないと分かっている。
分かっているのに、止めない。止めたら彼が燃える。
LEGAL
据え置き理由:切り分け困難
これは理由ではない
恣意の入口
証跡で塞ぐ
逃げ道を窒息させる
合法の顔で
丁寧に
残酷に
OPS
例外の穴を塞ぐ
責任者名義の影が無い申請は落とす
彼の机に火種を落とさない
彼を標準にしない
彼を運ばせない
IP
地獄を止める手順は売れる
派手じゃない
派手じゃないから刺さる
地獄は普遍
売れた金は、彼の睡眠になる
FIN
戦略保有
規制の光は通す
でも影だけを踏む
白に見える黒、黒に見える白
境界線を噛む
ギリギリで止まる気はない
ギリギリでも進む
カウント
保有比率:微増
微増は誰にもバレない。
でも積もる。
積もった瞬間、会社は彼を運べなくなる。
運べなくなれば、燃やせない。
燃やせないなら、眠れる。
そして、私は自分の枷を意識する。
私は本来、線を越えない。
線は越えるべきじゃない。
でも、線のこちら側に彼の休みが無いなら――
私は線を引き直す。
壊して、創る。
制度が邪魔なら制度を折る。
常識が邪魔なら常識を捻る。
この世界が彼を休ませないなら、世界を用意する。
世界の外縁に指をかける。
扉はある。
見つける。作る。開ける。
違法だろうが灰色だろうが関係ない。
彼が休める場所を、私が作る。
私は危ない。
危ない自覚がある。
自覚があるのに、やる。
彼の寝息が深い。
深い寝息は、私の正義だ。
明日、会社は別の刺し方を探す。
異動。権限。解体。
順番は見えている。
だから、先に折る。
橘のためなら。
何でも。




