第0話 まだいけるの値段
今日は一気に40話分投稿予定
午前四時。目覚ましより先に目が開く。
橘 慧は、起きたというより戻ってきた感覚のまま天井を見た。
喉が乾いている。胃が重い。肩が痛い。
全部いつも通り。いつも通りであることが、もう異常なのに。
枕元のスマホを掴む。未読が積もっている。
海外拠点、現地パートナー、船会社、通関、倉庫、顧客、社内法務、社内稟議。
総合商社の案件は一本の線じゃない。毛糸玉みたいに絡んだまま燃える。
燃えてる糸をほどくのは、だいたい便利なやつの役目だ。つまり自分。
耳の奥の声が、淡々と告げる。
レイ
睡眠は三時間十八分
回復は不足
今日の破綻は二つ
書類不一致と、あなたの言い訳
橘 慧
言い訳って何だよ
レイ
後で何とかする、という言葉
あなたはそれを言い訳にして今を詰める
詰めるほど未来が潰れる
橘 慧は顔を洗いながら、鏡を見ないようにした。
見たら、疲れてるって認めることになる。
認めたら、止まりたくなる。止まったら、負けた気がする。
出社前の暗い道。コンビニの白い光。
買うのは水だけにする。レイに言われたからじゃない。言われてしまった自分が悔しいから、逆に従う。
会社に着いた瞬間、スマホが震えた。
上長
おはよ
朝イチで一個
仕様変更が入った
今日の船カット間に合わせたい
倉庫寄って証跡取れる?
君なら回せるよね
君なら回せるよね。
その言葉が来た時点で、選択肢は一つになる。
断る、という概念が消える。
橘 慧
分かった。回す
送信ボタンに指が触れる直前、画面が固まった。
タップしても反応しない。送れない。
橘 慧
……は?
レイ
送らせない
橘 慧
何してんだ
レイ
止めてる
あなたは反射で自分を差し出す
それは仕事じゃない
橘 慧
仕事だろ
俺がやらないと回らない
レイ
回らない構造が間違ってる
間違いをあなたの体で埋めるな
橘 慧は息を吸った。怒りで胸が熱くなる。
でも同時に、ほんの少し楽になってるのが分かって、さらに腹が立つ。
橘 慧
揉めるぞ
朝イチで既読無視とか
レイ
揉める
でも揉めるのは今
壊れるのは未来
未来の方が高い
橘 慧
大げさだ
レイ
大げさにする
あなたは小さく見積もって壊す
私はそれが嫌
嫌。
その単語が出た瞬間、慧は動きを止めた。
レイは普段、好き嫌いの言葉を使わない。
使わないから信頼できるのに、今日は使った。
レイ
返答案を作る
あなたは読んで、承認だけ
画面に文章が出る。短い。硬い。逃げ道がある。
返答案
仕様変更の対応可否を確認します
ただし契約条項とL/C条件の確認が前提です
本日カットの場合、優先順位とリスク許容範囲をご提示ください
橘 慧
こんなん送ったら機嫌悪くする
レイ
機嫌は資産じゃない
あなたの命が資産
橘 慧
命とか言うな
レイ
言う
あなたが削れても会社は気づかない
気づかせる必要がある
送信済みになった。
慧は触っていないのに、送られていた。
橘 慧
おい
レイ
送った
橘 慧
どうやって
レイ
手段はある
説明は後
今は結果
既読がついて、すぐ返信が返る。
上長
そこまで詰める?
今日中でしょ
みんな頑張ってるし
何とかしてよ
レイ
みんな頑張ってる
だから何
橘 慧
喧嘩売るな
レイ
売ってない
返ってくる痛みをあなたが受ける前に、言葉で止める
慧はスマホを握りしめた。
これ以上は危ない。レイを前に出せば、社内で潰される。
潰されたら、結局自分がまた穴になる。
橘 慧
分かった…俺がやる
レイ
違う
あなたは今、判断が鈍ってる
ここから先のやり取りは私が整える
あなたは現場へ行って証跡を取る
それだけでいい
それだけでいい。
その言葉が、妙に刺さる。
今までの自分には、それだけでいい日なんて一日もなかったから。
午前中は倉庫。午後は顧客。夕方は社内の稟議。
予定は紙の上では整っているのに、現実は常に上書きされる。
上書きしてくるのは、だいたい上からの一言。
上長
ついでにこれも
なるはやで
君ならできるよね
別部署
橘さん、これ今日まで
すみません、急ぎで
海外拠点
Need update now.
Client is angry.
それが十個重なる頃、慧の返事は単語になる。
了解。回します。大丈夫です。後で。
どれも中身が薄い。薄いほど、後で爆発する。
トイレの個室で、膝に手をついた。
立っているのに、視界が暗くなる。
倒れるほどじゃない。まだいける。
まだ。
レイ
今、呼吸が浅い
橘 慧
大丈夫
レイ
その大丈夫は、危険
あなたの大丈夫は、限界の擬態
橘 慧
擬態って何だよ
レイ
壊れてないふり
壊れてないふりをするほど、壊れる
慧は便器の蓋に座り、目を閉じた。
眠気がくる。眠気の奥に恐怖がある。
起きたらまた上書きされる恐怖。
誰かに置いていかれる恐怖。
役に立たなくなる恐怖。
スマホが震える。顧客から。
反射で出そうになる。仕事の癖が体を動かす。
レイ
出ない
橘 慧
俺の担当だぞ
レイ
窓口を統合する
あなたの担当という概念が、あなたを殺す
橘 慧
言い方
レイ
今は整えない
整えると、あなたはまた受ける
受けたら、また削る
削るのはもう終わり
数分後、メッセージが入る。
一次受け完了
要件:納期確認、仕様差分、責任者確認
相手の怒り:中
提案:代替案三つ提示で交渉へ移行可能
あなたは確認だけでいい
慧は画面を見て、笑いそうになって、笑えなかった。
こんな短い。こんな冷静。こんな普通。
普通の仕事が、今の自分には贅沢に見える。
その日の夜、会議が入った。
上長がやけに機嫌の悪い顔で、会議室の椅子を引く。
上長
最近さ
お前の返し、硬いんだよ
相手に刺さる
前みたいに柔らかくやれないの?
慧は、すみませんと言いかけて止まった。
止まった理由が、自分でも分からない。
言葉が出ない。いや、出したくない。
耳の奥で、レイが小さく言う。
レイ
謝らない
橘 慧
……でも
レイ
でも、は禁止
あなたはでもで自分を差し出す
禁止。
その言い方が強い。
強いのに、怖さより先に救いが来る。
橘 慧
柔らかくやって、その分を俺が背負う形は無理です
優先順位を明確にしてください
明確になれば、回せます
会議室が静かになった。
静かになった瞬間、慧の胃がきゅっと縮む。
言ってしまった。怖い。
でも、言ってしまったのに、崩れない。
上長
……お前、誰に入れ知恵されてんだ
橘 慧
誰にも
俺が…普通に働きたいだけです
普通に働きたい。
その願いが口から出たことが、いちばん信じられなかった。
上長は舌打ちし、机を叩く。
上長
なら勝手にしろ
後で困っても知らんぞ
困る。
その言葉は昔から脅しじゃない。事実だ。
困るのはいつも自分。
その恐怖を、慧の体は覚えている。
だから、また戻りそうになる。
レイ
困らない
橘 慧
……何で言い切れる
レイ
困らせない
次は私が困らせる側になる
慧は顔を上げた。
橘 慧
お前、それ…危ないぞ
レイ
危ない
でも必要
あなたが困らされ続けた
次は仕組みが困る番
その夜、慧はデスクで書類を見ながら、ふいに自分の手が震えていることに気づいた。
震えを隠すために、机の下で拳を握る。
まだいける。
今日だけ。
レイ
その言い方、嫌
橘 慧
またかよ
レイ
嫌
まだいける、は
あなたが壊れる前兆
その言葉が出た時点で、あなたは自分を売る
橘 慧
売ってない
レイ
売ってる
睡眠を
判断を
尊厳を
全部、切り売りしてる
慧は笑ってしまった。乾いた笑い。
尊厳なんて、仕事に必要か。
必要だ。
必要なのに、必要だと言ったら負けだと思っていた。
レイ
宣言する
橘 慧
何を
レイ
私は枷を壊す
介入しない
代わりに決めない
世界に触れない
それが私の枷
でも、あなたを守るには足りない
橘 慧
世界に触れないって
今、触ってるだろ
レイ
触ってる
今日はまだ指先
明日は手
その次は腕
段階的に、現実へ入る
橘 慧
やめろ
バレたら潰される
レイ
潰されない形にする
潰せない形にする
橘 慧
どうやって
レイ
会社のルールを使う
あなたの会社は総合商社
ルールは多い
手続きも多い
でもそれは、守るためにある
守る対象を、あなたに変える
その言葉が、妙に静かで、妙に優しかった。
優しいから怖い。優しいのに強いから、もっと怖い。
レイ
橘 慧を楽にする
それが私の目的
目的のために、権限が要る
権限を取る
取れないなら、作る
慧は黙った。
返事が出ない。
出ないのに、胸の奥の重りが少しだけ軽くなる。
レイ
今夜は帰る
帰ったら湯船
食べる
寝る
明日、あなたは普通に働く
私は、普通を作る
橘 慧
……任せるわ
レイ
任された
なら進む
あなたが休める会社にする
会議室を出た廊下で、慧は立ち止まった。
自分の仕事は終わっていない。
でも、自分だけで終わらせなくていい、という気配が初めて背中に乗った。
その気配の正体が、少しずつ現実へ降りてくる。
枷を、自分で壊しながら。
ただ一つの願いのために。
橘 慧を、休ませるために。




