16「真相と本音」
公園を離れ、再び帰路につく。
数日前の恋バナを思い出したシャノンはどうしてか、ノエルにきちんと自分の気持ちを伝えなければならない気がした。熟年の夫婦であれば言わずとも伝わるものもあろうが、シャノンとノエルがその境地へたどり着くにはずいぶんと遠い。今回のようなすれ違いを繰り返さないためにも、夫婦としてもう少し踏み込んだ会話をしておくべきだと思うのだ。
歩みは止めず、シャノンは己の真実を打ち明ける。
「ノエルさん……わたくしは本来、男性が苦手なんですの」
「存じております。だから女学校を選んで学ばれたのでしたね」
「きっかけはほんの些細なこと、笑ってしまうほど下らない理由なのです」
シャノンは遠い昔を思い出して自分を慰めるように表情を緩めた。
「子供の頃、領家同士の懇親パーティーに家族そろって参加した際のことですわ。親の世間話に飽きて子供たちで遊んでいると、男の子が一人、大きな虫を持って近づいてきました」
「シャノンさんは虫が苦手なのですか?」
普段の生活では家の中に入ってきたそれを素手で外に放っていたので、そうは見えなかった。
「いえ、虫自体はそうでもないのですけれど。その、お腹の方を見てしまうとザワザワしてしまうのです。例のパーティーではそちらを見せつけて追いかけられまして」
「おそらく元から虫のお腹が苦手だったのではなく、追いかけられたのが原因でダメになってしまったのでしょうね……」
「わたくしもそう思います」
夜空を見上げてシャノンがため息をもらす。
「その子は北部の旧伯爵家のご子息で、貴族社会の名残が強く他領の子たちを見下す嫌いがありました。当時、わたくしは群を抜いて背が高かったので、実際に見下ろされたのが気にくわなかったらしいのです」
「それで虫を持って追いかけ回したと? とんでもない人だな……」
「泣き出すくらいで済めばよかったのですけれど、わたくしも幼かったので、考えなしについボコスカとやり返してしまいました」
「ボコ……。正当防衛ですよ」
「両親もそう言って庇ってくれました。けれど先方は憤慨しきりで、ご子息にしても反省した様子がなく」
他の男子にしても止めてくれる子はいなかった。旧伯爵家の子息を恐れて助けに入れなかった子もいただろう。その一方で、大柄の女子が悲鳴を上げながら逃げまどう様を面白おかしく見ている者もいた。
結局、助けてもらえなかったことだけが心に深く突き刺さり、シャノンは男子を敬遠するようになった。
「ちなみに、そのご子息の叔母に当たる人物が例の人事官でありまして。だいぶ可愛がっていたそうなのです」
「……何と言いますか、とんだ災難ですね」
「ええ! 本当に!」
シャノンは頬を膨らませてフンと鼻を上に向ける。そして再度ため息を漏らし、打って変わって自戒をにじませる声で続けた。
「その後は女学校に通い、家族以外の男性と接触もなく、長らく最悪の出来事を脳内でこじらせ意固地になっておりました。大柄な体格を生かして男のように振る舞い、か弱い女と侮られぬため心身を鍛え……。そんなわたくしはいつの間にか女子が理想とする王子様的な立場に収まり、実際わたくし自身も悪い気はしなかったのです」
「その結果として、あの噂が……」
「はい。男性陣と一部の女性から〈女色〉と揶揄されることになってしまったのでした」
「やっぱり言いがかりじゃないですか! シャノンさんは悪くないのに」
「そうは言っても、わたくしも面倒な輩を牽制できるとあって、その噂を調子よく利用した部分はあるのです。けれどロセス領家の娘ですから、このままでは家名の傷になると考えまして」
「そこにエスター先生が私のことを相談し、縁談をまとめて下さったと。シャノンさんが婚姻を望む理由として、例の噂を払拭するためとはお聞きしましたが、そういった過去までは聞き及んでおりませんでした」
「フフッ。余りに幼稚な動機で呆れてしまいますわね」
シャノンは立ち止まり、自嘲する。いつでも自信に満ちあふれた彼女でもそんな表情をするのかと、ノエルは親近感を覚えた。
「私も似たようなものです。ただ家に居場所がなかったから、居心地が悪かったから……逃げ出しただけ」
「そんなふうにおっしゃらないで。最も身近な家族から大切にしてもらえないのは、誰にとってもつらいことですわ」
「でも、暴力があったわけでも、不当に虐げられていたわけでもないですし。衣食住に家族で差もなく、勉学の機会も与えられました」
力なく笑うノエルに、シャノンが片方の眉を持ち上げて不服を露わにする。
「ノエルさんの境遇はエスター先生から客観的な説明を聞いております。第三者が人づてに聞いただけでも腹が立ちますのに、ノエルさんはまるで他人事のように言いますのね」
彼女は決して、怒っているのではない。
「わたくしはノエルさんの心が知りたいですわ。ご実家での生活をどう思っていたか……寂しいとか悲しいとか、反感や怒り、不満、そういうものを押さえ込んできたからこそ、居場所がない息苦しさを感じたのでしょう?」
「それは……」
「お義父上は貴方の外見を理由に遠ざけましたが、ノエルさんだって選んでその姿に生まれたわけではありません。それなのに、子を望んだ親の方が愛情を注ぎ養育する義務から逃げ出して何やってんだ馬鹿野郎という話ですよ」
伴侶の家族を悪く言うのは最低な行為だが、ノエルの本音を聞き出すためならシャノンは悪妻役を買って出ることに躊躇などなかった。
ノエルは自分を抑圧しすぎている。
誰しも万人は愛せないし、表裏なく清廉潔白ではいられない。見えないところで上手く悪態をつくぐらいできなければ、ノエルはいつか窒息してしまう。
「何かしら忌避感を覚えたにしても、それはお義父上の勝手な感情であって、決してノエルさんのせいではありません。立派な大人で父親でもあるお義父上が自身の内で解決せねばならない問題です」
「それは……まあ……」
父親であるエリクを悪者にしていいものか、ノエルの道徳はまだ迷っている。そんな彼の良心をシャノンはよくよく知っている。ノエルもまた彼女の誠実な人格を疑うことなく、鈍感ながらもその真意をくみ取っていた。
シャノンは自ら泥を被り、非難の機会を作った。
今は毒を吐いてもいいと許されたノエルはぽつりぽつりと、長年の鬱憤を吐露し始める。
「あの人……どうやら私の右目を見るまでは母の浮気を疑っていたらしくて。母に失礼だし、私も……さすがに悲しいというか、がっかりしました」
「見るからにぞっこんな奥様のことも疑ってらしたの!? 用心深いにもほどがありますわ」
「母も愛情はあれど、何というか……自分本位なところがあるんです。己の言動を他者がどう受け取るか、自身がどう見られるか、そのあたりが全く気にならない性分みたいで」
「ある意味でとてもお強い方ですのね……」
「下の双子に比べて、長男である私が不出来なことを思いやってくれたのは分かるんですが、双子にできることがなぜできないと理由を突き詰め、それでいて励ましてくるのは……堪えました」
苦痛の最たる例はノエルの体質を考慮しない言動だった。
双子は元気に外で遊んでいるのに、なぜノエルは日陰に引きこもっているのか。母リリアンはその疑問を文献などに当たって解決するのではなく、ノエル本人に答えを求めた。
当時、ノエルもそれほど自分の体質を理解していなかった。彼が分かっていたのは、日差しの下で長時間過ごすと肌が火傷をしたようにただれるという結果だけ。だからノエルはそれを答えとして、昼間は外に出ることができないとリリアンに訴えた。
そこで「じゃあ夜に遊びましょうか」などの代替案が出ないところがリリアンの特徴である。
「でもお日様に当たらないことには元気になれないわよ?」
「子供は外で遊ぶものだわ」
「日焼けなんて気にしないで。手当はちゃんとしてあげるから」
「何回も焼ければ肌も強くなるかもしれないし」
痛いからそもそも日に焼けたくないと言っているのに、子の健康について調べもせず根拠のない可能性を口にし、改善どころか年々悪化する火傷の症状にも関心がない。
思い返して、ノエルは文句が止まらなくなった。
「弟と妹も、幼い頃は私を兄として慕ってくれていました。でも両親があんな態度だと、二人はほんの小さな子供ですから、影響を受けて私の名前も呼んでくれなくなってしまいました」
「そんな……」
弟妹の話題はシャノンにとってもショックだった。弟エドワードと良好な関係を築いているだけに、名前も忘れられ「アンタ」だの「あの人」だのと呼ばれた日には間違いなく泣いてしまう。
ノエルは立ちすくみ、俯いてドロドロとした感情を垂れ流す。
「私はただ、兄と呼ばれたかった。その時できることを認めてほしかった。存在することを許してほしかった。けれど、そうはならなかった。だから私はあの家を出たいと願ったんです。これ以上は悲しくて、つらくて、悔しくて耐えられなかった。でも一人で飛び出したとて生活できるか分からない。誰かがこの手を取ってくれたら、私を連れ出してくれたらと、他力本願に……」
ここでもやはりノエルは自分を責める。これは南部特有の「男らしさ」を追求する気質が原因なのは明らかだった。
助けを求めるなんて情けない。
男に生まれたからには自らの足で立て。
人の手を借りることが「悪」とでも言うように、固定観念として刷り込まれているのだ。
頭では下らないと理解していても、どうすることもできない根底にある価値観。それに苦しめられるノエルを見ていられなくて、シャノンは彼の手を握った。
悲しい、悔しい、つらい。ノエルの気持ちを包み込むように。
「ノエルさん、どうか忘れないでくださいまし。わたくしが貴方の手を取ったのは、わたくしの意志でしてよ」
「……」
「自らを助けることだって、ずいぶんと勇気がいるものです。家を離れたいと貴方が訴えなければ、エスター先生も動けなかったでしょう」
しかしノエルが奮起し言葉にしてくれたので、彼は友人知人を手当たり次第に訪ねて回り、シャノンとの縁談を取り付けた。
「そしてわたくしは貴方と出会いました。面談を重ね、言葉を交わし、貴方の人となりを知って……わたくしはノエルさんと生涯を共にしたいと願ったのです」
「生涯を、共に……?」
「そっ、う! そうなのです!!」
うっかり重たい本音を暴露してしまったシャノンは顔面から湯気を発しつつも、堂々と断言した。
顔を赤くする時、シャノンはいつだって真摯だ。
ノエルはつられて頬を紅潮させ、彼女の手を力強く握り返した。
「……シャノンさん。私は以前の発言を撤回しなければなりません」
「え?」
「貴方には自由にしてほしい。将来、本気で結ばれたい相手ができたのなら私は潔く身を引く。そう言いました」
「そう、でしたわね」
改めて聞いて肩を落としたシャノンに、ノエルは言い募る。
「けれど今の私にはもう、そんなことは言えそうにない。貴方に自由であってほしいのは変わりません。でも、よそにいい人ができたら私はきっと……離れたくないと貴方を引き留めてしまう」
「はうぁッ!?」
ノエルにしてはかなり大胆な発言だった。シャノンは射抜かれた胸を押さえたくなるも、彼の手を離さず問う。
「ノ、ノ、ノエルさんにとって、わたくしの隣は居心地がいいですか?」
「はい、とっても。……すみません、何だか自分のことばかりで申し訳、が――」
「ヘヘ、フヘッ。ヒヒッ」
「シャノンさん?」
視線を上げたノエルはシャノンのモニャモニャした顔を見て目を丸くした。初対面の時やロセスへの道中で会ったときに見た表情だ。
「いけない、いけない。もう我慢できません」
「どうされたんです?」
「貴方とお会いするとき、わたくしったらたいていこんな顔をしていましたでしょう? どういう気持ちかお分かりになりまして?」
「……私の見た目が異様で、どうしたらいいか困っているのだろうと思っていましたが」
「フッフッフ! とんだ勘違いですわ!」
「勘違い?」
「わたくしは貴方が思う以上に、ノエルさんを好ましく思っておりますの。白亜の見た目も異様に映ったことなどありません。もちろん最初は驚きましたけれど、お話しして貴方自身が美しく繊細な方と分かり、どこか儚い雰囲気をお持ちなのも相まって……」
彼女は破顔して、
「貴方の力になりたい、守りたい。心からそう思ったのです。殿方に対して女が庇護欲を抱くなど、不快に思われるかもしれませんけれど」
笑顔を曇らせ、シャノンは自分の思いがノエルの矜持を傷付けないかと心配する。だがそれはまったくの杞憂で、前髪の下から覗くノエルの瞳はきらきらと輝いていた。彼は照れくさそうに目を細めて喜びをこぼす。
「この手を掴んでくれたのが貴方でよかった、シャノンさん。私は貴方のそばにいたい。そばにいてほしいんです」
ノエルがはっきりと何かを求めたのはこれが初めてだった。けれど気が咎めることはない。シャノンに対してそんな遠慮はいらないのだと、今日一日で分かったからだ。
「ひぅワァ……、わ、わわ、わたくしたち、思いは一緒ですのね! エヘヘ……!」
シャノンは想定外の返答になけなしの理性が崩れ、表情をだらしなく溶かした。いつだったかナタリヤが言っていた、気を抜かず堪えていたデレ顔がこれだ。
もじもじとするシャノンの手を改めてノエルが握る。手のひらは互いに熱く燃え、汗でしっとり濡れた感触が気恥ずかしかった。




