「画面が先に語るとき」
朝は急がなかった。
ブラインドの隙間から光がこぼれ、
床とキーボードの上に細い線を落とす。
そこにはまだ昨夜の指の跡が残っていた。
時計は10時43分を指していた。
エイリドはゆっくりと目を開け、息を吸った。
少しこもった空気の中に、
コーヒーと冷めきらない夜の街の匂いが混じっている。
白い髪は乱れ、Tシャツはしわだらけ。
青い瞳は少し疲れていたが、穏やかだった。
彼は湯を沸かした。
ポットが低く唸り、
立ちのぼる湯気はまるでまだ眠っているようにゆるやかだった。
カップの中でコーヒーが溶け、
スプーンが小さく鳴った——その音がなぜか心地よかった。
テーブルには昨日のラーメンの皿。
冷めてはいたが、まだ食べられた。
窓の外ではもう街が動いている。
誰かが急ぎ、誰かがゆっくりと仕事へ向かう。
食後、彼はテーブルを拭き、食器を洗い流した。
棚には古い心理学と観察記の本が数冊並んでいる。
勉強のためではなく、ただ興味で買った本。
隣には薄いノート。
昨夜の記憶のように短いメモが並んでいた。
頭の中ではまだサオリの声が響いていた。
「もし明日、時間があったら。話したいことがあるの。」
彼は微笑んだ。
「時間はいつだってある。ただ、人は別のものに使ってるだけだ。」
窓を開けると、新しい空気が流れ込んだ。
濡れたアスファルトが光を返し、街が少しきれいに見えた。
ポットが冷める間、エイリドはほうきを取り、床を掃いた。
昨日の小さな誤りのように、ほこりが消えていく。
手を洗い、イヤホンをつける。
流れるのは静かなLo-fi。
彼はパソコンの前に座った。
モニターが白く光り、デスクトップが開く。
フォルダ名は「試合」「分析」「観察」。
指が自然にキーボードへ——まるで帰ってきたみたいに。
タブにはすでに大会サイト「FARA-NET」。
かつてのHLTVのように、世界のチームがランキングされている。
トップ300、分析、ピック、ドラフト。
彼の目はリストの行を滑り、
他人が見落とす細部を拾っていく。
保存してある試合ID。
Runa Blue vs Apex Core — 2:1、Runaのサポートのタイミングがずれた。
Zenith Edge vs Odin Line — 0:2、ドラフトミスとキャプテンの焦り。
Crysta vs Runa Blue — 1:1、均衡したシリーズ、終盤でマップコントロール喪失。
ノートの一行一行が生きている。
彼はゲームを見ながら、人間を見ていた。
呼吸、動き、リズムの途切れる瞬間。
モニターが通知で光った。
WorkLink.Pro:
エイリドさん、前回の勤務報告が承認されました。
Crysta社より次回イベントへの参加要請が届いています。
彼は瞬きをし、もう一度読んだ。
「へえ……ガルデローブの方が履歴書よりコネを作るとはな。」
スマホが震えた。
Eirid > Saori: 君の仕業?
**Saori > ** まぁ、ちょっとは押してあげないとね ;)
彼は笑った。
「押す、ね。さて、どっちがどっちを動かすか。」
冷めたコーヒー。
窓の外では街が新しい一日を始めていた。
モニターにはグラフと顔。
一人一人のプレイヤーが、新しい章のように見えた。
エイリドは初めて感じた。
これは仕事じゃなく、意味を読むための行為だと。
モニターが再び点滅する。
WorkLink.Pro:
Crysta Group提携勤務に割り当てられました。
シフト有効期間:2週間。
画面をクリック。
CrossLight Theatre — 夜勤 × 週3回。
Media Hall CRYSTA — テクニカル補助 × 週2回。
「なるほど、ガルデローブがフランチャイズ化か。」
心は落ち着いているのに、指先だけが微かに震えた。
彼は立ち上がり、伸びをしてシャツを脱いだ。
鏡の中には淡い肌、濡れた髪、手首の跡。
白い髪が光を拾い、青い瞳が少し明るく映る。
「同じ顔なのに、俳優が変わった気分だな。」
シャワーを浴びる。
熱い水が夜と疲れを流していく。
ミントの香りが微かに漂い、朝が彼に少しだけ猶予をくれる。
目を閉じると、サオリの声がよみがえる。
「あなたって変わってる……でも、忘れられない。」
彼は微笑み、
「俺も、多分ね。」と呟いた。
シャワーの後、ゆっくりと体を拭き、黒いパンツと灰色のシャツを着た。
再び湯を沸かし、パソコンを開く。
画面は同じFARA-NET。
更新された試合結果をクリック。
Crysta vs Zenith Edge — 1:2。
「リズム外したな。」
ノートに書き込む。
“Crystaキャプテン、コール前に瞬き多し。
カメラ光で自信変動。”
彼の指はもう迷わなかった。
少しして、即席スープを作り、ソファに腰を下ろす。
スマホが肘掛けで震えた。
**Saori > ** 今日、働く?
**Eirid > ** ああ。同じ劇場みたいだ。
**Saori > ** みたいじゃないよ、確定。スケジュール見たもん ;)
彼は小さく笑い、フォークを置いた。
「やっぱり、押してくるな。」
夕方
窓に金の光が滑り、街が柔らかく染まる。
袖を留め、WorkLinkのバッジを確認し、ノートをポケットへ。
外では雲がまた集まり始め、傘を手に取る。
ドアが閉まり、後ろにコーヒーと清潔な空気の匂いを残した。
「Crystaの勤務……同じ芝居でも新しい幕ってことか。」
通りへ出る。
濡れた舗道が灯りを映し、
遠くの窓にはもうネオンが灯っていた。
時刻は18時02分。
あと二十分で開演。
風が髪を揺らし、屋上に新しい看板が光った。
“CRYSTA Media Hall — Tonight Event”。
彼は微笑んだ。
「さて、今日の演目は誰だ?」
そして光の中へ歩き出す。
街が再び彼のために幕を開けた。




