眠らない街で
夜の東京は静かではなかった。
ただ、リズムを変えただけだった。
車の音は少なくなったが、
その一つ一つが夢の中を走り抜けるように深く響く。
エイリドは劇場から駅へ向かって歩いていた。
濡れたアスファルトは、さっきまで照明に照らされていた舞台の幕のように光っていた。
空気はラッカーとワイン、そして雨の匂い。
ショーウィンドウには、まだ帰りきらない観客の笑顔が映る。
彼はゆっくりと歩いた。
肩に張りつくジャケット。
胸の奥では、何かが外へこぼれ出そうだった――
感覚、言葉、サオリの視線。
「あなた、変わってるね」
あの声がよみがえる。
彼は小さく笑った。
「自分に嘘をつかないことが“変”なら、喜んで変でいい。」
街は観客のいない舞台のようだった。
隣のビルボードでCRYSTAの広告がまた光る。
一瞬、その光が彼の横顔をなぞった。
“We build those who build.”
――「創る者を、創る。」
彼は鼻で笑った。
「創る……いや、便利になるまで壊してるだけじゃないのか?」
駅は換気音と自販機のコーヒーの香りで迎えた。
深夜の電車はもう止まっていた――まるで最後の幕の後の舞台のように。
彼は車両に入り、窓際に座った。
ガラスに映る自分の顔とトンネルの風景が重なる。
まるで二人のエイリドが「どちらが本物か」と言い合っているようだった。
携帯が震える。
新しいメール。
《WorkLink.Pro:シフト完了報告》
ステータス――「Completed. Rating:+4」
「……評価してくれる奴が一人でもいれば、上出来か。」
電車は空っぽの駅をいくつも通り過ぎた。
遠くに、またカフェのネオン。
そこにもCRYSTAのロゴが見える。
「どこにでもいるな……。」
彼は窓の外を見ながら思う。
――トーナメント表にも、砂糖の袋にも、ニュースにも。
それでも憎めなかった。
「ただ、どうしてあいつらはあんなに速く生きようとするのか……知りたいだけだ。」
膝の上には小さな鞄。
中には人々のメモ帳。
「R――煙を指に挟む。」
「S――緊張すると笑う。」
指先で紙をなぞる。
消そうとして、消せなかった。
「……たぶん、これが俺なりの“信じ方”だ。
誰かが夢を見る間、俺は見守る。」
車内アナウンスが流れる。
「次は――中野。」
彼は立ち上がり、エスカレーターを上る。
静かな通路。
ちらつく自販機の明かり。
外に出ると、雨がまだ少し残っていた。
街灯が水たまりの中で揺れ、光が波のように震える。
帰り道は眠った商店街を抜けて続く。
小さな店、閉まったシャッター、「準備中」の札。
一匹の猫が車の下をくぐり抜けた。
その一瞬、彼は奇妙なほど落ち着いた。
――履歴書も、面接も、形なんていらない。
ただ濡れた道と自分の足音だけでいい。
古いキオスクの前で、老人がゴミを片づけていた。
「こんな時間に?」
とエイリドが声をかける。
老人は笑って言った。
「誰かが残したものを、誰かが拾うんだよ。」
「……俺たち、同業かもしれませんね。」
家に着く。
鍵を差し込む音。
扉を開けると、部屋の空気が静かに迎えてくれた。
靴を脱ぎ、電気をつける。
壁の時計は1時38分。
台所には朝の紅茶の残り。
冷めきった麺が皿の上で彼を待っていた。
ポットを入れ、テーブルに手をつく。
スマホの画面がかすかに光る。
メール――ゼロ。
頭の中では、サオリの声だけが響いていた。
“また連絡するね。”
湯気が立ち上る。
それは、朝に見たあの薔薇色の煙に似ていた。
――2時03分。
彼はPCの前に座る。
モニターが点き、起動音が静かに流れた。
デスクトップのフォルダには「Match」「Observation」「Dream」。
ストリームを開く。
CRYSTA vs LynxLine。
音を消して、ただ見た。
彼の視線はプレイヤーではなく、実況者の手、カーソルの動き、
わずかな間。
一つ一つのクリックが呼吸。
一つのミスがリズムの乱れ。
Excelを開く。
“観察マップ”の新しい行を追加。
Lynx midlaner――フェイク前に2回瞬き。緊張。
CRYSTA support――目は動かないが、声が震える。
短く、だが正確に。
それは他人の呼吸で作る交響曲のようだった。
――2時27分。
目が重くなり、肩がこわばる。
それでも眠りたくなかった。
体の奥で何かが鳴っている。
コーヒーではない。
“生きている”という感覚だった。
モニターを消す。
部屋には街の音だけが残る。
遠くの車の音。
窓の外の街灯。
「劇場は眠っても……舞台は、まだ終わってない。」
彼は天井を見ながら横になる。
その瞬間、スマホが光った。
Saori:
『明日、もし時間があったら。話したいことがある。』
彼は笑って、返信しなかった。
「……通信テスト、か。」と呟き、
ゆっくりと目を閉じた。




