クロスライト劇場の片隅で(
劇場のロビーはざわめきで満ちていた。
観客たちがホールへと流れていくその音は、まるで海の波のようだった。
リカはため息をつき、タバコを取り出す。
「休憩、ね。文化的ショックの前に」
「私はコーヒー。あんたはまた肺を殺すつもりでしょ」
サオリが苦笑しながら言う。
ふたりは横の出口から外に出た。
外は濡れた石と木の匂いがした。
リカは手のひらで火を隠してタバコに火をつけた。
一瞬、炎が彼女の顔を照らす——疲れているのに、美しい顔だった。
「気づいた?」と彼女は煙を吐きながら言った。
「どこもかしこもCRYSTAのスポンサーよ。この劇場まで」
「そのうち空気までブランド化されるかもね」
サオリが笑う。
リカは火を見つめながら小さく笑った。
「皮肉ね。才能を探してるくせに、自分たちは何も感じなくなってる」
タバコを壁に押し付けて消すと、ふたりは中に戻った。
ロビーの光と香り、ざわめき——すべてが少し濃く、温かく感じられた。
「コート預けて、行きましょ」
「うん。列ができる前に」
ふたりがクロークに向かうと、彼が顔を上げた。
「47番と48番ですね。」
柔らかな動きでコートを受け取り、タグを渡す。
ほんの一瞬、彼の視線が彼女たちの手に止まった。
コーヒーの香りと、焼けたネオンの残り香——
それは、夜中まで明かりが消えないオフィスの匂いだった。
リカがじっと見つめる。
「どこかで会ったかしら?」
「もしかしたら。世界は狭いですから」
「特に、CRYSTAがスポンサーしてる世界はね」
彼は口元だけで笑った。
「じゃあ僕は、あなたたちの“舞台装置”で働いてるわけだ。」
「丁寧ね」とサオリが苦笑した。
「癖です」
「長くここに?」
「長い一日、というだけですよ」
リカが小さく首を傾けた。
「まるで脚本家みたいな話し方ね」
「もしかしたら。観客は気づかないけど、舞台はいつもそこにあります」
目が合う。
沈黙が落ちた。
サオリが咳払いする。
「ふふ、クロークって心理学者の隠れ家なの?」
「人がコートを脱ぐ時、いちばん素直な顔になるからね」とリカ。
ベルが鳴り、観客がホールへと流れた。
「行こう、リカ」
「……うん」
だが、サオリは少しだけ立ち止まった。
「エイリッド、だっけ?」
「そうです」
「CRYSTAの面接、来てたよね?」
「列にはいました。でも“面接”は受けてません」
「今、補欠の募集があるの。入れてあげようか?」
「……どうして?」
「チャンスだから」
「チャンスって、“理由”の代わりになるんですか?」
その言葉に、彼女は口をつぐんだ。
「じゃあせめて番号を——」
「番号は、渡す側です」
リカが小さく笑った。
「頑固ね」
「行ったことのある場所に、もう一度呼ばれるのは苦手なんです」
「もし名前を消されなかったら?」
「それでも行かなかったでしょうね」
短い沈黙。
リカが言う。
「幸運を、他人の物語の監督さん」
彼女たちが去り、ドアが閉まる。
空気が少し冷たくなった。
——
彼は残りのコートを掛け、メモを見た。
「R:煙を残すタイプ。話すより考える時間が長い。」
「S:緊張すると笑う。目が“次のチャンス”を信じている。」
小さく笑って呟く。
「舞台だな、やっぱり。幕がなくても。」
夜が更け、観客たちが再びロビーにあふれる。
拍手と香水の香り、湿った空気。
最後の客が去ると、劇場は静かになった。
エイリッドは外に出る。
雨上がりの空気がまだ冷たい。
ローズ色の煙がふわりと立ち上る。
その時——足音。
「まだいたの?」
サオリが紙コップを持って立っていた。
「リカはタクシー捕まえに行った」
「君は?」
「たぶん、ロボットかどうか確かめに」
彼が笑う。
「ロボットは煙草を吸わない」
「でも迷いもない」
「じゃあ、生きてる証拠だ」
彼女は隣に立った。
「ねえ、さっきの話……もしまた受けてくれたら、リストに——」
「もう面接中ですよ」
「どこで?」
「ここで。コートを預ける人、ひとりひとりが面接官です」
沈黙。
それから彼女は微笑んだ。
「変わってるね」
「観察者なんです」
「もし“観察”と“変化”の両方ができる場所があったら?」
「その瞬間、視界は濁る」
彼の声は静かで、どこか痛みが混じっていた。
「……哲学者みたい」
「長くクロークにいると、少しは考える時間ができるんですよ」
ふたりの距離が縮まった。
煙が混ざり合い、雨の匂いと溶ける。
「じゃあ、もし気が変わったら——」
「やめてください」
「え?」
「“期待”を残すと、人は待つ。それが一番苦しい」
サオリは小さく頷いた。
「……名前だけでも」
「エイリッド」
「サオリ」
「知ってます」
彼女は笑い、
「やっぱり、全部見えてるのね」
彼は火を落とし、雨がそれを消した。
サオリはゆっくりと歩き出す。
「じゃあ……幸運を」
「幸運は、探さない人に微笑む」
扉が閉まり、劇場の灯りが消える。
彼は立ち尽くしたまま、
最後の煙を夜に溶かした。
——幕はまだ下りない。




