劇場の影と呼吸(クロスライトの夜)
雨上がりの街が、タイヤの音と冷たい空気で彼を迎えた。
濡れたアスファルトは、まるで街全体が鏡の仮面をつけたように光っていた。
空気にはコーヒーと葉の香り、そして――ほんのりとしたバラの香り。
昨日の自分が残した煙の匂いだった。
エイリッドはゆっくり歩いた。
鞄が腰に当たり、ポケットの中では通行証がかすかに鳴った。
頭の中だけが、足より早く進んでいた。
「上では履歴書を数えてる……
俺は、歩数を数える。 似たようなもんだな。」
空は灰色。
薄いヴェールをかけたように、世界が少しぼやけて見えた。
看板のネオンが水たまりに滲み、赤、黄、青が砕ける。
それはまるで、自分が隠してきた感情の色だった。
交差点を渡ると、カフェの窓に見慣れたロゴが映った。
――CRYSTA。
すぐに消えた。まるで嘲笑うように。
エイリッドは苦笑してつぶやいた。
「向こうは面接、こっちは舞台だな。」
劇場「CrossLight」までは、あと数ブロック。
日と夜の境目がぼやけ、街全体が息をしていた。
靴音がアスファルトに響くたび、心臓の鼓動と重なった。
――また、劇場の匂いがする。
ニス、香水、観客の吐息。
壁の向こうでは誰かがリハーサルしていた。
ヴァイオリンの音が、沈黙を試すように空気を震わせる。
裏口。
肩に鞄、手には通行証。
ドアプレートには「クロークA スタッフ専用」と書かれていた。
息を吸うと、ドアはまるで彼を待っていたかのように開いた。
中は混乱そのものだった。
金属のハンガー、番号札の山、布のざわめき。
二人の女性が釣り銭のことで言い争い、誰かがクーラーを叩いていた。
エイリッドは鞄を置き、立ち止まった。
ほんの一瞬、すべてが静止した。
まるで、彼の呼吸に合わせて空間がリズムを変えたようだった。
「エイリッド君だね?新人?」
眼鏡をかけた女性が声をかけた。
「はい。」
「よし。八列目から二十一列目まで担当ね。落とさないで、無くさないで。」
彼は頷き、手袋をはめた。
再び、世界が動き出した。
観客の波が押し寄せる。
ベルベット、カシミヤ、煙草、ジャスミン。
彼は静かに、しかし鋭く動いた。
それぞれのコートが、一つの記憶に変わっていく。
(襟を指でつまむ男――不安を隠している。
片手でコートを渡す女――誇り高く、触れられるのを嫌う。
震える指の男――恐怖か酒か。
みんな、自分を脱ぎ捨てるために来ている。)
ブロックノートの裏に、小さな符号が並ぶ。
「X2=震え」「L=香り/ジャスミン」「G=指輪なし」
それは、彼の中だけにある地図だった。
人の流れは途切れず、番号札の音がリズムを刻む。
それでも彼は一歩も乱れなかった。
世界の音が、まるで一つの楽譜に聞こえる。
誰かの鞄を拾い、
誰かのマフラーを解き、
動きは正確で、意識は静か。
「新人、まるでロボットみたいね。」
「ロボットじゃないよ。集中してるだけ。」
彼の世界は、もう音と動きだけだった。
時間がとけ、外の光が青に変わったとき、
ふと、彼は思った。
(俺はコートを預かっているんじゃない。
人が仮面を脱ぐ瞬間を見ているんだ。)
渋谷、17時40分。
二つの影が人の波を渡っていた。
リカがマフラーを直しながら言う。
「帰ればよかったのに。」
「またエクセル見て終わるでしょ? たまには舞台でも。」
「劇場?」
「CrossLight。CRYSTAのパートナーなんだって。少しはインスピレーションになるかも。」
「他人の台詞で動けるほど、私たち単純じゃないわよ。」
「でもね、舞台の方が、人間くさいときもある。」
ネオンが消え、街灯の光が柔らかくなる。
看板の「CrossLight Theatre」が、まるで息をしているように明滅した。
「木の匂い……それに塗料。」
「古い劇場の匂いよ。」
少しの沈黙。
「今日、百四十三件の応募。だけど心が動いたのはゼロ。」
「信じることを、忘れたのかもね。」
二人は扉を押した。
クローク。
灯り、音、動き。
舞台裏の空気が熱を帯びていた。
リカはコートを預けるだけのつもりだった。
でも――目に入った。
彼。
エイリッド。
カウンターの向こうで、まるで指揮者のように動いていた。
誰もが慌ただしく動く中、彼だけがリズムを支配していた。
コートがハンガーに掛かるたび、音が小さく響く。
一つ一つが、完璧に計算された動作だった。
サオリが囁く。
「見た? あの人……」
「見てる。」
「何を?」
「全部。」
彼は視線を上げ、
二人と目が合うと、ほんの僅かに頷いた。
リカがコートを渡す。
その瞬間、彼のノートに二つの線が走る。
「R=速い話し方、呼吸安定、目が鋭い。」
「S=左手ポケット、緊張隠し。」
「面接に来てたわよね?」
「いいえ。列にはいましたけど。」
「待てなかったの?」
「聞かれたいことを、聞かれないって分かってたから。」
「もし聞かれてたら?」
「……たぶん、ここには来なかった。」
サオリが吹き出す。
「変わってるね。」
「いいえ、」とリカは答える。
「彼、演じてないのよ。」
その瞬間、舞台裏から何かが落ちる音がした。
観客がざわめき、金属の響きが走る。
エイリッドは一歩で動いた。
カウンターを越え、落下する衣装を掴み、静かに戻る。
誰も気づく前に、すべてが元に戻った。
サオリが息を呑む。
「反射神経……?」
「いいえ、」とリカ。
「経験よ。」
彼は再び立ち、穏やかに作業を続けた。
その鏡の中、反射が一瞬遅れて追いついた。
まるで舞台そのものが、彼を主役として認めたかのように。
観客が減り、空気が落ち着く。
リカが近づく。
「CRYSTAの人間だって、分かってたの?」
「ええ。ロゴが見えたので。」
「それで興味が?」
「ただ、聞いてみたかったんです。
CRYSTAって、試合以外に何をしているのか。」
サオリが笑う。
「何でもやってるよ。大会、広告、コーヒーまで。」
「“CRYSTA Blend”、ですね。」
その名を口にする声が、なぜか柔らかく響いた。
リカが微笑む。
「よく見てるのね。」
「あなたは?」
「人事部。私は夢の仕分け、サオリは夢の管理。」
「つまり、才能じゃなくて、耐久力を選ぶんですね。」
「その通り。」
「なら、天才は一週間で燃え尽きる。」
「ええ。CRYSTAに必要なのは勝者じゃない。形を保てる人。」
「――形。」
その言葉が、彼の中で何かを鳴らした。
「形を保てないけど、テンポを聴ける人は?」
リカが目を細める。
「そういう人は、プレイヤーじゃなくなるわ。
でも、選手を“見られる”人にはなれる。」
「アナリスト?」
「あるいは、舞台監督ね。」
「なるほど。eスポーツも劇場と同じ。
ただ、幕が無いだけだ。」
サオリが吹き出し、リカが静かに笑う。
遠くでチャイムが鳴り、幕間が始まった。
観客が再び押し寄せ、喧騒が戻る。
けれどその一瞬――
彼女たちは確かに感じた。
グレーのベストを着た男が、
舞台の外で、世界のリズムを指揮しているのを。




